甘利、馬場、内藤、原、春日、山本勘助入道道鬼は、原昌勝の地理案内によって、やすやすと御嶽城にたどり着いた
山本勘道鬼はこれより八人を従えて、城の塀下に忍び寄って地の利を斥候した
そして松明を五、六百本を作らせて木の枝に結いつけた
これに兵士を五十人ばかりつけて、合図があったなら火をつけよと命じた
総勢三千余人、太鼓を打ち、鬨をあげて攻めかかる
無二無三に攻めかかれば、城方も険阻の要害を頼んで攻め入ることなかれと油断していたところに思いがけぬ敵勢来週
一戦もせず、慌てふためいて本丸に逃げ込んだ
天野鬼十郎も討ち死になる、敵は攻めよせてくる、なおも山々、谷々にも数百の松明が照らして攻め寄せるさまに、城中の足軽は元より、主だった勇士までもが戦意を失う始末である
大将、木曽義昌は「もはや叶わぬ」と思い、田山壱岐守をもって、木曽累代の所領全てを差し出して武田家に臣従を誓った
佐馬助信繁は、山本道鬼を召し出して、この件について問えば、山本は「御大将信玄の心は、信州のような国を五か国、六か国ほど得たくらいで満足するような小さな器量ではない、四国、九州の果てまでも傘下に収める気概を持った大量の大将である。此度は木曽の願いを受け容れて重く用いれば、更に攻め上っていっても信玄の仁心を慕って旗下に従う者が多いでありましょう、これ血を流さずに国を得る謀なり、早く本陣に告げて木曽の罪を許し給え」と申せば
佐馬助は「もっともなり」と信玄の本陣に伝えれば信玄もご機嫌よろしく、「木曽には本領安堵の上、信玄の姫を木曽家に嫁がせて婿とする」と申された
そして甲州へと帰陣した。
その年は年号の改元があって、弘治元年と号す、十二月左馬頭義昌父子は甲州に出仕すれば信玄は喜んで、千村備前守、山村新左衛門尉を姫君に差し添えて、木曽に輿入れとなる
穴山殿も、木曽を尊敬する旨を仰せになり、木曽の義昌は大いに面目を施しける。
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