宮内地区にある民家で今ではあまり見ることが少なくなった元草葺屋根の錣(しころ)葺き民家である。
鉄板葺きとしてある部分はもと草葺屋根で、古い時代の本屋は草葺屋根部分のみであったが、後の時代に瓦葺き下屋部分が増やされてしころ葺きの屋根ができたのである。
宮内地区佐原田の旧西国街道沿いにある権現社で、紀州熊野権現を分祀して祀ったということである。
佐原田講中の人々によって祀られているようであり、農作物や住まい等が災害に遭わないようにと祈願されていたようである。
所山地区の農林公園にある小堂で別々に所在していた顎無地蔵と眼疣観音を合併して一つの堂に祀られたもののようである。
顎無地蔵は口の病や歯痛など口を病む人の平癒と眼疣観音は眼の病や眼疣など医療技術の乏しかった時代、地域の人々に信仰をされていたようである。
所山地区のかつての中心地七瀬川沿いにある河内神社に掲額されている獅子に牡丹の絵馬である。
この絵馬は獅子と牡丹が彫刻されており、四隅の留部分や外周に彫刻を凝らした飾りが取り付けられていたが一部は失われている。獅子の勇姿に牡丹を配して取り合わせの良い図柄であるが何時ごろ奉納されたものか不明である。
所山地区のかつての中心地の七瀬川沿いにある万古渓養魚観光センター内にある魚籃観音像で昭和44年(1969)に建立されている。
魚の供養のために建立されたようで、基礎石には「観世音 のぞき給えり 春乃魚」と句が刻されている。
原地区の長野ループ上の極楽寺原参道の休憩所からの遠望で、手前には長野ループの一部と長野集落が見え左側には原小学校がみられる。
遠くには元原病院・養護学校跡の「ふれあいライフ原」がみられ、その手前には何度か紹介している伊勢神社の境内広場がみられる。
上平良地区の西蓮寺境内にある大きな石燈籠で、かつては池の中に建立されていたが数年前に池は埋め立てられた。
この石燈籠は自然石を使用して江戸期、文政3年(1820)に上平良村門徒衆の寄進奉仕によって建立されたものである。
原地区にある伊勢神社の拝殿には三十六歌仙額が23面掲額されており、この歌仙額は三條院女蔵人左近である。
拝殿が吹きさらしのためこれらの三十六歌仙額は退色、剥離が著しく大半が当初の色彩がほとんどわからないような状態である。
昨日は節分であり孫の家には恒例の腹の出た太り気味の鬼がやってきた。大声で泣きながら「おにはそと、ふくはうち」。孫は鬼を依頼した兄ちゃんに良く似ているといっていたが・・・
本日は立春であり暦の上では春であるが、まだまだ寒い日もあるだろうか。
毎年桜島大根の生育状況を時折紹介しているが、今年で廿日市6代目の桜島大根が育っているが、1株は在来大根と交配したものとみられせいが高くなり桜島大根らしくなくなった。
今年の生育状況は全体的に大きく育っておらず、土質や在来大根との交配などで桜島大根の性質が薄れてきたのであろうか。イヤ やりっぱなし農業が大きく影響しているのかも知れない。
後小路にある常国寺の山門前に建立されている日蓮宗法塔で、妙法蓮華経の五字に南無の二字を冠した南無妙法蓮華経と宗祖の日蓮大菩薩を刻されている。
この法塔は大型のものであり、慶安元年(1648)6月に建立されたものである。南無妙法蓮華経の刻字をみると法を除く筆端が鋭く延びた髭(ひげ)のようでありひげ題目というそうである。
石組速田神社の本殿脇に性信仰か男根崇拝がされていたと思われる石造物がみられる。匹見地方で瀬戸内から石州往還を経ての厳島信仰の進出が多くみられ、ここ石組速田神社は女神を祀ったとされているようなのでこのような信仰がされたのであろうか。