上平良地区にある河野原大歳神社境内の桜が満開で、ずらりと並んだ石燈籠との取り合わせは圧巻である。
この神社の本殿や拝殿の屋根の痛みが進んでおり先行きが危惧されるのである。賽銭もわずかであろうに罰当たりのことをする者が賽銭箱を壊して賽銭をあさっていた。
明治・大正のころ廿日市には佐伯郡役所や警察署、区裁判所出張所などが置かれ、己斐以西佐伯郡6町35ケ村の中心地として繁栄した。
当然ながらこの界隈は賑わっていたものとみられ、住吉神社境内の玉垣で親柱2本に廿日市券番中と刻されたものがあり廿日市のよき時代の名残りである。
廿日市港脇の住吉神社神額で「弘化五年戊申正月七十七翁三石澤喬書」とあり、弘化5年(1848)に澤喬が揮毫したようである。
澤喬は広島藩の年寄職を務めていたが引退後書画に親しみ左仲、讃岐、三石などを号したようである。
廿日市港の脇に祀られている住吉神社で江戸期には潮音寺境内にあったが、幕末期に住吉新開、廿日市港築造によって波戸の根に移された。
昭和58年(1983)に廿日市港脇の臨港道路の整備に伴って現在地に移転した。
宮内市民センターの前庭に建立されている川北良太郎翁頌徳碑で昭和25年(1950)に宮内村にて建立されている。
川北翁は明治期22年間村長を務めて村の発展福祉を図り中でも野貝原山林の造成には最も傾注した結果、村唯一の財源となり村民はその恩恵に浴したようでその徳を頌したようである。
昨日五日市港に豊福丸、静岡市と表示された大きな貨物船が停泊していた。
豊福丸をネットで調べてみると12,687トン、長さ165m、幅27.6mのようで、乗用車だったら2000台積め12名で航行しているようである。
宮内市民センターの前庭に建立されている道しるべ碑でかつて砂原土橋たもとにあったもので「右石州道、左九州道」と刻されている。
公式の津和野街道分岐点は水害などで時代によって変わっており、現在の畑口付近のそうり田土橋、鑓出口土橋、佐原田土橋などであったが、バイパス的な的場ルートが併用されてその分岐点に建立されていたものである。
宮内地区の天王社境内の樹木の現状で境内周囲に隣接して民家があるためだろうか樹の上部が伐採されて鎮守の森が・・・
これらの樹木の一部は天王社境内巨樹群として市の天然記念物に指定されているが折れたものもあり哀れな姿である。
旧上平良村山林と旧下平良村山林境を流れる広池川支流にある無名滝で大きな花崗岩の上を何段かに滑り落ちている。
途中岩盤に小さな甌穴や傾斜部分には蛇喰状凹溝が数ヶ所みられる。昭和60年頃に訪れた時より上部の谷が侵食されて形状や流れが変わっていた。
明治期の地誌に弘法川は永石山の大滝を源に流出しているとあるので滝を探すべく以前紹介した八ケ迫溜池から源流に向って遡ってみた。
下流(画像下)からみていくと最初に小さな三段の滝があり、次に岩の上を緩やかな傾斜で4~5m滑り急な斜面を4m位滑る滝がある。山陽自動車道すぐ下には長い斜面の岩上を水が流れているが水量が少なく滝のようでない。どの滝も小さいがどれを大滝というのだろうか。
以前にも紹介した天神さん下蓮教寺境内にある大蘇鉄で、もと津和野藩御船屋敷に植えられていたもので廃藩後、何度も紹介している田原小左衛門によって寄付されたものである。
廃藩後も元津和野藩士であった田原氏は津和野に移住せずに廿日市の住民となっているのである。