腹が立つやら悔しいやら、どうにも虫がおさまらない
前もろくに見ずに早足で歩いている、誰かにぶちまけないと爆発しそうだ
母屋の長男は漁師だったが気が荒く、町中(まちなか)で天秤棒を
振り回して大立ち回りをしたとか、癇癪癖があってとうとう左衛門じいは
廃嫡してしまった。
家を追い出された後は反省したのか、家に戻りたくて何日も家のまわりを
うろうろしていたが、左衛門爺はついに勘当を解かなかった
(俺にも、その血がながれているのかもしれん)とは思わないが
ちらっとそんな事を思い出したのだった
足はいつの間にか腰越の家にむかっていた、腰越は畑山太郎のお袋が
再婚した先だ
太郎は父と同い年だが昭和21年に22歳で結婚していた
「結婚ってのは思っていたよりいいもんだ、次郎が満州に15歳で渡ってから
お袋は、すっかり腰越の家のものになって少しも面倒見てくれないし
仕方なしに結婚したようなものだが、一人でやっていたことを二人で
やるのは4倍もはかがいく、何よりも晩飯がうまい」などとのろけたが
実は父に暗に結婚を勧めているのだ
そのお袋さんが庭先でタライで選択をしている
「おや!かずじゃないか、どうした怖い顔して」
田舎のばあさん(とは言っても、まだ50前だ)だと思っていたが、なかなかの
苦労人で世間に詳しい、親戚の中でも頼りにされているのだ
父がこうして今ここに来たのも何かの解決策を期待したからかも知れない
「田舎もんは肝っ玉が小さくて話にならない、魚一匹売らないとはどういう了見だ
おれは東京に帰る、腹が立って仕方ない」
腰越の伯母さんに苛立つ気持ちをぶつけた
伯母さんは静かに言った
「田舎の人間は小村根性だから仕方ない、だがそんな事で東京へ帰るとか
言うおまえも心が狭いぞ! 今のおまえは四方八方暗闇の中でもがいて
いるんじゃ、そんなときはなあ田舎に居ようが、東京に居ようが何も変わらん
ここで辛抱するのが一番じゃ、辛抱せい、そのうち闇は晴れるから」
伯母さんの言葉には説得力があった、ぐさっと弱い心に刺さってきた
怒りがす~っと薄らぐのがわかった、それは伯母さんの暖かい心に触れた
からだ、孤独だと思ったこの町でも、腰越の伯母さんと、畑山太郎という
相談相手が居ることに気づいたのだった。
そして翌日も気を取り直して漁師に掛け合ったが、相変わらず頑固に
断るばかりでどうにもならなかった
とぼとぼと裏道を歩いていたら、後から自転車の気配がして振り向いた
30歳くらいの男が乗っていたが「おーい、あんちゃんよ」と声をかけてきた
?と思ったが黙っていると
「ちょっと見えたもんで気になって追ってきたんだ、もしかして魚を買いたいのか?」
「そうですが、相手にもされなかった」
「そうだろう、漁師は一人親方だからこわいもん知らずだ、誰にも遠慮せんし
世間も狭い、海の上の王様だから言いたいことはズケズケ言うからな
それよりも、あんちゃん!通りに(近松市場)があるのを知ってるか?
(竹丸市場)じゃないぞ」
そういえば,腰越の親父と荷物を届けた覚えがある「知ってますが」というと
「おれは、そこで番頭をやっている甲村というもんじゃ、訪ねて来い
魚を好きなだけわけてやる」
降って湧いたような幸運だと思った、やはりまたしても捨てる神と拾う神だ
(おれには運がついているのか)と思った
「ぜひ、お願いします、おれは井川かずと言います、よろしく頼みます」
「知ってる、世田谷さの息子だろ、腰越のばあさんから聞いたよ」
なんと伯母さんが根回ししていてくれたのだ、父は二人の人情を知って
ホロリとした
さっそく父は自転車を購入した、後の荷台は魚の入った缶をつめるように
特別あつらえで大きくしてもらった
父が徳二とまわっていた集落は、昔からの魚屋が売りに歩いていることを
甲村さんから聞いたので、そこはやめた
そして甲村さんが言うには、そこからもう3km程上の杉山集落は甲村さんが
育った村で親戚も多いから、俺の名前を出せば必ず買ってくれると言った
そして「挨拶代わりに手ぬぐいを買って、行く先で配って歩け」とアドバイスしてくれた
翌日からそこへ行って甲村の紹介だと言うと、甲村が言うとおり魚は思った以上に
売れたのだった