日本の支配層の中には、朝鮮半島への差別意識がずっと息づいてきた、と私は考えている。秀吉の朝鮮侵略の背後には、日本古代に於ける意識的な朝鮮への蔑視がある。
しかし民衆には、そういった意識はなかったはずだ。というのも、大陸からの渡来民の方が、縄文時代から生きてきた人びとよりもずっと数が多いからだ。大陸にルーツをもつ人びとは、朝鮮半島への蔑視はなかったはずである。
秀吉の朝鮮侵略後、家康は朝鮮との国交を回復させた。その証しとして、朝鮮通信使が何度か日本へ来ている。今これが近世における日朝の交流だと評価しているが、一面私も評価しつつ、しかし幕府は朝鮮通信使をたとえば京都の「耳塚」に案内するなど、幕府自体は差別的な対応を行っていた。そしてそのような差別的な意識は民衆の間に流布させるようなこともしていた。
もちろん、朝鮮への蔑視が民衆の間に広まったのは、近代以降である。維新政府は当初から朝鮮半島を自らの支配下におくべく、1875年の江華島事件、翌年の日朝修好条規をまず結んだ。この条規は、日本が欧米に強いられた不平等条約と同じであった。つまり自らの頬を叩いた者ではなく、自らよりも弱いと思われた者に、今度は日本がその頬を叩いたのである。力あるものにはへりくだり、弱そうな者には尊大にふるまう、悲しき日本の性である。
現在の安倍政権は、その性を持ち、さらにそれを露骨に示す。
話は戻って、近代以降、朝鮮への差別意識、蔑視は民衆の間に広まっていった。その端的な現れが1923年9月の関東大震災に於ける朝鮮人の虐殺である。メディアも、根拠もないのに、朝鮮人が集団で襲撃してくるとか、井戸に毒を入れたとか、そういう噂を活字にした。メディアも、朝鮮人虐殺に力を貸したのである。民衆の対朝鮮蔑視と、メディアの扇動とがあいまって、朝鮮人虐殺が行われたのである。
差別的言動は、権力者が行うと、民衆は権力のお墨付きを得たとばかりに、それを真似する。蔑視は劣情である。その劣情を、権力が増幅させるのだ。
差別はいけないことだという認識は誰にでもある。だから自制する。だが権力が差別を公然化すると、民衆は自制しなくなる。
現在の日本は、劣情をもった権力者が、堂々と差別的言動を繰り広げる。本来ならば、メディアがそれを批判するべきなのであるが、日本のメディアは、その権力者と足並みを揃えて民衆の劣情を刺激する。
劣情は劣情なのだ。理性を持った人びとは、言っていいことと言ってはいけないことが弁別できるがゆえに表に出さない。ところが今の日本の宰相は、理性を持たない。劣情がそのまま吐露されるのである。その宰相の姿を見て、理性なき者たちが一斉に劣情を表面化する。それをメディアが追いかける。
日本は劣情表出の国となった。それはこの問題だけではなく、カネ儲けのためなら何でもやる。どういう手段でもカネが儲かれば良いのだという風潮。それは日本の経済界が権力者とともに日常的に行っていることだ。民衆も、オレもそうしようと平気で人を騙すようなことをする。それは政府・権力者が行っていることだ。
かくて日本は劣情丸出しの国となった。劣情国家日本の誕生である。これが「美しい国・日本」なのである。