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北九州旅行記6

2019年04月27日 21時04分57秒 | 旅行 九州四国・東アジア

「炭鉱」、今の子供たちには馴染みの無い言葉。

私たちが小学生、中学生の昭和30.40年代にはニュースで落盤事故が伝えられた

そのテレビニュースでは防空壕の様な入り口から次々と遺体が運び出される様子や

泣き崩れる家族、安否不明で不安な家族が映し出された

救助の人々の顔も服も真っ黒なのが印象深かった

このように明治から昭和のかなり近代まで炭鉱事故は多発して、時には数百名の犠牲者が出る

大事故もおこった。

私の中では炭鉱というと暗い、怖い、辛い、そんなイメージしか無い、けれど軍艦島の閉山までの

ニュース映画を見ると、狭いながらも超近代化されたアパートで暮らし、祭りやイベントも行われていた

神社も映画館も喫茶店も島内にあり、お寺もあったようだが唯一、火葬場だけが無かったという

それで隣の島で火葬が行われたのだという

人工島ゆえ飲み水が当然無かった、それで海水を濾過して飲料水にしていたが、いつぞやにとうとう

本土から飲料水のパイプラインが完成したという

こうした良いめんもあったが、やはり炭鉱労働の実態は過酷だったという

上の写真の2枚目右端に階段がある、登ったところに(2つの窓)一握りの幹部社員がこれから坑道に入っていく

多くの炭鉱夫の健康などのチェックをした場所だそうだ

1枚目の写真は2枚目の右方向から見たもので、2枚窓から正面の青いフェンスの方に渡り廊下のような通路が延びて

(今は無い)行き着いた斜面の入り口から中に入ると採掘現場に向かう数百mに及ぶ縦穴をエレベーターで下る

そのエレベーターは屋根もない、箱でも無い、足場ががあるだけで、そこに安全のために捕まるアームが巡らされて

いるだけの台だったという

だから抗夫たちは下りるのでは無く、落ちていくのだと表現したという、そして着いたあなの底から今度は、横穴移動で

1000数百メートル先の現場まで行くのだという、当然そこは軍艦島から遥かに離れた海の底でパンフによれば

海面下1000m以上にも及ぶ地点だったと言うことです。

ここでは大規模な落盤事故やガス爆発などは無かったらしいですが、作業前にあの2つ窓で点呼を受けたけれど

生きて帰ってこなかった人は数十名に及んだとのこと、それは公式記録であって実際は百名を超えているだろうという

推測もあるようです

このような採炭現場は四十度近い温度の上に、湿度95%を超える超蒸し暑い環境であったと言うことです

当然、このような重労働は勘ぐれば高給であったと想像されるわけですが、命をすり減らす並みの人間ではつとまらぬ

男の世界であったと思います

石油の台頭で石炭の減産が続き、1974年1月に閉山、軍艦島の住民も新たな仕事を求めて本土へと戻っていきました

他の炭鉱に移った人も多かったと言うことです。

ガイドさんが言っていました、石炭を見たことがある人と無い人は年代の境界があるとのこと、当然私たちは石炭を暖房

として使用し、蒸気機関車の石炭すすで顔を真っ黒にして「目が痛い!」と笑いあった年代です

高校時代も教室に石炭燃料の達磨ストーブがありましたし、その熱で弁当を温めたり、ストーブの上にヤカンを乗せて

その中にインスタントラーメンを入れて煮たこともあります

家では石炭は使わず練炭や豆炭を使っていました。石炭には随分とお世話になった世代です。

まだまだ土産話はありますが切りが無いので、軍艦島を離れます

 

 

 

最後に・・・・・・ここが閉山されたとき私は23歳、ということは私と同年代でここで働いておられた方も

いると思われます、そうした現実を思えば、これは過去のドラマでは無く、今も心に思い出と思いを

焼き付けた人たちのリアルタイムだと思います

我々外部からの人間は過去の遺物(遺産)としてこの廃墟のような建物を見ていますが、ここで暮らして

いた方々にとっては懐かしい生活の思いでの場なのです「あの部屋に住んでいたんだ」と感慨深く見て

おられるでしょう、それは私が小学生まで生まれ育った住居跡に立って当時を思い出すのと同じだと思います

賑やかだった当時の軍艦島が彼らの脳裏で蘇るでしょう、そういった人たちも密やかに訪れるそうで、ここを

案内するガイドさんは一般観光客との違いをすぐに察すると言います。

「みなさんが今見ておられるのは、もっとも新しい今の軍艦島の姿なのです、これからもどんどん崩壊していく

中でみなさんがここでこれを見られた意義は大きいのですよ」

 

                                   軍艦島の章 おわり       つづく