総裁選のパラダイム
今次国会が閉幕するといよいよ次期自民党総裁レースが本格的にスタートする。まだ3ヶ月ある、過去の経験から総裁候補議論は早すぎるという意見がある。これは派閥レベルでポストのやり取りや何かの取引で直前に支持を決める従来延長線上の発想だ。私はそうは思わない。
自民党総裁選は事実上の我国のリーダーを選ぶプロセスである。最低でも6ヶ月かけて葉掘り候補者の公約・政治信条の妥当性を議論し、それを検証するために過去の発言・行動、政治判断、プライベートなことも含め国民の前に曝け出し、一国のリーダーとして相応しいか評価されベストの選択がされるべきなのだ。
選択プロセスは国力の源泉
歴史を振り返れば国家のリーダーを選択するプロセスそのものがその国を強くし維持する最も重要な仕組みの一つだ。それは今日の米国の強さの源泉であり、遠い昔の小国ベネチアが海洋国家として君臨、地の利を失った後も長く繁栄を続けた理由である。いつの時代もそうだが、特に今日本は最高の指導者を選ぶため最善の努力が求められる時代にいる。
派閥次元の秩序を保つため温存とか一本化という発想などありえない。こうした低次元の発想を得々と伝えるメディアには失望を禁じえない。グローバリゼーションが進行し新興国が台頭し世界勢力地図が変化する中でリーダーとして求められるパラメータについて候補毎に詳細な一覧表を作り判断の助けにし、ベスト・プラクティス作りに貢献するくらいのことをしたらどうだと言いたい。
総裁選の争点
このところの報道では1)外交:特に靖国神社のあるべき姿と首相参拝、アジア外交の関係、2)格差社会:構造改革の影の部分と言われる弱者の救済が二大争点になりそうである。残念ながら争点が酷く矮小化している。
老齢化社会に突入する我国が一方で新興国勃興の中、資源・環境・テロとの戦い等で国益を守り世界を先導し貢献していくため誰がリーダーとして相応しいかという視点が必要だが、これらが主題になる見込みは殆ど無い。人気投票だろうと何だろうと勝負は勝つか負けるか、問題提起の妥協はやむを得ないだろう。
「格差社会」について今までに意見を述べてきた通りで、私の立場は明確である。靖国神社参拝については、外交関係に国を二分する争点を持ち込むのは国益に反すると主張してきた。しかし、事実上首相を選ぶことになる総裁選を3ヶ月後に控え私の信じるところを明確にしたい。
三百万の血の責任
個人的には靖国神社にA 級戦犯は合祀すべきではないと信じる。彼らは第2次世界大戦で近隣諸国を侵略した責任を問われ、結果的に三百万人以上の戦死者を出した責任をとった形となった。私の父は幸運にも戦地に出ることなく生きて帰ったが、戦死者や親や子を失い死ぬ苦しみを潜り抜け生還した親戚・知人は多い。
何百万もの国民の血を流させてその責任が誰にも無いなどありえない。ある意味国家の誇りと存続をかけて、自らの手で原因と責任を追及して明確にしなければならなかった。A級戦犯が合祀された靖国神社には大東亜戦争を正当化する資料館があるという。その内容は大東亜戦争を全面肯定しており、そこに首相が参拝していると聞くと、戦争で犠牲になった人達のことを考え辛い気持ちになる。
東京裁判の正統性
しかし、日本人は主体性を持って戦争を総括することは出来なかった。自ら始末をつけられない事態を救ってくれたのが東京裁判だった。東京裁判の国際法的正統性についての議論がある。しかし、唯一裁判と言うプロセスで日本の戦争責任が裁かれたのが東京裁判だった。
日本人に果たしてそういう能力があったのだろうか、現代でも歴史的に振り返ってみても私は自信を持って答えられない。戦後復興を最優先したという言い訳もあるが、当時の指導者達は戦前の体制を残すことしか眼中に無かった。歴史に「たられば」はないが東京裁判がもし無かったら今日の日本の繁栄はありえなかったと思う。
遅すぎることは決してない
東京裁判の中で人格高潔なる広田首相を救えなかったくだりを読むと涙が出て来るが(小島譲「太平洋戦争」など)、自国で戦争のけじめをつけずに他国に尻拭いさせた報いを彼は甘んじて受けたと私は感じる。戦勝国の勝手なルールと言うより、自らを裁けない国の犠牲になった。
朝鮮動乱勃発後連合軍の優先順位が変わり、日本は戦争総括より戦後復興にまい進した。東京裁判がなければそうは行かなかった。東京裁判の後でもいいから日本人が戦争責任を総括すべきだったと思う。思うに今日繰り返される問題指摘は全てこの一点に帰結される。今からでさえ遅すぎることは無い。
一国平和主義の問題
戦後の一国平和主義は戦争を論理的に評価する機会をイデオロギーで押さえ込み、議論をタブー化し、我国の最高知識を巻き込んだ戦争総括をさせなかった。結果的に政治と軍事の関係、シビリアンコントロールと命令系統の問題など日本のシステムと人的な要素が戦争に果たした役割・責任を明らかに出来ず、一級の軍事専門家やシンクタンクが育たなかったのは不幸なことだ。
細部にわたる戦術戦略、ロジスティックス、占領政策などまで精密に研究し、その中で指導者やシステムの判断の誤りを指摘し追及、後世に記録を残し今日の問題に寄与させるべきだった。多くはノンフィクション作家のテーマになったが、貴重な血を流して得た我国の財産として蓄積されたようには思えないのは残念だ。
内政問題
しかしこれはあくまでも内政問題である。戦地で血を流した兵に敬意を表するのは国として国民として当然の行為である。中国や韓国に感情がありそれを主張することを非難することは出来ない。しかし、我国に対してああしろ、こうしろと指図され干渉されることではない。
干渉されればされるほど自由の国日本のマスコミ報道は国民を煽り民族的感情が噴出する。両国の為にならないのは明らかである。国内問題でも相手の感情があるのは事実であり経済のために現実的な大人の対応をしようという考えもあるが、私は国内問題として筋を通すべきとの立場だ。
国論統一に向けて
宗教の自由、政経分離は我国憲法の基本原理であり、靖国神社は信仰の自由の権利がある。靖国で会おうと言って戦地に赴いた兵士の魂が靖国に眠っていると信じる人が参拝するのを禁止することも出来ない。しかし靖国神社の戦争観は戦前の多くの日本人を死に追いやった責任の一端を担い、裁かれること無く残っているのを放置してよいものか。
政治・軍事システムだけでなく靖国神社も含めて第2次大戦を再度我国独自で総括し国論を統一すべきである。天皇が参拝せず、首相の参拝の是非で国が割れるような戦没兵士慰霊では戦地で死んで行った祖先に対して申し訳ないではないか。
とはいっても靖国神社は総裁選の争点にする性格ではない、もっと根っこのところに戻って時間をかけて議論すべきだ。我国の国際的立場は相対的に脆弱になる21世紀は、国民の強い精神が求められている。その基盤を作るつもりで取り組めばよいと私は考える。■