今日、『週刊金曜日』9月21日号が届いた。コラム「風速計」には、発行人北村肇氏の文、発行人をやめる、『週刊金曜日』を去るとのこと。
また編集後記としての「金曜日から」でも、退職するという記事があった。そういえば、最近の「金曜日から」には、「このほど退職します」と書いてあった文が続いていた。いったい何人が去っていったのだろうか。
おそらく『週刊金曜日』を購読する人が減っているのだろう。それも大幅に。
書店に行けば、ネトウヨ的な雑誌が積まれている。こんなにも積まれているということは、よく売れるということなのだろう。『新潮45』が、ネトウヨの杉田某に書かせ、さらにその記事に問題がないかのような居直りをしているのは、よく売れるネトウヨ雑誌へと変えようとしているのだと推測される。
品性の下劣な雑誌が売れて、真面目に政治や社会のことを報じる雑誌の購読者が減っていく。それが日本の現状なのだろう。経済的に貧しくなっているだけではなく、知性も品性も貧しくなっている、それを出版業界が後押しするという驚くべき時代に、日本は入りこんでいるのだ。
しかしそういうネトウヨ雑誌を読む人々だけではなく、その反対側にいる人たちも知性を衰退させているように思う。いろいろな政治的、社会的問題が起こったときに、どう考えたらよいのかを、自らが主体的に学び考え
る習慣がなくなっている。人に尋ねることはするが、みずから本を読んだりはしない。依存体質なのだ。
だから『週刊金曜日』も、部数が伸びないのだ。
私にとっては、『週刊金曜日』は読み捨てにする雑誌である。いろいろな雑誌を読んでいるが、保存しておこうという気持ちをもたないのが、『週刊金曜日』である。『現代思想』、『Journalism』、『世界』は捨てない。時々購入する『法学セミナー』や『法律時報』も捨てない。『週刊金曜日』だけは、読んだら捨てていく。
この違いは何か、といえば、『週刊金曜日』が資料的価値を持たないからだ。掲載されている論考も中途半端な内容のものが多い。週刊誌という特徴から、長文の原稿を避けているのだろうが、心にしみ込むような内容のものがほとんどない。
『週刊金曜日』発刊の時に編集長だった和多田進さんに依頼されて、本多勝一や筑紫哲也両氏の講演会を開催したことがあった。もちろんその後も長い間『週刊金曜日』を購読していたが、購読をやめた時期がある。その理由は、掲載されている記事の内容が浅い(報じることに力点がおかれ、考える材料を提供するということが疎かになっている)、資料的価値がない、ということだった。
今購読している理由は、そうした傾向がなくなったからではなく、時に知らなかった事件が報じられるからだ。今週号で言えば、たとえば城西大学の内紛。
編集委員となっている方々は、もっと書くべきではないか。毎号、本多勝一氏と石坂啓氏、佐高信氏が書いているが、石坂、本多両氏の文は全く読まない。
メールでもいいから、読者に意見を求めたらどうかと思う。購読者数が減ったことなど、編集部内での危機を、読者を含めた危機にしないところに問題があるのではないか。
また編集後記としての「金曜日から」でも、退職するという記事があった。そういえば、最近の「金曜日から」には、「このほど退職します」と書いてあった文が続いていた。いったい何人が去っていったのだろうか。
おそらく『週刊金曜日』を購読する人が減っているのだろう。それも大幅に。
書店に行けば、ネトウヨ的な雑誌が積まれている。こんなにも積まれているということは、よく売れるということなのだろう。『新潮45』が、ネトウヨの杉田某に書かせ、さらにその記事に問題がないかのような居直りをしているのは、よく売れるネトウヨ雑誌へと変えようとしているのだと推測される。
品性の下劣な雑誌が売れて、真面目に政治や社会のことを報じる雑誌の購読者が減っていく。それが日本の現状なのだろう。経済的に貧しくなっているだけではなく、知性も品性も貧しくなっている、それを出版業界が後押しするという驚くべき時代に、日本は入りこんでいるのだ。
