小林多喜二について、11月に語らなければならない。若い頃から、いつか多喜二を研究してみたいと思っていたが、それが出来なかった。人びとの前で語るという義務を課さないと、なかなか出来ないものだ。
昨日からその準備を始めた。すでに私が持っている文献は袋の中にまとめて入れてある。それらを読みこなしていく訳だが、三浦綾子の『母』はもっていなかった。それが昨日届き、早速読んだ。
三浦綾子はクリスチャンである。クリスチャンである三浦がなぜ多喜二に関するものを書いたのか。1933年に虐殺された多喜二を、イエス・キリストの死と二重写しにみたからだ。多喜二の周辺にはクリスチャンが多い。母小林セキも、クリスチャンになった。
この本は、母セキが多喜二について語るというかたちで、セキと多喜二の生を描く。
ここに描かれた多喜二は、聖人のような人物だ。人格的に非の打ち所がない。優しく、明るく、他者を決して手段として扱うことはなく、貧しき人のためにあるべき社会を目ざしてひたすら生きた。
こうした人物像を、セキの目を通して描いたのだが、三浦はセキから話を聞いたわけではない。多喜二の作品などを読み、それらをもとに、多喜二像をつくりあげたのである。
三浦綾子の多喜二をみる眼は、母セキのそれでもある。三浦が、慈愛を以て多喜二を描くためには、母セキの眼が必要だったのだろう。
多喜二を、私自身がどう捉えるか。ひたすら読み考えるしかない。三浦が描く多喜二が、多喜二そのものであったなら、多喜二を人間としてあるべき者として描くしかないだろう。
共産党員にはいろいろな人がいるが、三浦が描く多喜二は、そのなかで卓越したあるべき党員であるだろう。現実の共産党員たちに辟易することもある私は、共産党員としての多喜二をどう考えるか。曇のない眼でみつめていきたい。
なおこの『母』は、あまりに多喜二がすばらしい人間なので、途中、途中でたちどまってしまった。
よい本である。
昨日からその準備を始めた。すでに私が持っている文献は袋の中にまとめて入れてある。それらを読みこなしていく訳だが、三浦綾子の『母』はもっていなかった。それが昨日届き、早速読んだ。
三浦綾子はクリスチャンである。クリスチャンである三浦がなぜ多喜二に関するものを書いたのか。1933年に虐殺された多喜二を、イエス・キリストの死と二重写しにみたからだ。多喜二の周辺にはクリスチャンが多い。母小林セキも、クリスチャンになった。
この本は、母セキが多喜二について語るというかたちで、セキと多喜二の生を描く。
ここに描かれた多喜二は、聖人のような人物だ。人格的に非の打ち所がない。優しく、明るく、他者を決して手段として扱うことはなく、貧しき人のためにあるべき社会を目ざしてひたすら生きた。
こうした人物像を、セキの目を通して描いたのだが、三浦はセキから話を聞いたわけではない。多喜二の作品などを読み、それらをもとに、多喜二像をつくりあげたのである。
三浦綾子の多喜二をみる眼は、母セキのそれでもある。三浦が、慈愛を以て多喜二を描くためには、母セキの眼が必要だったのだろう。
多喜二を、私自身がどう捉えるか。ひたすら読み考えるしかない。三浦が描く多喜二が、多喜二そのものであったなら、多喜二を人間としてあるべき者として描くしかないだろう。
共産党員にはいろいろな人がいるが、三浦が描く多喜二は、そのなかで卓越したあるべき党員であるだろう。現実の共産党員たちに辟易することもある私は、共産党員としての多喜二をどう考えるか。曇のない眼でみつめていきたい。
なおこの『母』は、あまりに多喜二がすばらしい人間なので、途中、途中でたちどまってしまった。
よい本である。