中山地区を流れる中山川の最上流部で「海の見える杜美術館」から少々林道を登っていったところにある白糸の滝である。
このところの晴天続きで水量が少なく高い所から流れ落ちる水はまさに白糸のように細い流れである。
中山地区を流れる中山川の最上流部で「海の見える杜美術館」から少々林道を登っていったところにある白糸の滝である。
このところの晴天続きで水量が少なく高い所から流れ落ちる水はまさに白糸のように細い流れである。
原地区の国道433号線の改良工事について時々紹介しているが、最近まで原公民館前から半明原橋までの工事が行なわれていた。
しかし、工事機械や現場事務所が撤収されているので前年度の工事は終わったものとみられ、今年度の工事で最終的な仕上がりになるのだろうか。
昨年も紹介したが上平良地区の山陽自動車道法面にタカサゴユリが群生しており現在みごろで周辺に甘い香りを漂わせている。
この法面は数年前に樹木が伐採されてタカサゴユリが群生化したのであるが、雑木が伸びてきているのでタカサゴユリの数が少なくなったような気がする。
小瀬川の羅漢峡谷にある滝でスパ羅漢の手前に大滝と表示されているが、全貌をうまく見ることができない。
江戸期の地誌には大滝渕とあり「差渡凡拾七間四方深さ難計、左右厳石至ってすさましき渕ニ御座候」とある。
可愛川に架かる平良大橋西詰め下流の公園内にある慰霊碑脇に大砲の砲身が設置されていることは以前にも紹介したことがある。
この砲身は大正13年(1924)7月に平良村在郷軍人分会が呉海軍軍需部に保管されていた廃兵器を譲り受け速谷神社に奉納されていたもののようである。
佐伯区三宅にある老人ホーム喜生園の隣で通称御曹子山の地に源範頼の墓といわれる五輪塔がある。
かつて源範頼を祀っていたという蒲社があったが明治期に四宝神社に合祀されたということである。この五輪塔はいつ誰によって建立されたか不明であるが平安後期ころの造立とみられている。
以前上平良地区にある里山で笹ゆりが咲いていることを紹介したが、現在鮮やかなカノコユリとみられる一株が咲いている。
毎年下草の刈り込みが行われているために笹ゆりが繁殖して群生地となっているが、今年初めてカノコユリが咲いた。他所から何らかの方法で種子が運ばれたか飛んできて球根が育ったものとみられる。
もうすぐお盆なので例年のごとく墓前に供える盆燈籠を作った。竹の先を6つに割って朝顔型に組んで赤・青・黄・緑・紫・桃色の色紙を張り、角先に飾りを付けたもので、孫用の小さな燈籠も3本作った。
店に並んでいる燈籠は金紙を使用しているのできらびやかでありこちらのものは見劣りするが、伝統的な手作りであるので御先祖さんも喜んでくれるのではなかろうか。
天満神社に掲額されている絵馬で昭和12年(1937)に支那事変の戦勝祈願のために奉納されたようである。
絵馬は神武天皇の持つ弓の先に止まった金色に光り輝くトビ、「金鵄」によって神武側が圧倒的な勝利をおさめたという神話が描かれているようである。
洞雲寺境内の西墓地上り口にある稲荷社で、三代前の住持時代に親王寺山から現在地に移されたとのことである。
稲荷社は道元禅師が帰朝するときに日本稲荷が現れてその病気を治したという伝説と護法神とみなすことにより曹洞宗寺院に祀られているようである。
平良小学校は現在外壁などの塗装工事が行なわれている。平成14年(2002)に「木のまち廿日市」にふさわしい学校として木材を多用して新築された。
人目をひく奇抜なデザインで木材が風雨にさらされている部分が多いので定期的なメンテナンスは欠かせずお化粧は大変だ。
上平良地区可愛ケ丘団地内の可愛ケ丘公園片隅に宗高尾城跡と表示された標木が建立されている。
宗高尾城跡の遺構があったのは隣接する陽光台第一公園と平良小学校地一帯にあったのであるが、陽光台団地の造成で城跡は消滅している。
平良小学校の校庭に卒業記念に制作されたと思われる記念碑が建立されている。
何時の卒業生が制作したものかは不明であるが、卒業生の好きな言葉がセメント板に凸字、凹字で彫られているものを集合塔にしたもので、上部には未来に羽ばたくよう鳥型が取付けられている。