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 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

日本の歴史 おさらい②

2016年11月13日 19時45分45秒 | 日本史

蒙古軍は、侵略した高麗や宋の軍を先陣に攻め寄せてきた

弓は短く扱いやすく速射ができる、しかも射程距離は日本の弓に勝る

日本人が初めて見る鉄砲のような武器もあり、大陸での攻城戦に使う投石機まで持ってきたかも知れない

我が国がはじめて外国からの侵略を受けた瞬間である

戦闘の仕方もまるまる違い、日本の武士は戦いにも礼儀と美学を重んじたが、蒙古軍は勝つことだけが

目的だから情け容赦ない。 このままでは日本全体が侵略され皆殺しになるのは時間の問題と思われた

しかし夜になって舟に全軍引き上げたある夜、突然大嵐が博多の海を襲った、翌朝には蒙古軍(大元軍)は

舟ごと跡形もなく消え去っていたという、奇跡の大嵐のおかげで日本は救われた。

1281年に再び元軍が数千隻の大艦隊10数万の大軍で博多湾に攻め寄せた、今度は日本軍も準備万端で

頑丈な橋頭堡を築き、軍も充分に訓練されていた10数万の兵を動員して蒙古の襲来を待ち構えた

海戦では島国日本の方が、遊牧民族の蒙古人に勝る、今度は海を主戦場にして日本軍が攻勢に出た

持久戦となった、ところがまたしても博多湾に大嵐が到来、再び蒙古軍は海の藻屑と消え去った

これより日本の「神風神話」が生まれ、約700年後の太平洋戦争まで「神風頼み」の風潮が残った

日本人最大の危機は去った、蒙古に攻撃されて退けた国は日本のほかに僅か数カ国あっただけだった。

しかし、この元寇で北条氏の鎌倉幕府は一気に弱体化した。

 

元寇以前は鎌倉幕府の勢力は強く、承久の乱では後鳥羽上皇や順徳天皇が北条幕府によって流刑にされる

ほどであった。

その後も88代後嵯峨天皇が上皇になるに際して後深草天皇系と亀山天皇系に別れて朝廷内の対立が始まり

南北朝の時代への伏線となった

96代後醍醐天皇は、久方ぶりの指導的英傑の天皇で天皇親政に戻すべく幕府と戦った、一時は流罪になったが

足利尊氏や新田義貞、楠木正成などの勤王の武士団の活躍で鎌倉北条氏を滅ぼすことに成功した

しかしその後、足利尊氏と後醍醐天皇は争うようになった、朝廷では南北朝の動乱期に入り、同時代に2人の

天皇が存在する異常事態がおよそ30年近く続いた

武士団でも権力を掌握した足利幕府だったが尊氏の代で早くも内紛が始まった、しかし足利義満が将軍になり

にわかに足利幕府が勢いづいた、義満は金閣寺を建立するなど文化的遺産や業績を残した、朝鮮とも交易を

始め、下風につく不利をしながら実利を得た。 国内では太政大臣になった義満は後亀山天皇の時代に

天皇をしのぐ権力を得た

ところが義満以後は足利幕府が安定せず、1467年には日本中が戦場となった応仁の大乱が始まった

いわゆる戦国時代の始まりで、戦国時代は徳川家康が豊臣家を滅ぼした1615年まで150年続いた。

足利幕府は征夷大将軍は名ばかりで没落して、天下の武士団で幕府に従うものなど皆無となった、さらに

武家の援助も得られず、税収も皆無の朝廷もまた、困窮した、104代後柏原天皇は即位しても

即位の式典、即位礼を財源がないため22年間も行うことができなかった、こんなわけで日本の都「京」も

戦乱で焼け、まさに映画「羅生門」そのままの姿になった、野党、強盗、人殺しが白昼から大手を振って歩く

恐ろしい時代であった。

ついには公家どころか天皇ご自身が直筆の書画や愛用の筆を売り払ってしのぐまでに困窮した、将軍足利氏も

末期には定住できず、権威主義の大名家に寄宿して歩く始末となった。

日本全国が戦場で東北では南部氏、伊達氏、芦名氏、最上氏などがその他の小大名を巻き込んで争い

北信越では武田氏と小笠原氏など信州の大名が争い、その救援に越後の長尾氏(上杉)がやってきて

武田氏と激戦を繰り広げた。

また関東では後北条氏が小田原を根拠に関東一円を支配した、静岡では今川氏が大きな勢力をもって

三河の松平氏(徳川)を従え、名古屋の織田氏を侵略しようとしていた。

織田氏の北には義父の斎藤道三、更に西には浅井氏が越前の朝倉氏と同盟をして周囲の敵を防いでいた

京の周りには六角、三好、松永などのくせ者が朝廷を脅かしていた

近畿には奈良の筒井氏、名家京極氏、細川氏、別所氏、宇喜多氏など中クラスの大名がひしめき合い、その西は

山陽の毛利氏と山陰の尼子氏が2大勢力で対峙していた

四国は長宗我部氏が圧倒的に強く、多を支配、九州には薩摩の島津、肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏

などが有力大名として威を張っている、しかし激しい戦闘のうちに弱者は滅んだり吸収されていった

 

そんな中で日本の中央部、愛知県を領土に持つ織田信長は戦国期にあって、現代人以上に進んだ

開明的先進的な頭脳を持つていた。 織田信長は優れた家臣団をフルに活用し、まずは愛知県の織田一族を統一

続いて岐阜県を制圧、滋賀県東部の浅井氏と同盟し、西部の六角を敗走させ、ついに京に入り三好勢を駆逐

天皇と足利将軍を手中にした

その後、越前の朝倉、親戚となった近江の浅井を相次いで滅ぼし、伊勢も統一、畿内の松永を滅ぼし、有力な地侍を

家臣団に組み込んだ、ついに西は岡山県、鳥取県、東は富山県、宿敵武田氏を滅ぼして山梨県まで領土とした

しかし毛利と上杉攻略のさなか1582年本能寺で家臣の明智光秀謀反に討たれた

信長の特記事項は海外に目を向けたことである、オランダやポルトガルの交易を行い、地球儀に興味を示し

世界征服さえ頭の中にあったのではないだろうか・・・

楽市楽座という町人が税負担なく商売ができるシステムを作って人を集め町を活性化させた、税収は堺の

富裕商人から大規模徴収したり、港の交易にかけた関税などから得ていた。

信長のもっとも優れた家臣は羽柴秀吉であった、農民の出である秀吉の知恵と才覚を愛して重宝した

 

1582年時点での国内に残る有力大名は以下の通り

奥州伊達政宗、越後上杉景勝、常陸佐竹氏、山形最上氏、奥州南部氏、関東北条氏、駿府徳川氏

中央の織田氏系家臣団(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、池田勝入斎、明智光秀及び信長の有力な息子2名)

