神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

荒波人生 昭和23年夏 人情

2019年12月16日 11時22分08秒 | 小説/詩

腹が立つやら悔しいやら、どうにも虫がおさまらない

前もろくに見ずに早足で歩いている、誰かにぶちまけないと爆発しそうだ

母屋の長男は漁師だったが気が荒く、町中(まちなか)で天秤棒を

振り回して大立ち回りをしたとか、癇癪癖があってとうとう左衛門じいは

廃嫡してしまった。

家を追い出された後は反省したのか、家に戻りたくて何日も家のまわりを

うろうろしていたが、左衛門爺はついに勘当を解かなかった

(俺にも、その血がながれているのかもしれん)とは思わないが

ちらっとそんな事を思い出したのだった

足はいつの間にか腰越の家にむかっていた、腰越は畑山太郎のお袋が

再婚した先だ

太郎は父と同い年だが昭和21年に22歳で結婚していた

「結婚ってのは思っていたよりいいもんだ、次郎が満州に15歳で渡ってから

お袋は、すっかり腰越の家のものになって少しも面倒見てくれないし

仕方なしに結婚したようなものだが、一人でやっていたことを二人で

やるのは4倍もはかがいく、何よりも晩飯がうまい」などとのろけたが

実は父に暗に結婚を勧めているのだ

 

そのお袋さんが庭先でタライで選択をしている

「おや!かずじゃないか、どうした怖い顔して」

田舎のばあさん(とは言っても、まだ50前だ)だと思っていたが、なかなかの

苦労人で世間に詳しい、親戚の中でも頼りにされているのだ

父がこうして今ここに来たのも何かの解決策を期待したからかも知れない

「田舎もんは肝っ玉が小さくて話にならない、魚一匹売らないとはどういう了見だ

おれは東京に帰る、腹が立って仕方ない」

腰越の伯母さんに苛立つ気持ちをぶつけた

伯母さんは静かに言った

「田舎の人間は小村根性だから仕方ない、だがそんな事で東京へ帰るとか

言うおまえも心が狭いぞ! 今のおまえは四方八方暗闇の中でもがいて

いるんじゃ、そんなときはなあ田舎に居ようが、東京に居ようが何も変わらん

ここで辛抱するのが一番じゃ、辛抱せい、そのうち闇は晴れるから」

伯母さんの言葉には説得力があった、ぐさっと弱い心に刺さってきた

怒りがす~っと薄らぐのがわかった、それは伯母さんの暖かい心に触れた

からだ、孤独だと思ったこの町でも、腰越の伯母さんと、畑山太郎という

相談相手が居ることに気づいたのだった。

 

そして翌日も気を取り直して漁師に掛け合ったが、相変わらず頑固に

断るばかりでどうにもならなかった

とぼとぼと裏道を歩いていたら、後から自転車の気配がして振り向いた

30歳くらいの男が乗っていたが「おーい、あんちゃんよ」と声をかけてきた

?と思ったが黙っていると

「ちょっと見えたもんで気になって追ってきたんだ、もしかして魚を買いたいのか?」

「そうですが、相手にもされなかった」

「そうだろう、漁師は一人親方だからこわいもん知らずだ、誰にも遠慮せんし

世間も狭い、海の上の王様だから言いたいことはズケズケ言うからな

それよりも、あんちゃん!通りに(近松市場)があるのを知ってるか?

(竹丸市場)じゃないぞ」

そういえば,腰越の親父と荷物を届けた覚えがある「知ってますが」というと

「おれは、そこで番頭をやっている甲村というもんじゃ、訪ねて来い

魚を好きなだけわけてやる」

降って湧いたような幸運だと思った、やはりまたしても捨てる神と拾う神だ

(おれには運がついているのか)と思った

「ぜひ、お願いします、おれは井川かずと言います、よろしく頼みます」

「知ってる、世田谷さの息子だろ、腰越のばあさんから聞いたよ」

なんと伯母さんが根回ししていてくれたのだ、父は二人の人情を知って

ホロリとした

さっそく父は自転車を購入した、後の荷台は魚の入った缶をつめるように

特別あつらえで大きくしてもらった

父が徳二とまわっていた集落は、昔からの魚屋が売りに歩いていることを

甲村さんから聞いたので、そこはやめた

そして甲村さんが言うには、そこからもう3km程上の杉山集落は甲村さんが

育った村で親戚も多いから、俺の名前を出せば必ず買ってくれると言った

そして「挨拶代わりに手ぬぐいを買って、行く先で配って歩け」とアドバイスしてくれた

翌日からそこへ行って甲村の紹介だと言うと、甲村が言うとおり魚は思った以上に

売れたのだった

 

 


