亡くなられた軍事史学者・藤原彰氏の従軍記。藤原彰氏は父が陸軍であったことから、陸軍士官学校に入学、その後は陸軍の中堅将校として中国戦線に。最後は本土決戦のための大隊長として終戦を迎えた。
その経緯が書かれたのが本書である。藤原氏の著書はたくさんあるが、なぜそういう研究をしたのかが、本書を読めばわかる。
『餓死した英霊たち』は、氏が実際に体験した経験をきちんと調べたものだ。日本の陸軍は拙劣な戦い方を兵士に強いた。その一つは、兵站の軽視である。日本陸軍は、前線の兵士に、食糧や武器・弾薬など送るべきものを送っていなかった。したがってそこから二つの問題が発生する。一つは掠奪である。食糧は住民から奪うしかない。しかし日本兵が次から次へと奪っていけば、後から来た兵士には奪うものがなくなってしまう。そうなると、兵士は栄養失調、ひどい場合は餓死せざるを得ない。まさにそうなった。
中隊長であった藤原氏は、実際にそれを体験した。戦争栄養失調症を原因とした戦病死が多数にのぼったのである。また戦傷のために野戦病院に行ったとき、氏は何の治療もされなかったが、そこにいた戦傷病者の兵士たちが次々と亡くなっていくことを知った。戦闘部隊は住民から食糧を掠奪できるが、野戦病院に関わる部隊はそれが出来ず、患者である兵士に食糧を供給できないのである。もちろん医薬品も兵站の一環であるから、兵站軽視の日本軍の場合、医薬品も圧倒的に不足していたのである。
いったい日本陸軍の指導部は、兵士を何と思っていたのだろうか。兵士に満足な食糧さえ与えることができない日本軍が、占領地の住民に安定した生活を保障することなんかあり得なかった。
その日本軍部隊には、今、ネトウヨなどが掲げている「旭日旗」があった。
この本には、なぜ氏が天皇制について研究を行ったのか、その契機も記されている。「天皇陛下のために」といって多くの兵士が亡くなっていった。しかし戦争が終わったとき、天皇はそうした「臣民」のことを考えず、「朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り」(「終戦の詔書」)と「ケロッとしている」(187頁)。それに氏は強烈な違和感をもった。
とても良い本である。
その経緯が書かれたのが本書である。藤原氏の著書はたくさんあるが、なぜそういう研究をしたのかが、本書を読めばわかる。
『餓死した英霊たち』は、氏が実際に体験した経験をきちんと調べたものだ。日本の陸軍は拙劣な戦い方を兵士に強いた。その一つは、兵站の軽視である。日本陸軍は、前線の兵士に、食糧や武器・弾薬など送るべきものを送っていなかった。したがってそこから二つの問題が発生する。一つは掠奪である。食糧は住民から奪うしかない。しかし日本兵が次から次へと奪っていけば、後から来た兵士には奪うものがなくなってしまう。そうなると、兵士は栄養失調、ひどい場合は餓死せざるを得ない。まさにそうなった。
中隊長であった藤原氏は、実際にそれを体験した。戦争栄養失調症を原因とした戦病死が多数にのぼったのである。また戦傷のために野戦病院に行ったとき、氏は何の治療もされなかったが、そこにいた戦傷病者の兵士たちが次々と亡くなっていくことを知った。戦闘部隊は住民から食糧を掠奪できるが、野戦病院に関わる部隊はそれが出来ず、患者である兵士に食糧を供給できないのである。もちろん医薬品も兵站の一環であるから、兵站軽視の日本軍の場合、医薬品も圧倒的に不足していたのである。
いったい日本陸軍の指導部は、兵士を何と思っていたのだろうか。兵士に満足な食糧さえ与えることができない日本軍が、占領地の住民に安定した生活を保障することなんかあり得なかった。
その日本軍部隊には、今、ネトウヨなどが掲げている「旭日旗」があった。
この本には、なぜ氏が天皇制について研究を行ったのか、その契機も記されている。「天皇陛下のために」といって多くの兵士が亡くなっていった。しかし戦争が終わったとき、天皇はそうした「臣民」のことを考えず、「朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り」(「終戦の詔書」)と「ケロッとしている」(187頁)。それに氏は強烈な違和感をもった。
とても良い本である。