神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

快晴の立科高原 アルプスがばっちり

2016年11月17日 19時38分36秒 | ドライブ

11月16日、信州のど真ん中、蓼科高原を横断、素晴らしい快晴に恵まれて

美しい山並みをくっきりと見ることができた

茅野から入り、国道152号から299号メルヘン街道に入る、この道路はすでに

麦草峠が交通止めで来年の5月過ぎまで通行できない。

奥蓼科横谷峡近くを通っていく

奥蓼科温泉郷の宿は数軒点在するが、その一軒には女房殿が独身時代自由気ままに

働かせていただいていた、結婚後3回ほど訪ねたが、静かで山菜の天ぷらがおいしかった、また二人で

行きたいと思っている。

別荘地の森の中を抜けてビーナスラインに入る、北八ヶ岳ロープウェイ乗り場を過ぎると大きく道路は

左折しながらぐんぐん登っていく、途中からの眺めは素晴らしく、蓼科山、八ヶ岳から南アルプス、

甲州の山々、さらに木曽の山並みまでの大パノラマだ

スズラン峠を越えるともう蓼科山の山麓だ、山容が大きく迫ってくる

全体的におむすび方で諏訪富士の呼び名もある

立科の盟主、蓼科山2531m 

中央の大きなピークが甲斐駒ヶ岳2967m、その左奥のピークは日本第二位の高さの南アルプス北岳3193m

右端奥の大きなピークは南アルプス仙丈ヶ岳3033m,南アルプスは静岡、長野、山梨にわたって広がる広大な

山脈、その奥深さは北アルプスに勝る、3000m級も富士山を別にしても9座を数え、北アルプスに匹敵する。 

中央遠く薄く見える山脈は中央アルプスと主峰の木曽駒ヶ岳、甲斐駒ヶ岳に次ぐ2956m

蓼科高原から見る八ヶ岳はこんなに近い 八ヶ岳最高峰赤岳2899m

スズラン峠付近からは北アルプスそしてビーナスラインがパノラマとなって広がる、

女性的な山容が美しい車山1925m、山頂には気象レーダーの建物が見える、

裾野に広がる芦田の森は原生林の感がする。 

 

中央に鋭角にそそり立つ北アルプスの代表的なピーク、槍ヶ岳、日本第5位の3180m

槍ヶ岳の前のやや薄黒い山脈は安曇野の山脈、槍の右手前大きなピークは常念岳2857m 

蝶ヶ岳2677mへと南下していく

槍ヶ岳のさらに左に連なる、穂高連峰、日本第3位奥穂高岳3190mなど、槍ヶ岳を含め

3000m級のピークが8座も連なる日本の屋根だ

長い冬を前に、最高の景色を見ることができた、良い一日でした


日本の歴史 おさらい⑦

2016年11月17日 17時44分50秒 | 日本史

越後人は一般的におっとりした旦那さん風で、争いを好まず、人見知りでお人好しだ

越後長岡藩家老、河井継之助は話せばわかると思って、官軍の本営を訪ねたのだろう

そして「長岡藩は官軍にも幕府軍にもどちらにもつかず中立でいますから、わが藩にはかまわず

お通りください」とやったのだろう。

ところが勝ちに乗じた官軍参謀は高飛車に「日和見は許さぬ、我らに下らねば攻め滅ぼすだけだ」と

脅しをかけてきた、頑固でかたくなでへそを曲げるとどうにもならないのも越後人だ。

この言葉には頭にきてしまった、「ならば我らは官軍相手に一戦つかまつる」だ

そうなれば官軍から見れば長岡は会津賊軍の味方というふうに決めてしまう、藩は小さいが

日本に数台しかない最新鋭のガトリング砲を長岡藩は持っている、いわば機関銃だ

官軍は攻めあぐねたけれど、結局長岡城は落城して、藩兵は城外に引いた

しかし、これで終わらなかった、なんと長岡藩兵は再び、長岡城の官軍を急襲して城を取り戻した

官軍には思いがけぬ強敵であった、越後人の粘り強さだ、だが抵抗もそれまでで再度、落城

河井は重傷を負って、家臣に運ばれて会津を目指して落ちていったが、西会津の片田舎で落命した

 

