当時将棋部の部室は1階の離れにあり、四畳半のスペースを、ワンダーフォーゲル部と共用していた。
もちろんこのスペースでは狭く、ここは用具置き場である。
放課後の活動の際は、部員の在籍するクラスを交代で使用した。ただし共学クラスの使用はNGとした。女子の出入りする教室で、陰気な将棋を指す姿は見られたくなかったからだ。女子と仲良くはなりたいが、女子は将棋を指す男子なんか、忌避したいだろう。
クラブには、それぞれの居場所というものがある。野球部はみなの前で目だって活動すればよい。将棋部は人目から隠れて、ひっそりと活動するのがふさわしかった。
そう考えると、4階の隅に忘れられたように存在する男子クラスは、格好の対局場所であった。
幸い、先輩の3年生は受験勉強に専念し、半引退状態だから、もう誰に気兼ねすることもない。私は労せずして、クラブ活動の舞台を自分の教室に指定できたのだ。
次に私たちは、週3回の活動を、土曜日を除く毎日とした。私を含めた2年生以下の部員は、とにかく将棋が好きだったからだ。
さらにそれが高じると、私は休み時間でも将棋を指すようになった。
もっとも昼の休み時間なら、私が1年生のときから、数人の同級生が部室に集まって、たびたび指していた。
だが休み時間の部室は使用禁止なので、私たちは部屋の灯りを消し、外から見えないよう、頭を屈めながら指していた。
しかしこれはいかにも窮屈である。少なくとも、将棋を指す健全な姿勢ではない。
そこで私は、折り畳み盤と番太駒を一組拝借し、自分の教室で指すことにした。教室内へのクラブ用具の持ち込みは禁止されていたが、それは形式的なものにすぎず、これを厳格に適用していたら、野球部員が教室に持ち込んでいるグラブや硬球は、没収しなければならなくなる。
授業が終わって放課後になれば、この教室はクラブ活動の場に変わる。盤駒を運ぶ手間も省けるし、この方法は一石二鳥であった。
しばらくそんな活動をしていたある日、ある運動部の級友が、
「オレにも将棋をやらせてくれよ」
と言った。
いまの高校生はどうか知らぬが、当時の男子高校生は、野球と将棋のルールぐらいは、みんな知っていた。
とはいえ陰気な将棋を指したいとは、級友も物好きである。私は盤をもう一面用意し、彼に渡した。
ところがしばらくすると、またほかの級友が、オレも将棋を指したい、と言ってきた。
将棋というのは不思議なもので、他人が指していると、自分もその局面で一手指したくなる。それが高じて、将棋を所望したようだった。
私はまた一面、部室から将棋盤を運ぶのだった。
ところで私はこの時期、妙なことに感心されていた。すなわち、将棋を指す手つきである。
将棋の有段者が、慣れた手つきでビシッと指すさまは、初心者には魅力的に映るらしい。とくに、駒の先の部分に自分の駒を滑らせながら、カチャッ、と指す仕種には、シビレた級友が多かった。
級友もその手つきをマネるが、うまくいかない。まあ、それはそうである。手つきが一朝一夕で上達しないことは、ドラマに出てくる棋士役の手つきを見れば分かる。やはり「馴れ」が必要なのだ。
もっとも私から見れば、簡単にストライクが入る野球部のピッチャーや、フリースローでゴールを決めるバスケットボール部のほうが、よほどすごいと思う。要するに、各クラブごとに専門的技量があるわけだ。
ともあれ将棋を指す手つきがサマになっていることが、クラス内で私の「地位」を向上させた。
やがて休み時間になると、そこここで将棋が始まるようになった。しかし10分や15分の休み時間では、一局が終わらないときもある。または二局目の途中で終わるときもある。そんなときは「指しかけ」として、対局者が盤駒を分担し、机の下の引き出し―取っ手がなく、中が丸見えだから、たんに「棚」とでもいうべきか―に仕舞った。
あれは何の授業だったろうか。授業中に、将棋盤をこっそり引き出して、指しかけの将棋を考えている級友が目に入り、私はギョッとした。