しかしそういうネトウヨ雑誌を読む人々だけではなく、その反対側にいる人たちも知性を衰退させているように思う。いろいろな政治的、社会的問題が起こったときに、どう考えたらよいのかを、自らが主体的に学び考え
る習慣がなくなっている。人に尋ねることはするが、みずから本を読んだりはしない。依存体質なのだ。
だから『週刊金曜日』も、部数が伸びないのだ。
私にとっては、『週刊金曜日』は読み捨てにする雑誌である。いろいろな雑誌を読んでいるが、保存しておこうという気持ちをもたないのが、『週刊金曜日』である。『現代思想』、『Journalism』、『世界』は捨てない。時々購入する『法学セミナー』や『法律時報』も捨てない。『週刊金曜日』だけは、読んだら捨てていく。
この違いは何か、といえば、『週刊金曜日』が資料的価値を持たないからだ。掲載されている論考も中途半端な内容のものが多い。週刊誌という特徴から、長文の原稿を避けているのだろうが、心にしみ込むような内容のものがほとんどない。
『週刊金曜日』発刊の時に編集長だった和多田進さんに依頼されて、本多勝一や筑紫哲也両氏の講演会を開催したことがあった。もちろんその後も長い間『週刊金曜日』を購読していたが、購読をやめた時期がある。その理由は、掲載されている記事の内容が浅い(報じることに力点がおかれ、考える材料を提供するということが疎かになっている)、資料的価値がない、ということだった。
今購読している理由は、そうした傾向がなくなったからではなく、時に知らなかった事件が報じられるからだ。今週号で言えば、たとえば城西大学の内紛。
編集委員となっている方々は、もっと書くべきではないか。毎号、本多勝一氏と石坂啓氏、佐高信氏が書いているが、石坂、本多両氏の文は全く読まない。
メールでもいいから、読者に意見を求めたらどうかと思う。購読者数が減ったことなど、編集部内での危機を、読者を含めた危機にしないところに問題があるのではないか。
ほんとにテレビなんか見ないで正解だと思っているのだが、時々権力に従順な輩に対して、鋭く抗議する方々もいるんだ。
八代弁護士と千原せいじが消費税で「たかだか2%」と暴論はき総スカン! 遙洋子は八代に「権力に従順な男やのぉ」
八代弁護士と千原せいじが消費税で「たかだか2%」と暴論はき総スカン! 遙洋子は八代に「権力に従順な男やのぉ」
アベ応援団の一人である小川栄太郎なる人物が書いた文は、一般の出版物に載せるべきではない。人権意識は微塵もなく、杉田を擁護するために万人が認めないようなことを平気で並べている。
新潮社に、こういうものを特集し、載せる輩がいるんだ。ずっと購読していた『芸術新潮』、近年、特集の内容が変化してきたので購読をやめたのだが、わたしはそこにも販売部数を増やしたいという意思を感じていた。ひょっとして、販売部数を増やせという命令があるのかもしれない。
出版社が、本が売れなくなっているので、どこでも低劣な本を出すようになっているような気がする。あの岩波書店でも、である。栗原康の本なんか、低劣極まりない。
新潮社公式アカウントが「新潮45」批判を怒涛のリツイート 「中の人がんばって」の声援寄せられる
新潮社に、こういうものを特集し、載せる輩がいるんだ。ずっと購読していた『芸術新潮』、近年、特集の内容が変化してきたので購読をやめたのだが、わたしはそこにも販売部数を増やしたいという意思を感じていた。ひょっとして、販売部数を増やせという命令があるのかもしれない。
出版社が、本が売れなくなっているので、どこでも低劣な本を出すようになっているような気がする。あの岩波書店でも、である。栗原康の本なんか、低劣極まりない。
新潮社公式アカウントが「新潮45」批判を怒涛のリツイート 「中の人がんばって」の声援寄せられる
前文部次官の前川喜平氏が、以下のような文を書いている。
手抜き授業をする「部活大好き教師」は辞めよ 前川喜平氏が示す「部活動改善」の方策とは?
