当ブログ主は旅行地で発行されているローカル新聞を求めるようにしている。壱岐への船便は福岡県の博多港か佐賀県の唐津港からであるが、行政区域は長崎県であり宿泊ホテルには全国紙と長崎新聞が置かれていた。ホテルで古い長崎新聞を貰ったが壱岐のローカル新聞はファイリングしているとのことであった。帰りに郷ノ浦港フェリーターミナルの売店に壱岐新聞と壱岐新報があったのを求めた。両新聞も週刊で金曜日に発行されているようで、当日は金曜日で1部ずつ残っており幸運であった。
当ブログ主は旅行地で発行されているローカル新聞を求めるようにしている。壱岐への船便は福岡県の博多港か佐賀県の唐津港からであるが、行政区域は長崎県であり宿泊ホテルには全国紙と長崎新聞が置かれていた。ホテルで古い長崎新聞を貰ったが壱岐のローカル新聞はファイリングしているとのことであった。帰りに郷ノ浦港フェリーターミナルの売店に壱岐新聞と壱岐新報があったのを求めた。両新聞も週刊で金曜日に発行されているようで、当日は金曜日で1部ずつ残っており幸運であった。
観光のつれづれにみられたマンホール蓋などで、旧郷ノ浦町のマンホール蓋は以前紹介した伝統工芸品の鬼凧(オンダコ)がデザインされており凸鋳造と凹鋳造のものがみられた。また旧町の花アジサイがデザインされた仕切弁蓋と消火栓蓋がみられ、平成16年(2004)に4町が合併して壱岐市になってからの市章がデザインされた仕切弁蓋がみられた。
オモヤ
インキョ
ホンマヤ
ウシノマヤ
壱岐観光でバス車中からは古い民家の面影を見ることはできなかった。壱岐風土記の丘-古民家園には壱岐の農家の標準的な屋敷構えとされる移築されたオモヤ(旧冨岩家住宅)とインキョ(隠居部屋)、ホンマヤ(納屋、物置)、ウシノマヤ(牛小屋)が再現されていた。表示によると旧冨岩家住宅は江戸中期頃の様式を備えた武家住宅のようである。
速谷神社の注連縄づくりで余った藁を貰い昨日は例年の如く河野原大歳神社の注連縄をあずりながら何とか2本作った。藁束を捻りながら綯っていく途中に藁を補給しなければならず放すと捌けていくので一人では大変な作業でなかなか上達しない。配り物の途中、大歳神社に参詣したら藁縄の注連縄だったのを見かねて氏子ではないのにお節介で作りだして8・9年になるだろうか・・・ 子供の頃、大杉が茂って「もりさん」といわれており遊び場所であり荒らしたこともあったのである。
昨日は注連縄用の治具を考案され作ったもので斎館の注連縄を制作してみたが、手で束ねた方が稲束の根元が中心に収まるのでうまく出来そうであった。境内社の岩木神社・稲荷神社の小さい注連縄と計3本を制作した。以前に制作していた大注連縄に飾り房を取り付けて竹に吊るし架ける準備をし、拝殿前に架け調整を済ませて新春に向けてのしめ縄の奉納が終わった。
黒崎砲台は対馬海峡を防備するために設置された壱岐要塞の一つのようで以前紹介した対馬の豊砲台と同じような巨大な地下要塞である。砲塔部の円形開口部は上部から見物出来て少し離れたところに地下室入口があった。以前訪れた時は砲塔下部に行けたが現在は途中から崩壊の恐れがあるため進入禁止となっていた。地下室入口に向かったのは当ブログ主ともう一人おられたが、他の同行者は観光名所の猿岩見物をされていた。
壱岐で訪れた各施設に伝統工芸品である鬼凧(オンダコ)が掲げられており、土産物店には大小各種の鬼凧が展示販売されていた。左京鼻観光に訪れたら3~4人の鬼凧愛好家であろうか鬼凧を空高く上げておられ、どのような仕掛けがあるのであろうか風切り音がしていた。以前訪れた見島では鬼揚子(オニヨウズ)といい、看板をみたが実物は見ることはなかった。
注連縄づくりに関わっていると他所神社の注連縄はどのように作られているか気になる。探訪した限りの神社の注連縄は我々が作っているものと同じ作り方であるが飾り房の作り方は初めてみるものであった。小祠の飾り房も同じようであり、飾り房は藁束を4つに分けて2つずつ捩じり綯ったものである。下画像はあげまき結びのある当地方の飾り房の作り方である。
聖母宮の鳥居
住吉神社の鳥居
月読神社の鳥居
広島地方では見られないような笠木の両端が薙刀状に反り上がった鳥居を肥前鳥居と云い、このうち平戸藩内に建立されたものを鎮信鳥居と呼んでいるようである。平戸藩が領有していた壱岐内にこのような鳥居が36基あるようである。この内勝本町の聖母宮(延宝4年(1676)刻銘)、住吉東触の住吉神社(貞享4年(1687)刻銘)、国分東触の月読神社(大正4年(1915)刻銘)の3基の鎮信鳥居を見ることが出来た。
勝本城跡の御柱(平成28年大祭の先代御柱)
諏訪大社の御柱(平成28年大祭の御柱)
曽良墓碑(勝本城跡麓)
曽良歌碑(勝本城跡)
先日紹介した勝本城跡に諏訪大社の御柱が立てられていた。説明表示によると、江戸中期に松尾芭蕉の奥の細道の旅に同行した蕉門十哲の一人である諏訪市生まれの河合曽良が、壱岐の勝本町で病に倒れ没して墓が残されている。曽良の縁から勝本町は生誕の地である諏訪市と友好都市提携を結んでおり、諏訪市は諏訪大社の平成28年の大祭の役目を終えた御柱を譲り受けて友好都市である壱岐市勝本町に譲渡建立したようである。
昨日は注連柱の注連縄2本と儀式殿の注連縄1本を作成した。従来の作り方は藁束を次々と差し込みながら捩じり綯っていく方法で、藁の根元が多く飛び出していた。今回は差し込み藁束を中心に包みながら紐で束ねていく方法とした。紐の間隔が広いと藁の根元が飛び出していたが紐の間隔を狭くすると飛び出しがほとんどなくなったのである。
昨日、コモ編み1枚を済ませて3枚が出来上がりコモ編み作業は終わった。次に芯材を作る作業で、ビニール紐の周りに藁を束ね付けて外周にビニール紐で締め付けていく。出来上がった芯材にコモを巻き付けて編み紐の端で縛り付け注連縄の単体が出来る。先に注連縄単体の2本を綯って、もう1本を綯っていくと大作業が終わる。飛び出た藁端などを切り揃え両端を縄で縛り一先ず完成で、後日に飾り房などを取り付け奉納予定である。参道上に架ける垂れ房も仕上げた。
昨日から速谷神社に奉納する注連縄づくりのコモ編みが始まった。コモ編み台で先日藁そぐりした藁を使用して紐で編んでいく作業で昨日2枚編むことが出来た。コモ紐を巻き付ける鼓状の用具は各地で呼び方が違っているようである。「ツヅラコ・コマ」(上平良)、「カチコ」(佐伯)、「ツロロ」(湯来)、「ツヅラコ」(千代田)、「ツツロ」(津和野・日原)
壱岐島の北部にある勝本の街並みで行われている朝市見物の間寸暇を惜しみ、勝本城跡を探訪した。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際して朝鮮への経由地である対馬での兵站基地であった清水山城跡を以前紹介したが、壱岐にも兵站基地であった勝本城跡が残されている。勝本港を望む標高82mの城山山頂部に石垣や城の遺構とみられる礎石が残されていた。