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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(239) 甲越 川中島血戦 66

2024年11月01日 20時01分05秒 | 甲越軍記
 上杉政虎入道謙信は、上杉憲政に頼まれて上野に攻め下り、北條氏康と昼夜に渡り戦う
同七月には越中国へ向かい、神保左京進、椎名肥前守、遊佐、土肥、土屋など越中の諸将と戦って、これを追いつめ、あるいは信州に兵を出して、武田信玄と睨み合う

中にも、越中、上野では戦うごとに勝利して威を振るうことは朝日が昇るが如し
みな謙信の猛威に恐れをなす
ところが信州だけは武田信玄、名将なれば互いに睨み合うだけで少しも勝敗がつかない、未だ互いに何の益もなく雌雄を決する戦も無い
謙信は備えを固めて動かぬ信玄に苛立ち、快く矛先を交えんと、弘治二年三月下旬、大軍を持って信州に発向する

先備えには高梨政頼、村上義清、足軽大将小室平九郎、安藤八郎兵衛、脇備えには少し下って、川田対馬守、石川備後守、高梨源三郎、次に本庄美濃守、平賀久七郎、唐崎孫次郎
二陣には斉藤朝信、柿崎景家、北条長朝、毛利広俊、大関親益、
旗本の脇備え、安田上総介、鐵上野介、山吉玄蕃、吉江織部、須田右衛門尉
後陣には萬願寺源蔵、小島弥太郎、直江山城守、金津新兵衛
本陣に下がって、宇佐美定行、遊軍として新発田長敦、同因幡守、杉原壱岐守、そのほか、色部長実、柏崎日向守、甘粕近江守、平賀頼経、長尾平八郎、臼杵包兵衛はじめ諸大将、謙信に従い川中島へと向かった。

この時、武田信玄は信州伊奈に出陣有りて、所々に手配りをして城を攻められるところに謙信の川中島出張の報が伝わり、信玄公は山本道鬼を召して軍議を行う
山本が申し上げるには「上杉は近年上野、越中に攻め込み、これを討ち、その勢いはますます強大となっております、謙信が勇猛な上に軍兵もこれに加わり、その勢は甚だ強大であります
されども当家の虚を伺うこと叶わず無念に思い、無二の一戦を望んでいることは明らかです
謙信は木曽、小笠原ごときの敵とは違いますので、ゆめゆめ油断なさらぬことが肝要です」と云うと信玄も「我も、そのように思う」と返した。

いよいよ信玄も甲信の備えを決めて出陣となった
先備えは、春日弾正、落合伊勢守、布施大和守、室賀二貫、真田一徳斎、保科弾正、清野常陸介、市川和泉守
脇備えは飫冨兵部少輔、馬場民部少輔、飯島左衛門、駒澤新左衛門、小幡因幡守、河野丹後守
二陣は秋山伯耆守、甘利左衛門尉、長坂釣閑、小山田弥三郎、相木市兵衛、望月甚八、芦田下野守
後陣は原美濃守、遊軍に山本勘助入道、飫冨三郎兵衛、日向大和守、武田左馬介、そのほか二十二名の士大将を始め大軍を率いて川中島に出張った。

上杉と対陣したが、いつもの如く一分の隙も無い陣構えで対立すれば、甲州勢打ち出る気配ないとみて越後勢は足軽を使い、甲州勢が見守る目の前にて青田刈りの狼藉を始めた
青田刈りとは、敵地の田畑の稲や野菜を刈り取ることである、稲、麦は兵糧であり、武士たちの扶持米でもあるから、これをやられるのは痛手となる
それでも武田軍は陣から出る気配なく、越後の兵はますます敵を侮って、より近くの田畑まで刈り取る

春日弾正の足軽たちは、これを見ていよいよ憤慨した
そして「憎き草刈りの仕業かな、もはや許すまじ」と憤って百名ほどが馳せ出て越後勢の足軽を追い立てる
これには油断していた越後兵は大いに驚き騒ぎ逃げ惑うを面白がって追いかけていく
しかし、これこそ動かぬ甲州兵を動かすための謙信の陽動作戦であった
春日弾正の兵は深入りしてしまった、ここに越後方の高梨の伏兵が一斉に立ち上がり、弾正の足軽を包み込んで百名一人取り残らず討ち取った

これを見て春日弾正の陣より、吉口久左衛門、平野石見、多々良掃部などの勇士騎兵、百余騎がわめき叫んで高梨の伏兵に襲い掛かった。


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