原地区の田んぼは傾斜地に築造されており高ゲシ(高石垣)が多く湧水が出るところに地下通水路が設けられている。明治10年(1877)の原村景況書には「田底ニ水通水門有、故ニ穴アク事多シ」とある。
この地下通水路のことを廿日市町史通史編(下)の民俗稿にはタンポ(原地区)とあるが原地区で呼称されていたものかは定かでない。
平良地区と宮内地区境の尾根筋に残る旧石州道の名残りの山道で、かつて丹戸山越(沢の尾峠)から長尾、折敷畑山中腹の横道を経て黒折地区に通じていた江戸期津和野街道が整備される以前の古道である。
折敷畑合戦で「毛利元就、隆元は本道筋より攀じ登り・・」とあり、毛利元就、隆元は本道筋と目されるこの石州古道から折敷畑山に攻め寄せたのであろうか。戦記物に記されているものであり真偽のほどは定かではないが・・・
長い間山の手入れがされていないものとみられ大きな杉の木に太い藤カズラが巻き付いており、大蛇に巻き付かれているようである。
カズラに巻き付かれると木の生長が阻害されるのでやっかいであるが、この杉の木は螺旋状の凹みがあるおもしろい木になっているのではなかろうか。
現在の山境はコンクリート杭やプラスチック杭で表示するが昔は腐らない貝殻をまとめて埋めており、また腐らない陶磁器片やガラス瓶を埋めているところをみたこともある。知らないと一瞬貝塚ではないかと間違いそうである。
山歩きでよくみられる山境は下画像のように樹木の芯を切って沢山の幹にしているもので尾根筋などでみられる。
田舎育ちの当ブログ主は迷路のような街の小路を歩くのが好きである。先日来紹介している福佐売神社前の小路を進んでいると広電宮島線で行き止まりとなっている道があり、線路脇と向こう側のJR山陽本線脇に通行禁止の表示板が設置されていた。
国土地理院の古い航空写真をみるとここはかつて里道が通っており、線路地内の踏み跡などから現在でもここを通行する人がいるようである。
可愛通り(旧国道・旧西国街道)から福佐売神社に向かう参道入口に小さな石柱が一対建立されており、舗装の盛り上がりで見えなくなっているが、かつて「奉寄進、可合町、若連中、文政七年」「奉寄進、九月吉日」とあった。
遥か昔の貞観14年(872)の三代実録に「・・佐伯郡人榎本連福佐売、・・」とあるのを江戸期文政年間に広島藩の学者達(浅野長懋・頼惟柔)が福島明神は榎本連福佐売を祀ったものとしたので、著名な神社とされて西国街道からの参道が設けられたのではなかろうか。
福佐売神社境内に祀られている境内社で左側画像は本殿裏に祀られている小祠で榎本連福佐売の墓と言われており五輪塔残欠がみられるが、昨日紹介したように佐伯郡人榎本連福佐売は遥か昔の人物であり裏付けもなく信憑性は低いものとみられる。
右側上画像は稲荷神社で以前に藤稲荷大明神と記されていたがなぜこのように称していたのかは明らかでない。右側下画像は胡子神社でこれら2社は江戸期の地誌にもみられ祀られているものである。
下平良可愛地区にある福佐売神社は江戸期の文政8年(1825)、安政6年(1859)の地誌には福島社とあり、大正7年(1918)に刊行された佐伯郡誌にも福島神社とある。これらから大正7年(1918)以降に福佐売神社と呼称されるようになったようである。
遥か昔の貞観14年(872)の三代実録に「・・佐伯郡人榎本連福佐売、・・」とあるのを江戸期文政年間に広島藩の学者達が福島明神は榎本連福佐売を祀ったものとした。安政6年(1859)の地誌には「古老之者申伝ヘニハ福さめ共唱ヘ来リ候由」とあり、この頃このように通説化されていたようである。
上平良二重原地区の梅雨太郎の手前で林道から山上の高圧線鉄塔に向けて帯状に山林が伐採されて架線の架け替えのための資材運搬用索道の設置作業をされていた。
高圧線鉄塔の間隔は遠く離れており長くて太い高圧線をどのようにして架け替えをするのであろうか見てみたいものだ。
原地区後背山地の通称汐見山にあった枯れた切り株に沢山のキノコが生えており定かではないが黒いキノコはカワラタケのようにみられるが・・・
2本の切り株でなぜか同じように上部は白色のキノコで下部は黒色のキノコとなっているが上下のキノコの種類が違っているのであろうか。