荒波人生 昭和23年 新しい仕事

2019年12月15日 18時22分44秒 | 小説/詩

この町に来てから一ヶ月が過ぎて、少しずつ町の様子もわかってきた

情報源の大部分が従兄弟の畑山太郎からのものであった

それと腰越の伯父さんの大八車を押しながら世間との繋がりもできてきて

次第にこの町も面白くなってきた

太郎が働いているのは総合的な化学工場「東亞精製工業」という大企業である

戦争前から日本に職を求めてきた朝鮮人(1910年に日本に併合されて終戦までは

日本人とされていた)も大勢働いていて、町の一角は朝鮮町になっていた

また戦争中には米英の捕虜もこの工場で労働していた、戦後戦犯として裁かれた

ものはこの工場関係では居なかったから、虐待などはなかったようだ

東亜工業は人口7万ほどのこの町で、4000人の社員を抱えているから、

まさに企業城下町である

この工場に関係する運輸、メンテナンス、給食、原材料、消耗品、電気通信

などの一次的関連産業、社員達の消費や生活物資、電気通信などの二次的

なものまで含めれば影響を受けないものが無いほどである

資本も今に換算すれば1000億円を超えている会社で、本社は東京にあり

ここの工場長は常に本社から取締役が赴任してくる

大概は3年以内に東京へ戻っていく、東京から汽車で10時間もかかる田舎町

冬は町場でも雪が1mも積もる豪雪地帯だから、東京から来る工場長は左遷された

気分になるだろう、しかしここに来るのは出世街道であった

東京に戻れば平取締役は常務の肩書きがつくことが多く、それだけの主要工場

だったのだ

親戚の岸本、五平さん、腰越の長男武も、みんな東亞工業で働いている

畑山の次郎だけが地元で一番大きい建設会社「住田建設」に勤めて居る

父はここに来てからは一度も実父の徳二のところには顔を出していない

徳二の住まいは、平屋で空いた塩小屋を改装したものだ、これは母屋が

昭和初期まで塩を作って販売して居たときの名残だそうだ

30kmの海岸線をもつこの町では、断続的に砂浜と岩場が交互に続く

故に豊臣秀吉が日本を統一したとき、この町では塩作りが始まり、

秀吉政権から数軒の地元有力者に塩問屋の許可状が与えられた

母屋の先祖は武蔵国(埼玉県)の武士だったが16世紀中期に戦で

破れた公方の家臣でこの地まで落ち延びて来て帰農し、その後海運にも

手を出して塩問屋の免許をもらったそうだ

明治以降、家運が傾いて今は江戸時代までの面影も無いのは父の

生家と同じであった

 

6月の終わり頃だった、父は久しぶりに実父の家を訪ねた、不思議なのは

三人家族だが、働いても居ないのに飢えている様子も無く、施しを受けて

いるわけでもお無いのに配給米だけで生きている

思い切って聞いてみた、すると「時々、漁師の手伝いをして魚をもらってくる」

と言った、そして「おまえも行くか?」と言う

魚はけっこう獲れるが、それを網から外したり、船を陸の船小屋まであげる

人出が不足して漁師は困っているのだそうだ

翌朝から父は実父と一緒に漁師の手伝いに出かけた、早起きはお手の物だ

それでもらった魚を母屋に持って帰ったので、母屋の奥さんが喜んでくれた

 

実父には現金の収入源もあった、それは多めに魚をもらった時には5km

ほど山の手に入った集落の親戚へ行って、その周辺の農家に余った魚を

売るのだ、たいした数は無いからもらうお金も知れているが、乞食同然の

暮らしだから、服の一.二枚買えたらそれでいいのだ

お金だけで無く、きうりの3本ももらえるから十分であった

そして、そっちの方にも父をつれて行くと言った

それは売上を増やすと言うのでは無く、自分が楽をしようという魂胆なのが

今は亡き母が時々言っていた「怠け者の徳二」の面目なのだ

自分は親戚の家でお茶を飲んで時間を潰し、父に売ってこいと言うのだ

父は素直に教えられた家に行って売りさばいたけれど、徳二と違い

元来働き者だから思った(週1~2回しか親父は売りに来ないが、毎日

売りに来ればこの近辺だけでも100戸はあるからいい商いになるだろう)

