新幹線廿日市トンネルの西口にはトンネル点検用の車両があった。安全運転をするために終列車が通ってからトンネル内を点検するのだろうか・・・恐ろしいようなごう音をたてながらトンネル内から列車が疾走してきた。人差し指の運動! ポチッとね!
広電バス佐伯営業所跡の前には3脚の長腰掛が置いてあり、この長腰掛には廿日市の銘酒であった家納喜酒造の「家納喜」の宣伝が表示されている。家納喜酒造は7年位前に廃業されたが「家納喜」は建築の地鎮祭や棟上げなどによく使われていた銘酒であったが・・・人差し指の運動! ポチッとね!
某内科アレルギー科クリニックに今日(12日)の花粉情報が掲示されていた。スギ花粉、ヒノキ花粉症の人達には大変つらい季節だったろうが、もうすぐ花粉の飛散も終末期であろう・・・人差し指の運動! ポチッとね!
大竹市の飛地である奥谷尻集落の出入口境の3ヶ所に祈祷関札が立ててあった。昔は医療薬や農薬がないので疫病や病虫害が集落内に入ってこないよう氏神である原神社(旧河内神社)で祈祷して集落の出入口境に立てているようである。正月祭、春日待祭、夏祭、秋例大祭と年4回が現在でも継承され行われており、祈祷関札には「五穀成就疫神退散氏子安全祈処」とあった。人差し指の運動! ポチッとね!
数年前に新築された平良小学校の校舎渡り廊下に取付けられている扉に○×形状の窓があった。低学年のころは○、二重○、三重○を付けてもらっていたが・・・何だか小学生時代のいやな記憶が呼び起こされてきた・・・人差し指の運動! ポチッとね!
今年廿日市二代目桜島大根が出来て現在花が咲いており、この種を実らせて来年は三代目を栽培する予定であるがそのうち一本を掘ってみた。大根の直径はスコップ巾と同じ位であり重さは5.5kgであった。人差し指の運動! ポチッとね!
廿日市市内にある大竹市の飛地、後原地区にある民家土蔵の蔵飾りで唐獅子とボタンの像を漆喰細工で表している。きれいで立派な蔵飾りであるが土蔵は半壊状態であり消滅寸前である。何らかの方法で切り取り保存が出来ればよいのだが・・・人差し指の運動! ポチッとね!
昭和30年代前半位まで葬儀や御講寄りに使用していた講中膳で手前左側がオヤワンといって御飯を、右側がシルワンといって味噌汁、向こう左側はオヒラといって煮しめ、向う右側はオツボといって黒目を入れていたそうである。後にはオヒラにタイコ饅頭やパン、オツボにはすず菓子、オツボの蓋を中央に置いてナカジョコといって白あえを入れるなどと替わっていたようである。人差し指の運動! ポチッとね!
秋掛にある国鉄と広電が共用していた秋中車庫である。昔は廿日市電停前から秋掛、本郷方面に広電バスが通っており、後には広島から通っていた。昭和37年頃には5便往復しており、4便目が秋掛止まりで翌朝の始発便となっていた。人差し指の運動! ポチッとね!
上平良地区にある大歳神社境内にある桜は今が満開でとてもきれいである。桜の名所のように人ごみも無くゆっくりと桜花をめでることが出来る隠れたスポットである。境内には女剣劇の女王不二洋子の寄進した石燈籠が建立されている。人差し指の運動! ポチッとね!
広電バス佐伯営業所跡にはかつての営業所表示がされていた看板が残されている。この表側には20年位前に廃業した地御前の銘酒であった勝谷酒造の「勝力」が表示されているのが現在も残っていた。人差し指の運動! ポチッとね!
宮島サービスエリアに設置されていた道路案内図について昨年12月1日に和気町の誤りがあることを紹介し、3月16日にこれが修正されて和木町になっていたことを紹介した。この道路案内図は平成の大合併後に設置されたものであったが、なぜかこれがもう撤去されているのだ!左右の土の色が変わったところに立てられていたのだが・・・遠くの珍しい白色の桜を良く見えるようにするために取除いたのだろうか・・・なぜ?なぜ? と思う人はポチッとね!
広電郊外バスの佐伯営業所として昭和54年に開設されたもので、平成4年頃には存続していたが後に営業所が廃止されて現在は津田車庫として使用されている。ここからは廿日市市役所前駅、楽々園、日赤看護大学、玖島行きが発着しているようである。人差し指の運動! ポチッとね!
フマキラー㈱の前身である大下回春堂の工場は昭和29年より順次蛭ケ崎新開に建設され操業をしているが、この建物は時代を感じさせるものであり大野町での創業時のものであろうか?・・・人差し指の運動! ポチッとね!
津田地区から浅原方面に向かっていると道路脇に踏切警報機と遮断器があり鉄道が通っているのかと?・・・2箇所も踏切警報機と遮断器が設置してあり奥には貨車も見られるので相当の鉄道マニアのようである。人差し指の運動! ポチッとね!
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