いよいよ官軍の矛先は会津藩ただ一つ、津川口、白河口、そして磐城口からは二本松城に攻め寄せた

二本松城はあっけなく落城した、しかし会津白虎隊と同様に二本松少年隊の悲劇は今も語り継がれている

こうなると頼りの仙台藩や米沢藩までも官軍に降伏してしまった、会津は孤立無援となった

会津には会津藩兵のほかにも大鳥圭介率いる旧幕軍や土方歳三率いる新撰組の残党なども加わっていた

会津戦争は会津若松城に籠城約半年、10倍近い官軍を相手に戦い抜いた、籠城ばかりでなく

城外でも会津兵や旧幕府軍の兵はよく戦った、また上級武士の妻や娘も長刀をもって戦った

とくに少年たちで編成された白虎隊は城が落城したと思い込み、1人の蘇生以外全員が自害した悲劇は

会津戦争の悲惨な出来事として語り継がれている。

しかし会津城外に取り残された藩兵の家族も悲惨であった、男たちは無残に殺され、女性は陵辱され殺害された

そんな恥辱は受けまいと思う者は幼児から老婆まで全て自害した、また生き残った人たちは山中深く

逃げ惑った。 長州藩兵の暴虐はとくにすさまじく会津人を人と思わぬ行為を重ねた、その恨みは平成の

時代まで会津人の一部に残ってるという。

明治元年秋、ついに落城、城は砲撃で穴だらけになり天守閣は傾いた。 当然藩主、松平容保は死刑になるものと

考えられたが、官軍内部からの助命嘆願により罪一等を減じられ処刑を免れた。

会津藩兵と家族はその後、青森のへんぴな地域に集団移転させられ、悲惨な苦難生活が始まる

また数日後には奥羽にあって唯一勝ち戦を続けていた山形庄内藩も降伏した、これで本州での戦闘は全て終了

した、しかし未だ榎本武揚率いる幕府海軍が健在であった、しかし宮古湾の海戦で榎本艦隊は敗北を喫し北上

ついに北海道に渡り、函館五稜郭を占領して土方歳三等と立てこもって抵抗を続けた。

北海道で旧幕府新政府をつくって、独立国とするつもりだったともいう説がある。

しかし明治2年5月7ヶ月の戦闘の末、旧幕軍は降伏して、戊辰戦争は終結した。

 

このあと日本の制度は武家社会から欧米風の社会に一気に大転換する、封建制度の終結

一番の変化は天皇陛下のお住まいである皇居を京都から東京に遷都したことである

大昔は畿内で何度か遷都はあったが、幕府政治の地とは言え当時は田舎と見られた江戸に遷都

するのは大きな決断であった。

そして大名や武士という職業がなくなって、役所と役人に代わった、大名が統治していた藩が県に

名前が変わり、藩主の多くは県知事になった。(廃藩置県)

ちょんまげを切り落とし西洋風の髪型が奨励され、武士の命とされた刀は帯刀を禁じられた

やがて県知事を務めた大名等は正確には近代的な政治力は無く、次第に東京政府(維新革命を

実行した大久保利通、桂小五郎、西郷隆盛、伊藤博文など薩長中心の中下級武士がつくった

中央集権の明治政府)が派遣する役人が(維新の主力の藩出身者)県知事(県令)に治まっていった

大名には貴族としての地位が与えられて、閑で豊かな生活のみが保証された、もちろんかっての家臣

であった武士階級は廃止され、みな平民として全国に散っていった、帰農する者、明治政府の兵や役人

として就業する者も多かった。

 

明治政府は世界の一員として認められた、先進諸国との条約を結び欧米化は進んだ

建物も欧米風のものが建ち並び、鉄道が敷かれ、電車や自動車が都会を走った。

欧米のまねをして、欧米化することが日本のこれからの発展につながる近道と考えたのであろう

鹿鳴館という欧米官吏との社交場をもうけたダンスパーティなどを開いた。

こうした上級官吏の華やかな生活の陰に、失業したかっての武士階級の人々は武士の特権を奪われ

平民となったが、平民の暮らしになじめぬ者も多い、そうした者たちの間に不平不満が溜まった

また維新を成し遂げた指導者でも、思っていた社会と違うと感じる者もでてきた、特に武家社会が

存続して大名が政治を主導する新政府ができると思っていた者もいたようだ、しかし大久保等が造った

新政権はまったく異なるあたらしい欧米風社会であった。

そのため明治一桁の年代は相次いで不平武士団の反乱が日本各地で起きた。

明治7年、新政府の中心にいた元参議、江藤新平を中心におこった「佐賀の乱」

明治9年には福岡県、熊本県でも相次いで不平士族が反乱を起こし、更に新政府の母体

山口県の萩で、維新革命の大功労者で元参議、前原一誠が首領となって「萩の乱」をおこした

いずれも鎮圧され、江藤も前原も処刑された、新政府の大臣級が相次いでおこした反乱は

失業した武士たちの行き場のない失望のあらわれであろう、前原にせよ江藤にせよそれぞれ

新政府内で、征韓論など方針の対立で敗れて下野した参議が不平士族と共におこしたのである

そして翌年には、不平士族の反乱では最大の事件が鹿児島で起こった。 薩摩、長州は明治維新を

リードした二大藩であるが、それぞれの膝元で相次いで反乱がおこったのは面目に関わる

この明治10年の鹿児島の反乱は後に「西南戦争」と呼ばれたが、その首領は官軍を率いて江戸入城した

大元帥西郷隆盛だった。 西郷は参議、陸軍大将も勤めたが大久保利通と意見が合わず薩摩に下野して

いたのだが、薩摩の不平士族に嘆願されてついに首領になったのだ。

薩摩を代表する西郷と大久保が対決すると言うことは、薩摩が二分したに等しい、新政府がこれに手こずれば

できたばかりの足腰が弱い政府はいつ崩壊するかわからない危機である、なんとしてでも早急にこれを

鎮圧しなければならなかった。

結局、九州全域を戦場とした西南戦争は西郷の死によって約7ヶ月間の大戦争は終わった、両軍併せて10万の

大戦争だった、この戦争の特徴は少数派(西郷軍)の籠城戦ではなく、各地の不平士族を併せながらの積極的な

攻撃戦だったこと、西郷軍が乃木希典守る熊本城を攻めたのは攻守逆転の感さえある。

西郷軍は数の劣勢はあったもののほぼ互角に戦ったのであった、これによって新政府は軍の強化の必要性を

感じ、富国強兵に取り組んだ、それにより東南アジア最強の軍隊を持つに至った。

                                                     つづく