昭和19年11月ついにサイパン、テニアン、グアムの米軍基地からB-29が日本爆撃に
飛び立った。 今は日本人の若者たちがビーチで楽しんでいるが約70年前にはサイパンでは
多くの日本人が民間人が戦争のために亡くなった、乱暴なアメリカ軍がやってくる恐怖で婦女子は
岬の断崖から身を投げたのだ。
日本がこうして押しまくられている頃、ヨーロッパ戦線でも日本の同盟国ドイツとイタリアも連合軍に
東西から押しまくられていた、西から米英中心の軍、東からはソビエト軍がドイツの
占領地を次々に解放していった。
アメリカ軍の次の攻撃目標は硫黄島であった、見過ごしても良いような小さな島だがこの島にある
守備隊が邪魔だった。
アメリカ軍が東京を爆撃する場合、サイパンから東京を往復すると5000km近い
B29の航続距離だと何かトラブルが起きれば爆撃後にサイパンまで戻れない可能性がある
しかもこの距離は直線距離で硫黄島の近くを通る、すると発見されて本土では迎撃態勢がいち早く
形成されてしまう、護衛戦闘機はとても行ける距離でなく、だから硫黄島を大きく迂回する必要があった、
そうするとまさにぎりぎりなのだ、燃料がぎりぎりで不時着も多かった。
この島さえ占領してしまえば、アメリカにとって日本のどの都市でも楽々爆撃できるようになる。
佐渡島の10分の1程度の島で最高地点の擂鉢山が170mあとはほぼ平坦な感じの
溶岩台地である、飲料水は自噴していない。
硫黄島の日本軍守備隊は2万数千、サイパンを落とした米軍がまもなく大艦隊と上陸部隊で
攻撃に来るのは目に見えている、そのため守備隊長の栗林中将の命令一下、未曾有の溶岩台地
穴掘り作戦が始まる、硫黄島の名が示すとおり西ノ島の成り立ち同様、海底火山の噴火でできた
島だ、これを掘削して長大な防御陣地を作るのは容易ではない、だがみんなやり遂げた。
栗林中将は温厚で家庭思いで筆まめな人柄であった、またアメリカ通でもあった、その人柄は
彼のことを書いたノンフィクションを読めばよくわかる。
戦場に在っては冷静沈着で気配りが行き届き、部下思いである、日本の封建的な訳のわからない
司令官、指揮官が多い中で栗林中将は代表的な名将だった、また敵にも尊敬される人だった。
そして部下にはオリンピックの馬術で金メダルを取った西中佐もいる、彼の死を惜しんだ敵国の
アスリートたちも多かっただろう。
勝ち負けだけ決めるなら、戦争ではなくスポーツでも良いわけだ、だが戦争には複雑な破壊と
死を伴う麻薬的快楽要素が潜んでいる。
静けさが漂う硫黄島に8万の上陸兵、海を覆い尽くした艦船、おびただしい爆撃機、爆弾と艦砲
射撃が島の形を変えるほど降り注いだ。
もともと森も林もない裸の島だ、攻撃するには楽である、日本軍の反撃はなく、敵兵の大半が
陣地と共に埋もれてしまったと思われた、数万の兵が上陸した、物資が海岸に山積みになった
そこに猛烈な日本軍の砲弾が飛び込んできた、あっという間に数百の犠牲者が出た、時間と共に
犠牲者は増えていく。
栗林中将の果敢で緻密な作戦により逃げ場のない、縦4km横8kmの小さな島の陣地で、支援の
飛行機も艦船も戦車もない栗林師団は3倍の敵兵と、圧倒的な艦船と飛行機と砲撃に堪えながら
1ヶ月もゲリラ戦で持ちこたえ、結果的にはほぼ全滅したが戦死と負傷の合計ではアメリカ軍の方が
日本軍より多かったのだった、栗林中将こそ軍人としても人間としても最高のナイスガイだと思う。
3月9日の午後、この島で10万の日米両軍が死闘を繰り広げる頭上をグアム、サイパンなどから
数百機のB29爆撃機が東京目指して飛び立った、そして3月10日零時過ぎ、寝静まった東京に
油をまき散らし、それからおびただしい数の発火材の焼夷弾をばらまいた、今までの空襲は中島
飛行機工場などの軍需施設を狙ったが、今回は明らかに非戦闘員の住宅地狙いだ、それも低空飛行
で確実に命中させていく、一夜にして東京の半分、下町地区が焼き尽くされ10万人以上の市民が
焼き殺され、防空壕に逃げた人々は蒸し焼きになった、隅田川は関東大震災以来またしても溺死体で
溢れた、翌日からは黒焦げの遺体やズブ濡れの遺体が隅田公園や浅草寺、錦糸公園などに積み上げ
られた、悪魔の仕業としか言えない残虐な行為だった、この作戦を指揮した米空軍の将軍には戦後日本
から最高の勲章が贈られた。
1週間前にはフィリピンもアメリカが制圧した、マッカーサーは発言通り「戻ってきた」のだった。
そして勝ちに乗じたアメリカ軍は日本の前線防衛基地の台湾を無視して、4月1日沖縄に上陸した、悲劇の
沖縄戦の始まりだった。 つづく