一昨日の“さくらぴあ”での削ろう会プレイベントとして市民ホールでプロによる鉋(かんな)の薄削り実演と素人による体験がされていた。
鉋掛けで木面は鏡のようにツルツルとなり、透き通るような長~い鉋くずができるのである。
このような切れ味を出すためには熟練した鉋刃の研ぎと鉋台の調整が必要のようである。
昨日さくらぴあ大ホールで削ろう会プレイベントとして錦帯橋棟梁のミニ講演会と火天の城の上映があり、市民ホールで木工作品の展示がされていた。
宮島工業高校の生徒により製作された厳島神社大鳥居で、地下部分の木杭も表された両部鳥居の模型が展示されていた。
紅葉谷にある四宮神社の二の鳥居で明神鳥居が石造で建立されている。神額には「四宮神社」とあるが何時築造されたのかは不明である。
三の鳥居は木造の明神鳥居で朱色に塗られており、鳥居の両側には木造の玉垣が取り付けられた一体型の鳥居である。
紅葉谷にある四宮神社の一の鳥居で厳島神社の大鳥居と同じ両部鳥居が石造で建立されている。明治31年(1898)1月に紅葉谷入口で旅館を営業していた岩惣の当主夫妻が寄進建立したもののようである。
資料によると四宮神社は大正期に境外末社の秋葉神社を合祀しているようであるが、なぜか神額には「四之宮神社 大国神社」とある。
廿日市・大野地域への水道水は広島県広島西部地域水道用水供給事業から受水しているようである。四郎峠付近の道路に広島西部地域水道用水の配水管が敷設されているものとみられ広島県のマンホールがあった。
周囲には県の木・花の「モミジ」が配され、内側には亀甲繋ぎ紋の中央に県章の「ヒ」と上部に「広島県」と鋳出された広島県広島西部地域水道用水供給事業のマンホールである。
跨線橋は通常線路に対して直角に架かっているが大野浦駅の跨線橋は線路に対して斜めに架かっている。
この跨線橋も耐用年数の過ぎたレールが再利用されているが、見ることが出来る範囲内では鋳造年を表す刻銘は確認できなかった。廿日市駅の跨線橋骨組みとは少し異なっている部分があるので築造された年代は少し違っているのかも知れない。
山陽鉄道の広島~徳山間は明治30年(1897)に開通しており、大野浦駅は大正8年(1919)3月に開設されている。
駅舎は旧国道(旧西国街道)沿いに設けられているが線路は一段下がった低い位置を通っており、プラットホームは駅舎より西側の離れたところにある変則的な駅である。改札から斜めに向かい上り線ホームには階段を下りて渡り廊下を通りホームに、下り線ホームには斜めに架けられた跨線橋を渡ってホームに至る変わった駅である。
長浜港の脇に建立されている常夜石燈籠で宝暦13年(1763)6月に尾道の石工によって築造されたものである。
この石燈籠は通常の竿部分が4本の柱で造られている斬新的で珍しいものであり、笠の上面には厳島神社紋が刻されている。
山陽自動車道付近の国道433号線を車で下りながら瀬戸内方面をみると海面が高く見え、沿岸街並み部が低く見えて今にも海水が流れ込むのではなかろうかと見えることがある。
当ブログ主のみがそのように見えるのかと思っていたが他の人も見えることがあるとのことで目の錯覚ポイントである。
弥山の奥の院に建立されている陶晴賢公一族郎党戦死者碑で、明治44年(1911)6月に建立されている。
江戸期の軍記物には「・・・弥山に上り、奥の院にて腹切るべしと、300余人分上りけるが、次第に落ち行きける程に、残る兵100騎許りに成りにけり、・・・」とあり、厳島合戦において奥の院付近で戦死したとされる陶勢の供養のために建立されたものとみられる。
包ケ浦自然公園入口付近に建立されている毛利元就上陸之跡碑で、昭和16年(1941)3月に建立されている。以前は海岸寄りに建立されていたが包ケ浦自然公園整備のために現在地に移された。
安芸国制覇に乗り出した毛利元就は厳島に陣していた陶勢に対してここ包ケ浦に上陸して、博奕尾より陶勢を急襲して勝利を得ている。江戸期に描かれた厳島合戦絵図には軍記物などからの記述が多く記されており、なかなか解明出来ない史実とは異なった物語が楽しまれる。
廿日市駅北土地区画整理事業の進捗状況については時々紹介しているが、かつての駅裏の山が無くなって廿日市駅ホームの端から洞雲寺を遠望することが出来るようになった。
駅裏地区がどのように整備されるのかは不明であるが、植栽が多くて繁茂してくるとこのように見通しが出来なくなるかもしれない。
廿日市駅の跨線橋でこの築造年は不明であるが1934年(昭和9年)と1935年(昭和10年)に鋳造された古レールが使用されており、レールの耐用年数が過ぎてから転用されたものとみられる。
平成8年頃には柱となっているレールに1934、1935の刻印が十数カ所みられたが現在は厚い塗料によりほとんど見難くなっている。
駅舎は橋上駅舎に整備されるとの報道がされていたので、この歴史ある跨線橋も数年のうちに撤去されるであろう。