浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

キスリング

2019-09-07 22:20:07 | その他
 岡崎市の美術博物館で開催されているキスリング展に行った。この展覧会は東京から巡回していたものだが、東京は人が多すぎてゆっくり見ることも出来ない。しかし岡崎は少なくてほっとした。

 キスリングの絵は、一目見ればすぐわかる個性的なものだ。しかし私は今までじっくりとキスリングの絵を見たことはなかった。またキスリングの展覧会もはじめてだ。

 いうまでもないことだが、画家というのはどういうものでも描けるものだが、それを乗り越えて誰もが描かないものに到達してこそ画家になることができる。キスリングは早くからその境地に達していたようだ。

 キスリングの絵は、濃厚で、クリアで、カラフル。その代表的なものが花の絵だ。絵の具をべったりと塗った重厚な絵は、花弁さえもが厚みをもったものになる。しかし、キスリングはそういうものばかり描いたわけではなく、淡泊なものもある。色を少なくして淡泊に仕上げる。

 人物画はきわめて特徴的である。クリアな服、クリアな顔、しかし顔の表情は決してクリアではない。眼はどこかを見ているようで見ていない。なにごとかを考えているのか、しかし考えていたとしても、それは楽しいことではない。心ここにあらず、という表情だ。心のなかは、アンクリア。クリアとアンクリアの統一。

 キスリングの絵は、心の安定を誘うものではない。花の絵はカラフルで濃厚、見る者に迫ってくる。風景画はどこか寂しい。人物画は、心の不安定を描き、それをみる者を落ち着かせない。

 19世紀末から20世紀半ばまでの人生。いつ頃どういう絵を描いたのかを調べていけば、キスリングという人物と絵の関係がわかるのだろうが、今、そういうゆとりはない。

 クリアは、アンクリアがあるからこそクリアが際立つ。緻密さも、散漫さがあってこそ目を引くのだ。対立物の統一、キスリングの絵をみながら、そう思った。

 芸術は、人間に様々なインパクトを与える。そのインパクトを受けながら、人間は新たな自分自身を発見する。人間の可能性は底知れないのである。

 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展ーその後」が中止となっているが、それに抗議した者どもは、おそらく芸術と無縁な世界に生きているのだろう。芸術を芸術として見ることが出来ない貧相な人びと。そうはいっても、そういう人でも、実際に絵画を見れば、みずからを成長させることができただろうに。

 絵画や音楽は、それぞれの精神世界を大きく広げ羽ばたかせる。そういう体験は、とても大切だと思う。

 今私は、「愛の挨拶」を聴いている。夜、こういう音楽を聴くと、心が落ち着いていく。キスリングの人物画の不安な表情を、これで相殺するのだ。

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