だが表題のことについては、末尾に少し書いているだけだ。
今ごろこう書いても、あなたが在職している長い間に、学校教育に於ける部活動の地位は上がり続け、部活動により学校行事のスケジュールが決められ、どこの学校も、部活動優先型になってしまっている。
部活動をやるために教員になったという者はすでにたくさんいて、授業はいい加減で、どうしようもない輩がたくさん勤務している。彼らから部活動をとったら、もぬけの殻になってしまうだろう。
学校では、部活動をするために登校してくる生徒と、部活動をしたいために教員になった者とがタッグを組み、あらゆる学校関係のカネを自分たちだけで費消し、部活動をしているだけで学校を卒業できるシステムをつくりあげている。
しかし不思議なのは、これだけ運動部の部活動が全国的に存在し、長時間練習を重ねているのに、世界的に見れば、日本のスポーツはそんなに強いわけではない。
それは部活動のやり方が、最初から最後まで「根性」をもとにした、まったく非科学的な方法に終始しているからではないだろうか。部活動の顧問も、また子どもたちも、スポーツを「根性」を鍛えるものとしてみている。それは実業界でも同じで、部活動を熱心に取り組んできた者を、会社は採用したがる。
部活動は、日本の学校教育を蝕むガンのようなものだ。
しかしなくならないだろうなあ。
手抜き授業をする「部活大好き教師」は辞めよ 前川喜平氏が示す「部活動改善」の方策とは?
だが表題のことについては、末尾に少し書いているだけだ。
今ごろこう書いても、あなたが在職している長い間に、学校教育に於ける部活動の地位は上がり続け、部活動により学校行事のスケジュールが決められ、どこの学校も、部活動優先型になってしまっている。
部活動をやるために教員になったという者はすでにたくさんいて、授業はいい加減で、どうしようもない輩がたくさん勤務している。彼らから部活動をとったら、もぬけの殻になってしまうだろう。
学校では、部活動をするために登校してくる生徒と、部活動をしたいために教員になった者とがタッグを組み、あらゆる学校関係のカネを自分たちだけで費消し、部活動をしているだけで学校を卒業できるシステムをつくりあげている。
しかし不思議なのは、これだけ運動部の部活動が全国的に存在し、長時間練習を重ねているのに、世界的に見れば、日本のスポーツはそんなに強いわけではない。
それは部活動のやり方が、最初から最後まで「根性」をもとにした、まったく非科学的な方法に終始しているからではないだろうか。部活動の顧問も、また子どもたちも、スポーツを「根性」を鍛えるものとしてみている。それは実業界でも同じで、部活動を熱心に取り組んできた者を、会社は採用したがる。
部活動は、日本の学校教育を蝕むガンのようなものだ。
しかしなくならないだろうなあ。
『新潮45』という雑誌、私は一度も買ったことがない。杉田水脈という国会議員の恥ずべき言説を掲載したことで有名になっているが、この雑誌のネトウヨ的傾向は、発行部数の減少を止めるための手段であったようだ。
ネトウヨは、言説の根拠や妥当性、あるいは普遍性などいっさい無視して、おのれの知性や品性の下劣さと波長が合うようなメディアにとびつく傾向がある。
『新潮45』は、読者層としてそういう人に焦点を絞ったようなのだ。
「倒錯的で異常」など類を見ないLGBT叩きに舵を切った「新潮45」、販売部数激減で休刊の危機が背景に
新潮45「杉田論文特集」が”炎上商法”で売り上げ倍増 記述間違いに「校閲部チェックは?」の声も
『新潮45』、売れたようですね。今は購読していないけれども『芸術新潮』のようなよい雑誌を出している新潮社が、こういうものを出版するとは。もうボイコットしかないな。
ネトウヨは、言説の根拠や妥当性、あるいは普遍性などいっさい無視して、おのれの知性や品性の下劣さと波長が合うようなメディアにとびつく傾向がある。
『新潮45』は、読者層としてそういう人に焦点を絞ったようなのだ。
「倒錯的で異常」など類を見ないLGBT叩きに舵を切った「新潮45」、販売部数激減で休刊の危機が背景に
