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日本の歴史 おさらい⑥

2016年11月16日 09時00分42秒 | 日本史

1868年1月末、鳥羽伏見の戦いで勝って勢いを得た薩長を中心とする軍は

天皇の軍隊の証、錦の御旗を先頭に徳川慶喜とその家臣団を討伐するため軍を関東に向けた

錦の御旗を持つ軍は「官軍」であり、それに手向かう者は「賊軍」となる

先日まで官軍として賊軍の長州攻めをしていた徳川家が、今は立場逆転の賊軍となってしまった

これも孝明天皇が崩御され、若い明治天皇が長州寄りの公家、岩倉具視卿らに取り込まれたからだ

官軍の先頭に立つ司令官は西郷隆盛、そしてもう一人公家の総大将は婚約者皇女和宮を徳川家に

横取りされて悔し涙を流した、有栖川宮であった。

官軍は北陸道、東海道などに軍を分けて北上していく、途中にはさしたる抵抗をする藩はない

特筆すべきは、徳川家康の四天王と言われた伊井家(井伊直弼が藩主だった藩)は、徳川家最前線の

守りを任されて、滋賀の彦根に配されたのだが、それが徳川方で真っ先に官軍に寝返ったのだ。

飼い犬に手をかまれるとはまさにこれだ、しかも途中、御三家の尾張藩などの大藩までも官軍に恭順

こうした道中で行き当たる諸大名は恭順を示し、官軍に兵を参加させたり、軍需物資や兵糧を出したり

また小さな藩は兵を出さず軍資金を出すなどして保身に勤めた。

そのため官軍はどんどんふくれあがっていく、すでに敵役の徳川慶喜は自ら謹慎して無抵抗の意志を表明

これでは佐幕派の藩でも、徳川家のためにあえて焼け石に水の戦はしません。

唯一抵抗があったのは東山道軍に対する、甲州勝山での新撰組など幕府残党軍、ここで鬼と言われた

新撰組局長、近藤勇は捕縛され、さらし首になります、一方副長の土方歳三は戦いながら函館まで落ち延び

そこで戦死しました。

官軍は徳川慶喜が謹慎して恭順の意を示しているものの、それに反発して徹底抗戦を主張している旧幕府軍

が相当数いて、再び江戸で大戦争が起こることを予想していた、一方旧幕府軍でも官軍が江戸に攻め入ったら

江戸に火をつけて抗戦しようという作戦もあったらしい。

いずれにしろ世界有数の大都市江戸で江悲惨な戦火がおこれば、官軍が勝ったにしろ日本という統一国家単位で

考えれば明らかに国力は低下する、そうすれば瞬く間に欧米列強に清国同様、植民地化されてしまう。

そのように考えたのが、徳川家の家臣「勝海舟」であった、この人はこの時代に合って滅法、先見の明がある人で

日本という世界の中の国家のために徳川家は消滅して良いという世界感を早くから持っていた。

江戸での大戦は愚の骨頂、欧米という鳶に日本という油揚げがさらわれてしまうと、征討軍の大参謀西郷隆盛に

直談判、西郷も納得して江戸城攻撃をやめた。ここに江戸城は無血開城され、徳川慶喜の命は保証された

150年前の日本人の賢さが表れているエピソードだ。

 

徳川家を叩きつぶした官軍であったが、どうしても気が済まないことが一つ残っている

それは官軍と言うより、薩摩藩、長州藩がもつ会津藩に対する私怨である。

京の都、禁門の変では会津は薩摩と共に長州をさんざんに痛めつけた、久坂玄瑞など生きていれば日本の

指導者として活躍した志士が多数戦死した、また池田屋事件でも志士が会津藩おかかえの新撰組に多数惨殺

されている、その恨みを晴らすのは今だ。

すでに会津藩も官軍に恭順の意を示していた、しかし会津だけは恭順は認めない、徹底的に攻撃して会津藩主

松平容保の首を取ると息巻く。

これを聞いた越後奥羽の諸藩30藩ほどが仙台藩を中心として、「奥羽越列藩同盟」を結成して官軍に対抗する

意志を示しながら、会津藩の恭順を認める嘆願を官軍に提出した、しかしそれも否認されてしまった。

 

北陸道を戦闘もなく順調に会津に向けて進んでいた北陸道軍は、越後で手痛い戦闘に巻き込まれた

越後長岡藩との戦闘が起こったのだ、長岡藩を率いるのは家老の河井継之助、長岡藩は徳川譜代大名牧野家

小さな取るに足らない数万石の大名であるが・・・・・        つづく