(つづく)
もちろんこのスペースでは狭く、ここは用具置き場である。
放課後の活動の際は、部員の在籍するクラスを交代で使用した。ただし共学クラスの使用はNGとした。女子の出入りする教室で、陰気な将棋を指す姿は見られたくなかったからだ。女子と仲良くはなりたいが、女子は将棋を指す男子なんか、忌避したいだろう。
クラブには、それぞれの居場所というものがある。野球部はみなの前で目だって活動すればよい。将棋部は人目から隠れて、ひっそりと活動するのがふさわしかった。
そう考えると、4階の隅に忘れられたように存在する男子クラスは、格好の対局場所であった。
幸い、先輩の3年生は受験勉強に専念し、半引退状態だから、もう誰に気兼ねすることもない。私は労せずして、クラブ活動の舞台を自分の教室に指定できたのだ。
次に私たちは、週3回の活動を、土曜日を除く毎日とした。私を含めた2年生以下の部員は、とにかく将棋が好きだったからだ。
さらにそれが高じると、私は休み時間でも将棋を指すようになった。
もっとも昼の休み時間なら、私が1年生のときから、数人の同級生が部室に集まって、たびたび指していた。
だが休み時間の部室は使用禁止なので、私たちは部屋の灯りを消し、外から見えないよう、頭を屈めながら指していた。
しかしこれはいかにも窮屈である。少なくとも、将棋を指す健全な姿勢ではない。
そこで私は、折り畳み盤と番太駒を一組拝借し、自分の教室で指すことにした。教室内へのクラブ用具の持ち込みは禁止されていたが、それは形式的なものにすぎず、これを厳格に適用していたら、野球部員が教室に持ち込んでいるグラブや硬球は、没収しなければならなくなる。
授業が終わって放課後になれば、この教室はクラブ活動の場に変わる。盤駒を運ぶ手間も省けるし、この方法は一石二鳥であった。
しばらくそんな活動をしていたある日、ある運動部の級友が、
「オレにも将棋をやらせてくれよ」
と言った。
いまの高校生はどうか知らぬが、当時の男子高校生は、野球と将棋のルールぐらいは、みんな知っていた。
とはいえ陰気な将棋を指したいとは、級友も物好きである。私は盤をもう一面用意し、彼に渡した。
ところがしばらくすると、またほかの級友が、オレも将棋を指したい、と言ってきた。
将棋というのは不思議なもので、他人が指していると、自分もその局面で一手指したくなる。それが高じて、将棋を所望したようだった。
私はまた一面、部室から将棋盤を運ぶのだった。
ところで私はこの時期、妙なことに感心されていた。すなわち、将棋を指す手つきである。
将棋の有段者が、慣れた手つきでビシッと指すさまは、初心者には魅力的に映るらしい。とくに、駒の先の部分に自分の駒を滑らせながら、カチャッ、と指す仕種には、シビレた級友が多かった。
級友もその手つきをマネるが、うまくいかない。まあ、それはそうである。手つきが一朝一夕で上達しないことは、ドラマに出てくる棋士役の手つきを見れば分かる。やはり「馴れ」が必要なのだ。
もっとも私から見れば、簡単にストライクが入る野球部のピッチャーや、フリースローでゴールを決めるバスケットボール部のほうが、よほどすごいと思う。要するに、各クラブごとに専門的技量があるわけだ。
ともあれ将棋を指す手つきがサマになっていることが、クラス内で私の「地位」を向上させた。
やがて休み時間になると、そこここで将棋が始まるようになった。しかし10分や15分の休み時間では、一局が終わらないときもある。または二局目の途中で終わるときもある。そんなときは「指しかけ」として、対局者が盤駒を分担し、机の下の引き出し―取っ手がなく、中が丸見えだから、たんに「棚」とでもいうべきか―に仕舞った。
あれは何の授業だったろうか。授業中に、将棋盤をこっそり引き出して、指しかけの将棋を考えている級友が目に入り、私はギョッとした。
(つづく)