新潮45「杉田論文特集」が”炎上商法”で売り上げ倍増 記述間違いに「校閲部チェックは?」の声も
『新潮45』、売れたようですね。今は購読していないけれども『芸術新潮』のようなよい雑誌を出している新潮社が、こういうものを出版するとは。もうボイコットしかないな。
世界中の人々が、金儲けを企む。金が儲かるならとある産業に参入し、儲からなくなったらあとは知らないよと撤退する。
シェア自転車、中国で始まったこの業界。次々と参入し、次々と撤退していった。そのあとに、厖大な自転車が捨てられ、放置され、それが「美しい」(?)模様をつくりだした。
資本主義化を推進してきた中国、かつて人民服を着ていた中国の民衆が豊かになり、みずからの生活を飾り立てるだけでなく、より儲けようと資本主義の市場に入りこみ、無秩序をつくりだす。資本主義というものは、ほんとうは人間にとって罪であることがわかる。
花畑?実は無残な「墓場」 中国、崩壊したシェアバブル
シェア自転車、中国で始まったこの業界。次々と参入し、次々と撤退していった。そのあとに、厖大な自転車が捨てられ、放置され、それが「美しい」(?)模様をつくりだした。
資本主義化を推進してきた中国、かつて人民服を着ていた中国の民衆が豊かになり、みずからの生活を飾り立てるだけでなく、より儲けようと資本主義の市場に入りこみ、無秩序をつくりだす。資本主義というものは、ほんとうは人間にとって罪であることがわかる。
花畑?実は無残な「墓場」 中国、崩壊したシェアバブル
夕顔が真っ盛りである。わが家のフェンスに、毎夜、白い夕顔がいっぱい咲く。
毎年、多くの人に夕顔の苗をあげているが、あげた方からたくさん咲いています、ということばが来る。
夕顔をあげた方から、来年も苗が欲しいという声と共に、夕顔の美しさを知ったその近所の方も欲しいと言っているから、来年はもっとください、といわれる。
今年は100くらい苗をつくり配った。来年はもっとつくらなければならないようだ。もちろん無料であげている。
夕顔の美しさ、昼間の喧騒を避け、夜しか咲かない夕顔、月の光を浴びて静かに咲き続ける。
今日は休養日である。
一昨日、昨日と、とても忙しかった。15日は朝から静岡へ、16日は名古屋へ。いずれも1923年9月16日に起きた虐殺事件に関わっての行事に参加するためだ。
今日は夕方までゆっくりしていた。その後畑へ。
久しぶりの畑は、雑草がいっそう伸びていた。さつまいもの苗は思う存分伸び、また小豆も同様だ。落花生は網に覆われて畑の一角を占める。
ナス、オクラ、ピーマン、ゴーヤーはまだ収穫できるが、その量は少ない。秋に植える野菜のために、場所をつくらねばならない。すでに大根のタネは蒔き、芽が出て来ている。ブロッコリーの苗は少しずつ生長している。これから畑仕事が増えていく。
農業は、自然の移ろいにさからわず、自然と協調して行われる生業だ。時として猛威を振るって農業人を困らせることがあるが、しかし畑からみる夕焼けはいつみても素晴らしい。
今日も、18時頃、もうこの頃から暗くなる、西の空を中心に展開する日没は、わたしの目を奪う。濃いピンクに覆われ、ところどころに、黒い雲、あるいは白っぽい雲、どうして自然はかくも美しい彩りを創り出すことが出来るのか。
畑仕事は、作物の収穫も喜びだが、自然との交歓も魅力である。ヘビが出て来たり、蛙やクモ、イナゴ、トンボ、生きとし生けるもの、この世界は人間だけの住み家ではないことを教えてくれる。
人間は、過度に驕り高ぶる生物である。
見よ、今日もこの美しい空に、爆音を轟かせて自衛隊機が飛ぶ。自然を破壊する、戦争準備の悪魔の鳥が・・・。
一昨日、昨日と、とても忙しかった。15日は朝から静岡へ、16日は名古屋へ。いずれも1923年9月16日に起きた虐殺事件に関わっての行事に参加するためだ。
今日は夕方までゆっくりしていた。その後畑へ。
久しぶりの畑は、雑草がいっそう伸びていた。さつまいもの苗は思う存分伸び、また小豆も同様だ。落花生は網に覆われて畑の一角を占める。
