アマゾンプライムに、「プラン75」があるというので、早速見た。
以前にもこの映画について書いたことがある。予告編などをみて書いたのだが、今回全部見て、やはり重要な問題を提起している映画だということがわかった。
この「プラン75」という、75歳になったら公権力の手助けによりこの世から去ることができるという制度。「自死」の希望者は自らの意思で死ぬことができるというもので、そこには強制の契機はないが、しかしやはり社会的に「強制」が組み込まれている。その「強制」は巧妙に埋め込まれ、「プラン75」に誘うような契機がたくさんある。いろいろあるだろうが、要するに、老人を貧困と孤独に追いやれば、老人は「プラン75」に応募してくる、応募せざるを得なくなる、というわけだ。
この映画では、孤独と貧困に追いやられた男性と女性が「プラン75」に応募する。いずれも係累がない、あっても疎遠であった。男性は「プラン75」で死んでゆくが、女性(倍賞千恵子)はそこから逃げていく、というか再出発していく。
その男性は、全国各地の土木建設現場で働いていた。橋を作り、トンネルを掘り・・・しかし老齢になってそうした仕事もなくなり、貧困と孤独に追いやられる。
しかし、老人たちは「プラン75」に応募する中で、その仕事を担当している役所の職員とコンタクトをとるようになる。孤独でなくなるのだ。
この映画で、老人をとりまく貧困と孤独をなくすことができるということが示唆される。貧困は公的機関が金を出せばすむことである。男性と女性も、高齢になるまでずっと働いてきた。給料を得てきた、ということだから、様々な税を負担してきたはずだ。高齢になって働けなくなったら、今度は公的機関がその人たちの生活の面倒をみるべきなのだ。そして孤独も、孤独になりがちな老人たちと交流できるシステム、あるいは連絡体制を公的機関がつくればよい。
民生委員という制度がある。私も退職後、民生委員を務めたことがある。毎月一回、必ず一人暮らしの高齢者世帯を訪問し、いろいろ話をしてきた、いや話を聞いてきた。一軒で一時簡以上ということもあったが、それを続けた。しかし私は民生委員の更新をしなかった。市役所や福祉協議会からの仕事が多く、ボランティアではない市役所などの下請け仕事が多く、市の職員を減らした分を無給の民生委員にさせようという魂胆がまるみえだったからだ。しかしやってみて、民生委員は共助という有益な方法であると思った。民生委員のなり手がいないということだが、市役所などからの下請けの仕事をなくせばやってもよいという人も出てくるだろう。
人間が生きるということは、とてもすごいことである。いや人間だけではなく、この地球上に生まれたすべての生きとし生けるものがそれぞれの生を全うすることは、命あるものの使命でもある。そして生きているというだけで、他者に希望を与える存在でもある。
公的機関は、この世から去る手伝いをするのではなく、生きるということの手伝いをするべきなのである。老人は「集団自決するべきだ」というような言説がメディアで報じられる現代。それを言った者もいずれは老人となるし、その人の周囲にも親や祖父母という老人がいるのだろうに。想像力を欠如した者たちに、勝手で、無責任な言辞を吐き出させる場として、テレビがある。そうした彼らと、そのテレビ番組をつくる者たちの精神の貧困こそが問題である。
「プラン75」という架空の制度は、実際には始動している。公的機関の様々な方策がそれを示している。老人は早くいなくなれ・・・という政策が隠されながら展開されている。
日本は、人間が住むところではなくなりつつある。だから人々は子どもをつくらない、少子化が進むのである。生きるに値する社会をつくることが、少子化問題を解決するのである。しかし特権階級の者たちは、それに気づかない。自分たちとその係累を安全な地位に置くということをしているからだ。「世襲」というものが、日本に跋扈している。こういう固定した社会の在り方は、破壊されなければならない。
特定の宗教団体に牛耳られた政権を変えない限り、人々の安寧はやってこないだろう。