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日本の歴史 おさらい⑧

2016年11月18日 20時28分57秒 | 日本史

薩摩武士団の反乱「西南戦争」が終わって8年後、1885年(明治18年)日本初代の

総理大臣が誕生した、長州出身の伊藤博文である。

薩摩の代表者であり、新政府の担い手だった2代巨頭、西郷と大久保、西郷は「西南戦争」で大久保が

送った新政府軍によって明治10年に自害、その大久保も翌年、襲撃されて死んだ。

薩長の政治勢力は長州にいささか傾いたようだ。

1885年ともなると、もう新政権も要領を得て、次々に新しい日本ができあがっていく、ここまでくると

江戸時代のような日本国内だけですむ話ではなく、否が応でも欧米との競争が強いられる。

世界とまでは行かないがステージは東アジア、この中で日本のスタンスがどうなるのか、その努力が必要

となる、東アジアレベルで見ないと、日本の歴史が語れないほど時代は進んだ。

日本に比べ、欧米化ができなかった清国と朝鮮国は欧米諸国の格好の餌食になった。

満州人が中国人の国家「明国」を滅ぼして中原に侵略国家「清国」を造って250年近い、この頃には

国内各地で中国人による反乱が起きている、そして北方の強大なロシア帝国が清国の北方の領土を

侵略している、一方南方の領土インドシナ半島の清国の属国もフランスなどの欧州の強国に横取りされた

イギリスは既にアヘン戦争で香港を始め駐留している。

弱まった清国は「眠れる獅子」と言われながら実は満身創痍の病気の獅子であった、それでも日本より強力な

艦隊をもっていて強そうな外面は保っていたのである。

 

その清国の保護国である朝鮮王朝は建国以来500年になろうとしていた、こちらもすでに王朝の力は衰え

王様一族とヤンバンと呼ばれる貴族政治家だけが栄華をむさぼっていた、そのためこの国でも民衆が蜂起し

また若手の革新的なヤンバン青年は朝鮮も日本のように欧米化しなくてはという危機感を持って運動した

しかし政権からみればそれは反逆に等しく、弾圧を加えた、そのため彼らは日本に亡命したり戻ったりして活動を

続けた、しかし主導者のキムオッキンは暗殺され、他の者も殺されたり投獄されて、朝鮮の近代化はならなかった

こんな情勢の中で、朝鮮半島は火種の元になってきた、朝鮮国内で東学党の乱がおこると、鎮圧のため清国に

軍隊の派遣を求めた、清国軍が朝鮮に渡ると、日本は「清国と日本は互いに朝鮮への派兵はしない」という

天津条約の裏を突き、日本も朝鮮に軍隊を送った、結局これが開戦の引き金となった、1894年日清戦争が朝鮮で

勃発、日本は強く、瞬く間に袁世凱率いる清国軍を撃破して進軍を続けた。

また海上では大型軍艦をもつ清国北洋艦隊に、東郷平八郎率いる帝国海軍が攻撃、巨大戦艦2隻撃沈を含め

ほぼパーフェクトの勝利を収めた、翌年にはわずか8ヶ月の戦闘で清国は日本に降伏した。

李鴻章との降伏条件を決めた下関条約を締結、日本は国家予算の数倍の賠償金を受け取ったほか、台湾、遼東半島

などの割譲、朝鮮を清国は干渉をやめて独立国とすることなどを約束させた。

清国の敗北で、清国の威厳は地に落ち、欧米列強はますます清国の国土を蹂躙するようになった。

朝鮮は日本のもとで国内政治をするような形になり、宗主国が清国から日本に移っただけであった。

しかしこの条約にフランス、ドイツ、ロシアの三国からクレームがついた(三国干渉)

「清国に遼東半島を返還しろ」という高飛車なものだった、日本にはこの三国を相手に押し切る力はまだまだない

泣く泣く、返還したのだった、それをロシアはちゃっかりと清国から借り受けて挑戦経営の足がかりにしようとした。

1900年、北京で欧米列強の進駐に対して清国人の武力暴動が起こった(義和団の乱)バックでは西太后が糸を

引いているらしい。                    つづく