ナス、オクラ、ピーマン、ゴーヤーはまだ収穫できるが、その量は少ない。秋に植える野菜のために、場所をつくらねばならない。すでに大根のタネは蒔き、芽が出て来ている。ブロッコリーの苗は少しずつ生長している。これから畑仕事が増えていく。
農業は、自然の移ろいにさからわず、自然と協調して行われる生業だ。時として猛威を振るって農業人を困らせることがあるが、しかし畑からみる夕焼けはいつみても素晴らしい。
今日も、18時頃、もうこの頃から暗くなる、西の空を中心に展開する日没は、わたしの目を奪う。濃いピンクに覆われ、ところどころに、黒い雲、あるいは白っぽい雲、どうして自然はかくも美しい彩りを創り出すことが出来るのか。
畑仕事は、作物の収穫も喜びだが、自然との交歓も魅力である。ヘビが出て来たり、蛙やクモ、イナゴ、トンボ、生きとし生けるもの、この世界は人間だけの住み家ではないことを教えてくれる。
人間は、過度に驕り高ぶる生物である。
見よ、今日もこの美しい空に、爆音を轟かせて自衛隊機が飛ぶ。自然を破壊する、戦争準備の悪魔の鳥が・・・。
一昨日届いた『DAYS JAPAN』10月号。沖縄が特集されているこの号に、翁長雄志前沖縄県知事が折に触れて語っていたことばが掲載されていた。
これほどまでに、琉球処分以降、いや薩摩藩の侵攻以降、これほどまでに本土・日本が琉球・沖縄を差別し、まさに「虐待」し続けているのに、沖縄に住んでいる人々にとって満足できる状態がつくられず、辺野古における新基地建設によりさらに100年以上も基地の重圧にサラされるという信じられない暴挙が企てられようとしている。
それに果敢に立ち向かった翁長さんは、ガンに斃れた。その翁長さんのことばは、含蓄のあることばばかりだ。
自国民の自由、平等、人権、民主主義、そういったものを守れない国が、どうして世界の国々とその価値観を共有できるのだろうかと、たいへん疑問に思っております。(2015年)
日本の防衛で基地をたくさん置くのではなく、平和の緩衝地帯として沖縄がこれから役割を果たす。沖縄がアジアと日本の架け橋になることを夢見ながら、やっているところであります。(2018年)
今や基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因だ。(2015年)
今の日本のアメリカに対しての従属は、日本国憲法の上に日米地位協定があり、国家の上に日米合同委員会がある。(2018年)
日米地位協定の下では法治国家とはいえない。(2017年)
翁長さんのこうしたことばが大きな力になって、沖縄問題が解決に向けて前へ進むことを願う。
これほどまでに、琉球処分以降、いや薩摩藩の侵攻以降、これほどまでに本土・日本が琉球・沖縄を差別し、まさに「虐待」し続けているのに、沖縄に住んでいる人々にとって満足できる状態がつくられず、辺野古における新基地建設によりさらに100年以上も基地の重圧にサラされるという信じられない暴挙が企てられようとしている。
それに果敢に立ち向かった翁長さんは、ガンに斃れた。その翁長さんのことばは、含蓄のあることばばかりだ。
自国民の自由、平等、人権、民主主義、そういったものを守れない国が、どうして世界の国々とその価値観を共有できるのだろうかと、たいへん疑問に思っております。(2015年)
日本の防衛で基地をたくさん置くのではなく、平和の緩衝地帯として沖縄がこれから役割を果たす。沖縄がアジアと日本の架け橋になることを夢見ながら、やっているところであります。(2018年)
今や基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因だ。(2015年)
今の日本のアメリカに対しての従属は、日本国憲法の上に日米地位協定があり、国家の上に日米合同委員会がある。(2018年)
日米地位協定の下では法治国家とはいえない。(2017年)
翁長さんのこうしたことばが大きな力になって、沖縄問題が解決に向けて前へ進むことを願う。
今日は久しぶりの晴天。とても湿度が高い。そのなか、名古屋に行った。名古屋の気候は決して優しくはない。夏はとりわけ暑い。
