井上ひさしは、様々な人に関する戯曲を書いている。井上ひさしのそうした本を、私は何冊か買っているが、この本も確か買ってあったと思ってさがしたが発見できず、やむなく図書館から借りだした。
『組曲虐殺』は、小林多喜二である。
井上が歴史上の人物を取りあげたとき、井上がその人物の何を描こうとしているのかを知るのは面白い。私がそうした人物を人物史として取りあげるときには、必ず井上の戯曲を読む。
小林多喜二については、この個所が重要ではないかと思った(137頁)。
・・絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか(( )内略)・・・いや、いないことはない。
これが多喜二という人間の特質ではないかと思う。何冊か多喜二に関する本を読み、全集を読みはじめているこのとき、この個所が多喜二という人物を表現する個所だと思った。多喜二こそ、「橋渡しをする人」になろうとしたのではないか。
そして多喜二の文学は、といえば、この個所が重要ではないか(179頁)。
世の中にモノを書くひとはたくさんいますね。でも、そのたいていが、手の先か、体のどこか一部分で書いている。体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけちょっと突っ込んで書く。それではいけない。体ぜんたいでぶつかっていかなきゃねえ。
これが多喜二文学の真骨頂だと、井上は考えたのだろう。
この二つの文で、多喜二という人間と、その文学の特徴がわかるというものだ。
『組曲虐殺』は、小林多喜二である。
井上が歴史上の人物を取りあげたとき、井上がその人物の何を描こうとしているのかを知るのは面白い。私がそうした人物を人物史として取りあげるときには、必ず井上の戯曲を読む。
小林多喜二については、この個所が重要ではないかと思った(137頁)。
・・絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか(( )内略)・・・いや、いないことはない。
これが多喜二という人間の特質ではないかと思う。何冊か多喜二に関する本を読み、全集を読みはじめているこのとき、この個所が多喜二という人物を表現する個所だと思った。多喜二こそ、「橋渡しをする人」になろうとしたのではないか。
そして多喜二の文学は、といえば、この個所が重要ではないか(179頁)。
世の中にモノを書くひとはたくさんいますね。でも、そのたいていが、手の先か、体のどこか一部分で書いている。体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけちょっと突っ込んで書く。それではいけない。体ぜんたいでぶつかっていかなきゃねえ。
これが多喜二文学の真骨頂だと、井上は考えたのだろう。
この二つの文で、多喜二という人間と、その文学の特徴がわかるというものだ。