戦争が始まって一ヶ月で昭和17年になった
この年の日本軍の勢いは勇ましく北はアメリカ領のアッツ島、キスカ島を占領
アラスカからソ連の噛むカムッチャッツカ半島に続くアリューシャン列島に
属する島だ
南はマレー半島からインドネシアの大小島々、オーストラリア近くまで占領
現在のベトナム、ビルマ、カンボジアなどがあるインドシナ半島ではオランダ
イギリスなどの占領軍を降伏させた
マレー沖では航空隊がイギリスの巨大戦艦プリンスオブウェールズと高速戦艦
レパルスを撃沈した
数百年も東アジアを支配していたイギリス人に、黄色人種が初めて完全勝利したのだ
大英帝国のプライドは傷ついた
この戦争は欧州でドイツが周辺国のポーランド、フランス、ベルギーに攻め込んで
始まった、それ以前に東洋では日本が中国国境付近で中国と交戦していたから
第二次世界大戦の始まりであった
私はこの日本の戦争を中国大陸で始まった対中国戦争と、16年に始まったビルマ
インドシナでのイギリス・インドなどとの戦争を「大東亜戦争」
太平洋の海とそれに属する島々(インドネシア、南洋群島、フィリピン、台湾など
での主にアメリカとがっぷり四つで戦った戦争を「太平洋戦争」と呼んでいる
大東亜戦争の主役は陸軍で、太平洋戦争の主役は海軍だった
このように日本は二方面で米国、英国という世界の超大国を相手に戦争をしたのだ
もっと言えば泥沼の中国大陸での中国国民党軍+中国共産党軍との戦争も
大きなものだったから3方面での大戦争だったのだ
インドシナ.ビルマ方面での戦争は20年ころまで押し気味であったが、インドを
目指した19年春からのインパール作戦での大敗で一気に敗色濃くなった
中国との大陸での戦争は常に押し気味であった、しかし押せば奥地へと逃げていく
中国軍相手ではいたちごっこで点を抑えても、面を占拠することができなかった
即ち戦場で勝利しても国を占領することはできなかったのだ
アメリカとの太平洋での戦闘は17年までは勝っていたが、6月ミッドウェイ海戦で
主力空母4隻を撃沈されたのがつまづきで、18年からは逆転され制海権
制空権共々にアメリカにとられると、孤立した島々の陸兵は次々と全滅の
憂き目にあって途方も無い戦死者を出した
昭和19年夏からはサイパン、テニアン、グアムがアメリカ軍に占領されて
B-29が常駐出来る飛行場を次々と建設した結果、東京など日本本土が
B-29によって爆撃されるようになった
それでもサイパンあたりからの攻撃はB-29にとってギリギリの距離だったから
日本軍迎撃機や高射砲での撃墜、あるいは太平洋に戻ってからの燃料切れ
や墜落で多くの犠牲が生じた
その大きな原因はサイパン方面から日本本土への直線上にある硫黄島の
日本軍戦闘機による攻撃を回避するため、大回りの迂回をよぎなくされて
いたからだった、遠すぎてB-29の護衛戦闘機をつけることができなかった
からである
しかし20年2月に日本軍の硫黄島守備隊が玉砕して占領されると、サイパン
方面からのB-29は硫黄島上空を直線で飛べるようになって一気に日本爆撃が
容易になった、また護衛戦闘機をつけることも可能になった
そんな戦況の中で父は昭和19年9月に召集された
亀戸の香取神社に集合した新兵は父ともう一人だけであった、各方面の
負け戦は極力秘匿されていたが国民は月ごとに制約が厳しくなる状況下で薄々と
日本が不利になっていることを感じていただろう
少し前までは町内あげて出兵する兵士を万歳万歳の声援で行列を組んで
送り出していたのに、父の時は在郷軍人数人が叱咤激励するのみであった
父が入隊したのは東京調布の晴1903高射砲大隊で配属は通信隊であった
ここは陸軍航空隊第244戦隊の基地でもあり飛行場には飛燕が並んでいた
飛行場の一画に高射砲部隊が展開されているが、これは飛行場を守るという
のではなく中島飛行機武蔵野工場などを爆撃に来るB-29を撃墜するための
高射砲隊である
父の所属する大隊の上に成城の連隊本部があった、そこが中心となって
いくつかの大隊をまとめている
敵機B29は1万メートルの高高度を飛んでくるので普通の高射砲では弾が
届かない、しかし久我山基地には射程二万mとも言われる15センチの
高射砲が二門あった、そのためB29の編隊は久我山の上は通るなと迂回した
という話がある、そして調布にも1万mに届く12cm高射砲が幾つもあった
高射砲というと一発の弾が飛んでいって飛行機に命中すると思うが、実際は
大弾が上空で破裂して中から数百の小弾が200m程の範囲に飛び出して
飛行機に命中するとのことである
そして一門の高射砲を操るにしても弾運び4名くらい、敵の方向を計算する係が
二名、弾込め発射する者、砲の角度などを操作する者2名など10名ほど必要
なのだ、父も通信兵だが入隊して半年間は砲の操作の訓練を受けた
入隊して間もなく、無線の研修のため調布から毎日、成城まで講義を
受けに通った、毎朝おにぎりをもらって行ったという
そんなある日、成城に居たとき、福島県三春の忠藏叔父さんが訪ねて来た
忠藏叔父さんは、父の祖母キクが最初に結婚した夫、三五郎が
キクと離婚した後、三春で再婚して生まれたのが忠藏叔父さんである
父の母とは腹違いの姉弟となる
太平洋戦争が始まる前、母が小学生の父を連れて上野駅へ行ったことがある
それは中国戦線で戦った福島の部隊が凱旋して上野駅に入るということで
あった、その部隊に忠藏叔父さんが兵隊としていたのだ
その部隊こそ今もなお中国ともめている昭和12年の南京事件の両角
(もろずみ)部隊であった、叔父さんはその部隊の兵士であった
叔父さんからはこの事件の話しはいっさい聞いていない。
ともあれ、その忠藏叔父さんが訪ねて来たのだった
「つれて行きたいところがあるからついて来い」と言うだけだった
一体遙々と何の為に叔父さんが来たのか思い当たる節がなく
怪訝な気持ちのまま、父は叔父さんの後をついて行った