今日は、1923年9月16日に大杉栄、伊藤野枝とともに権力に虐殺された橘宗一の墓前祭である。
新幹線で名古屋へ。名古屋から地下鉄東山線で覚王山日泰寺駅へ。名古屋から栄までは、東京の国電(今はJRか)並の混雑である。
下車してから日泰寺までの間にあるコンビニでサンドウィッチなどを購入。日泰寺の門付近の木陰で食事。その後ここからマイクロバスで墓に向かう。日泰寺の墓域はとても広くて、歩いてなんか行けないのだ。
1時前に開始。坊さんの読経するなか献花。
その後、名古屋市栄のYWCAホールで講演会。飛矢崎雅也氏の講演である。大杉の思想を語る。大杉の思想を捉えることはなかなか難しい。どういう切り口から迫るか、その問題意識によっていろいろな側面が見えてくる。講演を聴きながら、どういう点に留意しながら、こうした思想家の思想を分析していくのか、その方法論を考えていた。
講演後の質問の中で、どうして大杉らが虐殺されたのかという質問が出された。飛矢崎さんは、大杉らの生き方、生きるスタイルを、権力は許せなかったのではないか、ということであった。私も部分的にはそれを肯定する。権力を畏怖もせず、自由に動き回る(といっても官憲からはいつも監視されていた)大杉らの生き方を、権力はとても目障りだと思っていたことは確かだろう。しかし一面肯定はしても、しかしそれは推測でしかない。この虐殺については推測するしかないのである。
朝鮮人・中国人の虐殺、平沢計七らの虐殺、そして大杉らの虐殺、それらを総合的に見通すこと、同時にその相違を考えること、さらに日露戦争後の歴史の中に位置づけること、そういうなかできちんと見定めることが必要だろう。しかしそれでも推測であることは間違いのないことだ。決定的な史料は出ていない。
その後、懇親会。19時過ぎ、名古屋を後にした。
今日は、1923年9月16日に大杉栄、伊藤野枝とともに権力に虐殺された橘宗一の墓前祭である。
新幹線で名古屋へ。名古屋から地下鉄東山線で覚王山日泰寺駅へ。名古屋から栄までは、東京の国電(今はJRか)並の混雑である。
下車してから日泰寺までの間にあるコンビニでサンドウィッチなどを購入。日泰寺の門付近の木陰で食事。その後ここからマイクロバスで墓に向かう。日泰寺の墓域はとても広くて、歩いてなんか行けないのだ。
1時前に開始。坊さんの読経するなか献花。
その後、名古屋市栄のYWCAホールで講演会。飛矢崎雅也氏の講演である。大杉の思想を語る。大杉の思想を捉えることはなかなか難しい。どういう切り口から迫るか、その問題意識によっていろいろな側面が見えてくる。講演を聴きながら、どういう点に留意しながら、こうした思想家の思想を分析していくのか、その方法論を考えていた。
講演後の質問の中で、どうして大杉らが虐殺されたのかという質問が出された。飛矢崎さんは、大杉らの生き方、生きるスタイルを、権力は許せなかったのではないか、ということであった。私も部分的にはそれを肯定する。権力を畏怖もせず、自由に動き回る(といっても官憲からはいつも監視されていた)大杉らの生き方を、権力はとても目障りだと思っていたことは確かだろう。しかし一面肯定はしても、しかしそれは推測でしかない。この虐殺については推測するしかないのである。
朝鮮人・中国人の虐殺、平沢計七らの虐殺、そして大杉らの虐殺、それらを総合的に見通すこと、同時にその相違を考えること、さらに日露戦争後の歴史の中に位置づけること、そういうなかできちんと見定めることが必要だろう。しかしそれでも推測であることは間違いのないことだ。決定的な史料は出ていない。
その後、懇親会。19時過ぎ、名古屋を後にした。
創価学会の方々の家々には、必ず公明党のポスターが貼られている。創価学会=公明党は、ファシストのアベと手を組み、アベのために粉骨砕身動いている。
創価学会=公明党は、日本の民主主義と平和の破壊者となっている。
沖縄県知事選で創価学会の大幹部が沖縄入り! 盟友の菅官房長官と連携して玉城デニー潰しのステルス作戦を総指揮か
創価学会=公明党は、日本の民主主義と平和の破壊者となっている。