中国の覇者毛利氏、四国の覇者長宗我部氏、九州の大友氏、島津氏

こんな中で分裂した織田家臣団同士の内戦、そこで勝ち残った羽柴秀吉は織田家を継承した形になった

このどさくさに領土を拡大したのは徳川家康だった、織田の家臣が逃げ出した甲州を勇猛な武田家臣団ごと得た

同様に越後上杉は信濃北部を回復、奥州は伊達政宗が領土を広げた

毛利氏は秀吉と同盟状態、九州は島津が大友を追い詰めていた、関東北条は上州沼田の真田領を狙っている

しかし事実は羽柴改め豊臣秀吉が圧倒的勢力であった、彼は越後の上杉景勝と同盟し北条と徳川をけん制

北条と徳川は同盟を結んでいる、しかし一度は家康と秀吉が直接決戦をしたが勝負はつかず、策略でついに

秀吉は家康を家臣にすることに成功した、その勢いで四国の長宗我部を平定し、更に九州の島津をも従えた

残るは関東北条と伊達政宗、さらに奥州の小大名群のみ

北条の小田原攻めの時、ついに伊達も秀吉に降る、そして北条も秀吉によって滅ぼされ、奥州も平定、ここに

豊臣秀吉による日本統一がなり、戦国時代も終焉を迎えたと思ったが・・・

秀吉の統一により京の町は華やかな文化が花開き、大阪や堺、博多は海外貿易の拠点として大いに栄えた

日本が大繁栄の豊かな時代になった、秀吉の陽気さがそのまま日本の国風になったのだった

しかし1592年、ついに秀吉の征服欲は海外へと手を伸ばした、中国大陸「明国」を攻めて従えるという

途方もないことをまじめに考え実行した、朝鮮のような小国は従うとふんだが、ところが思わぬ抵抗に遭う、

それでも朝鮮を蹂躙し加藤清正は北朝鮮と中国(現在の)国境まで進軍、朝鮮の皇子を捕虜にした。

小西行長も朝鮮の本道を朝鮮王を追って進軍した

日本軍は100年以上の戦国時代を戦い抜いた戦上手武将たちばかり、しかも武器も朝鮮とは問題にならない

日本軍は破竹の勢いで明国国境を目指した

朝鮮は官僚の勢力争いが伝統的で、海賊程度の対策しか考えず、海外からの侵略にはさほど危機感を

もっていなかった、そこに15万にも及ぶ強力な日本正規軍が進入してきたのだ。

朝鮮王は明国まで逃げ延びた、朝鮮の皇子「光海君」や「義兵」と呼ばれる民兵がゲリラ的な反撃を行った、

明国も宗主国として朝鮮を救う義務がある、5万の救援軍を朝鮮に送った。

海上ではイ.スンシンの海軍が日本軍の補給路を攻撃して成果を上げた、日本軍は勝ち戦を続けながらも、

物資補給がママならず、得るところ無く全軍が帰国した。 元寇の逆を行ったのである。        続く

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい①

2016年11月13日 09時00分51秒 | 日本史

ニニギノミコトが天上界、神の国より日向(宮崎県)高千穂峰に降臨されて

ニニギノミコトを祖として4代目に誕生したのが神武天皇である

以後、14代仲哀天皇までは神話の中の天皇という考え方がある

ゆえに15代応神天皇より古代天皇と位置づけられる

生年が記されるのは第33代推古天皇からで、それ以前の天皇は生年は、はっきいしないものの

古事記にはその性格、行った政治などが記されている

応神天皇の頃にはすでに朝鮮半島との往来が有り、当時朝鮮半島は新羅、百済、高句麗の3国があり

相争っていた

新羅は大陸の唐を後ろ盾に、百済は日本と友好的であった、高句麗は今の北朝鮮と満州を併せた

北方の大国だった、大陸の隋は、唐の前の王朝だったが高句麗との戦争で疲弊して滅んだほどだ

6世紀の末、有力豪族の蘇我氏が強大な権力を握り、天皇さえをも圧迫した

32代崇峻天皇は蘇我氏に殺害されたといわれたほどである、しかし34代舒明天皇の子、中大兄皇子が

645年に蘇我氏を滅ぼして、再び天皇の威光が取り戻された

この頃、新羅に攻められている百済の要請を受けて、日本軍が渡海、白村江の戦いで大敗を喫した

中大兄皇子は661年天智天皇となった、この頃から藤原氏が天皇の側近として勢力を拡大していく

この100年ほどの間の記事としては、仏教の伝来、聖徳太子、法隆寺建立、初の女性天皇推古帝の誕生

などがある

藤原氏の時代は平氏が朝廷に権威をふるうまで約500年栄華を極める

特に藤原仲麻呂、仲成、良房、基経、そして道長が全盛期

そのあとは白河上皇が政治を奪還した。 この頃の武士は身分卑しき下層のものであったが、その中の平氏

清盛は白河上皇に引き立てられて、みるみるうちに勢力を拡大した。

同時に武士の重要性も向上していった、そして平治の乱で平家の地位はついに天皇に継ぐところまで

上り詰め、第80代高倉天皇の后に娘の徳子を送り込むことに成功、ついに平清盛は81代安徳天皇の祖父となった

平氏一族は「平氏にあらずば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇った、これは1150年頃から

1180年頃のことである、しかし清盛が病死すると平氏の衰退が始まる、それは平氏にさんざん煮え湯を飲まされた

源氏の反乱である、清盛の情で命拾いした源頼朝は、叔父や弟、義経などと旗を揚げ、ついに平氏を山口県の

壇ノ浦まで追い詰めて、ついに滅ぼした

この時、7歳の安徳天皇は母、徳子と共に入水して崩御された、平家の栄華はわずか40年足らずだった

平氏を滅ぼした源頼朝は朝廷と距離を置き、鎌倉で幕府を開いて政治を始めた1192年のことである

ここから天皇の御威光、武家の政治という二元政治が始まった、時に天皇自ら政治をされたり、あるいは

武家が政治を主導したりと時代によって変化する、しかし常に天皇は武家の棟梁の主という立場は不滅の

ものである。 武家の棟梁、征夷大将軍は天皇より武家に与えられる委託職である

時に従者の武家が天皇に反乱することがたびたびおこる。

源氏はわずか3代で滅び、頼朝の妻、時子の実家、北条氏が権力を握って執権職となって武家政治を行った

源氏と違って、北条氏の家柄は征夷大将軍になれない。

執権北条時頼は鎌倉を京になぞらえて、京都五山に対して鎌倉五山の寺院を建立した、第一位として建長寺を

建立した。

その子、北条時宗の時にモンゴル族の蒙古が大陸で強大な力をふるって、中国「宋」や朝鮮半島「高麗」を占領、

さらに遠くヨーロッパからイスラム王朝まで侵略した、滅ぼされた国家も数多ある

それが、ついに1274年、海を渡って攻めてきた、九州の博多に上陸した数万の蒙古軍に初戦、準備不足の

九州武士はなすすべなく敗れた。                         続く