この町に来てから一ヶ月が過ぎて、少しずつ町の様子もわかってきた
情報源の大部分が従兄弟の畑山太郎からのものであった
それと腰越の伯父さんの大八車を押しながら世間との繋がりもできてきて
次第にこの町も面白くなってきた
太郎が働いているのは総合的な化学工場「東亞精製工業」という大企業である
戦争前から日本に職を求めてきた朝鮮人(1910年に日本に併合されて終戦までは
日本人とされていた)も大勢働いていて、町の一角は朝鮮町になっていた
また戦争中には米英の捕虜もこの工場で労働していた、戦後戦犯として裁かれた
ものはこの工場関係では居なかったから、虐待などはなかったようだ
東亜工業は人口7万ほどのこの町で、4000人の社員を抱えているから、
まさに企業城下町である
この工場に関係する運輸、メンテナンス、給食、原材料、消耗品、電気通信
などの一次的関連産業、社員達の消費や生活物資、電気通信などの二次的
なものまで含めれば影響を受けないものが無いほどである
資本も今に換算すれば1000億円を超えている会社で、本社は東京にあり
ここの工場長は常に本社から取締役が赴任してくる
大概は3年以内に東京へ戻っていく、東京から汽車で10時間もかかる田舎町
冬は町場でも雪が1mも積もる豪雪地帯だから、東京から来る工場長は左遷された
気分になるだろう、しかしここに来るのは出世街道であった
東京に戻れば平取締役は常務の肩書きがつくことが多く、それだけの主要工場
だったのだ
親戚の岸本、五平さん、腰越の長男武も、みんな東亞工業で働いている
畑山の次郎だけが地元で一番大きい建設会社「住田建設」に勤めて居る
父はここに来てからは一度も実父の徳二のところには顔を出していない
徳二の住まいは、平屋で空いた塩小屋を改装したものだ、これは母屋が
昭和初期まで塩を作って販売して居たときの名残だそうだ
30kmの海岸線をもつこの町では、断続的に砂浜と岩場が交互に続く
故に豊臣秀吉が日本を統一したとき、この町では塩作りが始まり、
秀吉政権から数軒の地元有力者に塩問屋の許可状が与えられた
母屋の先祖は武蔵国(埼玉県)の武士だったが16世紀中期に戦で
破れた公方の家臣でこの地まで落ち延びて来て帰農し、その後海運にも
手を出して塩問屋の免許をもらったそうだ
明治以降、家運が傾いて今は江戸時代までの面影も無いのは父の
生家と同じであった
6月の終わり頃だった、父は久しぶりに実父の家を訪ねた、不思議なのは
三人家族だが、働いても居ないのに飢えている様子も無く、施しを受けて
いるわけでもお無いのに配給米だけで生きている
思い切って聞いてみた、すると「時々、漁師の手伝いをして魚をもらってくる」
と言った、そして「おまえも行くか?」と言う
魚はけっこう獲れるが、それを網から外したり、船を陸の船小屋まであげる
人出が不足して漁師は困っているのだそうだ
翌朝から父は実父と一緒に漁師の手伝いに出かけた、早起きはお手の物だ
それでもらった魚を母屋に持って帰ったので、母屋の奥さんが喜んでくれた
実父には現金の収入源もあった、それは多めに魚をもらった時には5km
ほど山の手に入った集落の親戚へ行って、その周辺の農家に余った魚を
売るのだ、たいした数は無いからもらうお金も知れているが、乞食同然の
暮らしだから、服の一.二枚買えたらそれでいいのだ
お金だけで無く、きうりの3本ももらえるから十分であった
そして、そっちの方にも父をつれて行くと言った
それは売上を増やすと言うのでは無く、自分が楽をしようという魂胆なのが
今は亡き母が時々言っていた「怠け者の徳二」の面目なのだ
自分は親戚の家でお茶を飲んで時間を潰し、父に売ってこいと言うのだ
父は素直に教えられた家に行って売りさばいたけれど、徳二と違い
元来働き者だから思った(週1~2回しか親父は売りに来ないが、毎日
売りに来ればこの近辺だけでも100戸はあるからいい商いになるだろう)
それは、その通りだった、けれど問題はある
一つは、今までは漁師のおこぼれだけをもらって売っていたが、商いと
なればもっと多くの魚が必要になる、その仕入れ先だ
二つ目は、この村には駐在(警官)がいて闇米の取締を真剣におこなっている
今は片手に持てるくらいの量だから目こぼしされているが、本格的に
運んだときは、どうなるかわからないという不安だ
それでも「思案するより動け」が信念の父だから、すぐに行動に移した
浜辺では漁があった日に10人ほどの魚屋が集まって、そこで取引していた
父は、これに目をつけていた、そして思い切って漁師のめぼしい者に声を
かけた「おれも魚を売りたいから仲間に入れてくれ」
漁師はじろりと一瞥して「われは、どこのもんだ!」と言った
「おれは舟形左衛門の孫だ」と言うと
「おお!われが世田谷の息子か、東京から来たってもん(者)だな
売らん売らん、東京もんは嫌いじゃ、かっこつけるんじゃないぞ!」
なぜかけんか腰で突っかかってきた
父は悔しくて腹が立った、しかしこの町では新参者だ、東京のように
癇癪を起こして暴れるわけにも行かない
それにしても腹が立つ、あげた拳のやり場がない、悔しい
涙が出るほど悔しい、小学生の時、同級生たちにいじめ抜かれた記憶が
蘇ってきた。