沖縄県知事選で創価学会の大幹部が沖縄入り! 盟友の菅官房長官と連携して玉城デニー潰しのステルス作戦を総指揮か
昨日の『東京新聞』に、旧暦使用のすすめ、の記事があった。
旧水窪町、今は浜松市に併合されてしまったが、そこに無形文化財の「西浦の田楽」がある。夜夜中、ずっと踊り続けるという芸能である。ずっと若い頃に見たことがあるが、とても感動したことを覚えている。この田楽、今も旧暦で実施している。
盆という行事も、この辺では新暦でやっているが、旧暦でやってるところもある。
記事に、七夕のことも記してあった。
「七夕も今年は8月17日が本来の日だった。季語は秋で、旧暦の七日は上弦の月。夜空を見上げると、東の空にわし座の一等星アルタイル(ひこ星)とこと座の一等星ベガ(織り姫)が輝いている。はくちょう座の一等星デネブ(カササギ)の仲立ちで、両者は一年に一度の逢瀬を楽しむ。だが月は夜十時ごろに沈む。そのときまで見えていなかった天の川が突然現れ、二人の間を遮ってしまう。こうした天体ショーをもとに七夕の話は出来上がっている。」
新暦の7月7日は、梅雨の最中で、星空は見えない。
この話は知ってはいたが、実際にそうした天体ショーがあったことは知らなかった。実際にこの天体ショーを見たら感動したことだろう。しかしたとえ8月17日に夜空を見ても、今はもう星々はほとんど見えなくなっている。文明は、こういうものも消し去った。
旧暦は循環的な暦、新暦は直線的だ。新暦の採用は、一世一元の制と共に、明治になってから採用された。新暦の中で、近代日本は戦争をくり返し、1923年9月16日、大杉栄や伊藤野枝を虐殺した。
広島大学名誉教授金田晉さんは、旧暦を新暦と併用しようという。私も賛成である。旧暦の時代、日本は対外戦争をしていない。
アベ政権になってから、対外戦争の危険が高まっているが、日本の伝統を見つめたい。日本の伝統とは、古代と秀吉の時代を除き、対外戦争がないように、海外派兵はしないのである。
政府は「明治150年」をいうが、その150年の半分は血塗られた時代であった。もっと長いスパンで日本の歴史を見つめ直すことが必要だと思う。
旧水窪町、今は浜松市に併合されてしまったが、そこに無形文化財の「西浦の田楽」がある。夜夜中、ずっと踊り続けるという芸能である。ずっと若い頃に見たことがあるが、とても感動したことを覚えている。この田楽、今も旧暦で実施している。
盆という行事も、この辺では新暦でやっているが、旧暦でやってるところもある。
記事に、七夕のことも記してあった。
「七夕も今年は8月17日が本来の日だった。季語は秋で、旧暦の七日は上弦の月。夜空を見上げると、東の空にわし座の一等星アルタイル(ひこ星)とこと座の一等星ベガ(織り姫)が輝いている。はくちょう座の一等星デネブ(カササギ)の仲立ちで、両者は一年に一度の逢瀬を楽しむ。だが月は夜十時ごろに沈む。そのときまで見えていなかった天の川が突然現れ、二人の間を遮ってしまう。こうした天体ショーをもとに七夕の話は出来上がっている。」
新暦の7月7日は、梅雨の最中で、星空は見えない。
この話は知ってはいたが、実際にそうした天体ショーがあったことは知らなかった。実際にこの天体ショーを見たら感動したことだろう。しかしたとえ8月17日に夜空を見ても、今はもう星々はほとんど見えなくなっている。文明は、こういうものも消し去った。
旧暦は循環的な暦、新暦は直線的だ。新暦の採用は、一世一元の制と共に、明治になってから採用された。新暦の中で、近代日本は戦争をくり返し、1923年9月16日、大杉栄や伊藤野枝を虐殺した。
広島大学名誉教授金田晉さんは、旧暦を新暦と併用しようという。私も賛成である。旧暦の時代、日本は対外戦争をしていない。
アベ政権になってから、対外戦争の危険が高まっているが、日本の伝統を見つめたい。日本の伝統とは、古代と秀吉の時代を除き、対外戦争がないように、海外派兵はしないのである。
政府は「明治150年」をいうが、その150年の半分は血塗られた時代であった。もっと長いスパンで日本の歴史を見つめ直すことが必要だと思う。