安倍首相がいよいよ集団的自衛権の行使を容認する具体的な一歩を踏み出した。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告書を受けて、安倍首相は記者会見を開き具体的な例を挙げて限定的な内容を日本の自衛隊はどう行動すべきか限定的に適用する考えを述べた。今後公明党と協議して閣議決定、法制化の手順を踏んで行くという。
テレビ等のマスコミは特集を組んで大々的に取り扱うと私は期待した。戦後日本の国是として平和国家の道を歩んできたが、同盟国が攻撃され助けを求められたら応戦するか否か、今我々は歴史的な岐路に立っているのだ。ところが、集団的自衛権は視聴率が取れないという理由で安倍首相の記者会見後も民放はまともに報じなかった。これ程の重要ニュースをきちんと伝えないメディアは見識が無さすぎて信じられない、私は最早恥知らずと言いたい。
私は「集団的自衛権はあるが行使しない」という戦後日本の国是を、個人としての人間関係に置き換えて矛盾があると、子供の頃から違和感があった。学校の先生は日本は戦争放棄した世界で一つしかない平和国家だと賛美した。だが、親友がいじめられたら助けるのが普通の人間のやることなのに、なぜ国のレベルでは助けないのが素晴らしいのか、日本は普通の国じゃないのかという素朴な疑問だ。高齢者になった今も違和感はそのままだ。
戦争に負けて戦勝国は日本に二つの宝石「民主主義と戦争放棄」を与え、日本を繁栄に導いた。果たして自らの手で実現できたかどうか、日本民族にそれ程の知力と決意があったか疑わしいと私は思う。経緯はともあれこの二つが戦後日本のバックボーンであり、今日本民族はその一つを変えるか問われている(わざわざ民族と言ったのは、国民全員が決定に加わるべき、という思いを込めている)。戦争放棄は美しい言葉だが、個人に置き換えると「攻撃された友人を見捨てよ」という醜い考えになる。単純化し過ぎだろうか。
私は国も個人も同じ道徳・価値観に基づき行動すべきであると考える。いま議論されている具体例を遥かに超えた例だが、極端な例を挙げる。「私達の子供を戦地に送るのは絶対反対」という母親の声が良く報じられるが、日本人だけは血を流さないという発想そのものに身勝手で無責任なものを感じる。このオバサンは他の国の誰かが血を流すのは平気なのかと思う。私は海外にも友人がいる。私は日本人だから知りませんとはとても口に出して言えない。同じ地球人として血を流してでも平和を守ろうという気持ちが必要だと信じる。
この議論には北朝鮮や中国の強引な海洋進出など安全保障環境の変化が背景がある。私は世界情勢はもっと悪化する可能性が強いと考える。そう考える大きな要因は米国の影響力低下であり、非民主主義国が歯止めを無くして益々自国の利益を押し出して来ると予想する。米国にお任せで良いのか。世界の主要国は総て集団的自衛権を行使できる。逆説的に言うと日本だけは集団的自衛権があるとちゃんとした国になれないのか、そんな三流の国なのか問われていると私は思う。■