それは、その通りだった、けれど問題はある

一つは、今までは漁師のおこぼれだけをもらって売っていたが、商いと

なればもっと多くの魚が必要になる、その仕入れ先だ

二つ目は、この村には駐在(警官)がいて闇米の取締を真剣におこなっている

今は片手に持てるくらいの量だから目こぼしされているが、本格的に

運んだときは、どうなるかわからないという不安だ

それでも「思案するより動け」が信念の父だから、すぐに行動に移した

浜辺では漁があった日に10人ほどの魚屋が集まって、そこで取引していた

父は、これに目をつけていた、そして思い切って漁師のめぼしい者に声を

かけた「おれも魚を売りたいから仲間に入れてくれ」

漁師はじろりと一瞥して「われは、どこのもんだ!」と言った

「おれは舟形左衛門の孫だ」と言うと

「おお!われが世田谷の息子か、東京から来たってもん(者)だな

売らん売らん、東京もんは嫌いじゃ、かっこつけるんじゃないぞ!」

なぜかけんか腰で突っかかってきた

父は悔しくて腹が立った、しかしこの町では新参者だ、東京のように

癇癪を起こして暴れるわけにも行かない

それにしても腹が立つ、あげた拳のやり場がない、悔しい

涙が出るほど悔しい、小学生の時、同級生たちにいじめ抜かれた記憶が

蘇ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和23年 従兄弟たち

2019年12月14日 21時41分33秒 | 小説/詩

「親父は、おるか?」実父が囲炉裏傍の三人に聞いた

「じいちゃ!世田谷さんが来たで、呼んどるぞ」

奥のふすまが開いて中肉中背のじいさんが出てきた

「徳二か、どうした? 誰だ?そのあんちゃんは」

「息子だ、東京の、かずだ」

じいさんは驚いてじっと父の顔を見ている、そばの若者達も驚いた顔で見ている

「かずってのは、おまえか・・・ほ~・・・・立っとらんとあがれ」

「じいちゃ、かずって誰だ?」 若者の一人がじいさんに聞いた

「徳二が離縁したとき東京に置いてきた息子だ」

「ほ~?」

「徳二、ボサッとしとらんとみんなに紹介しろ」じいさんが言った

実父は返事をしないが紹介をはじめた

「おれが東京に置いてきたむすこで井川かずだ」

父はぺこりと頭を下げて「よろしく」と言った

「これがおれの親父だ、おまえの爺さんになる左衛門じいちゃだ」

それからそこにいた若者は自己紹介した、いずれも続柄で言えば

従兄弟であった、特に畑山太郎は父と同い年だったので

少し親近感を感じた

実父が、じいさんに頼んで落ち着くまでは本家の裏にある倉庫の

二階で寝泊まり出来ることになった

荷物と言っても着替えが入った大きなリュックサック一つであるから

どこに行こうが気楽なものだ

この夜は父がここに来たことで、近くに住む従兄弟たちが何人か

集まることになった、この家は親戚の間では「母屋(おもや)」と

呼んで、一族の拠り所になっていることも知った

 

夜になった

母屋の家族構成は、戸主の舟形末吉(すえきち)40歳、その妻

末吉の父、じいさん左衛門は80歳、妻は先立った

末吉の息子、利一は16歳、その上に姉が2人居たが嫁にいって

ここには居ない、利一の下にも2男、2女の兄弟が居る

今夜、父を迎えて車座になっているのは、この家では末吉夫婦と利一

そして親戚でやってきたのは従兄弟の畑山兄弟、岸本兵吉、末吉の

従兄弟の舟形五助、それと畑山兄弟の母で腰越東一と再婚したマツ

・東一夫婦である

少々わかりづらいので、あらためて整理すると、母屋(本家)のじいさん

には3人の息子がいた、長男は素行不良で勘当されて家を出た

次男が父の実父徳二、三男の末吉が本家舟形家を継いで当主と

なった

母屋の二女、ウメは最初、畑山家へ嫁いだ、そこで畑山の太郎、

次郎の兄弟を産んだが、夫が死にいろんな事があって、腰越東一

と再婚して長男、武(たけし)と娘2人を産んだ

岸本兵吉は母屋の長女マツの息子だ

 

酒席が始まった、父は下戸だった、まったく飲めない

しかし従兄弟たちは、みんな強い、畑山兄弟は酒豪だった

母屋の末吉さんも嬉しそうに飲んでいる

父は物怖じは少しもしない人だが、気むずかしいところがあった

人を見るクセがついている、どちらかと言えば酒飲みには

良い感情を持っていない、だからけっして今夜の席が楽しい

とは言えないだろう

けれど戦争中の話題になって俄然盛り上がってきた

「井川くん、あんたは兵隊に行ったんか?」と太郎が聞いた

「ああ、東京の調布で高射砲大隊の通信兵だった」

「うん?112連隊か?」

「えっ!詳しいな、その通りだが、どうして知ってる?」

「おれは群馬太田の独立第四大隊だ」

なんと同じ帝都防衛の高射砲部隊の兵隊だったのだ,年齢も

同なので一気に兄弟のような親しみを覚えた

太郎も同じ気持ちのようで「そうか、そうだったのか」と言って

肩に手をかけてきて嬉しそうに揺すった、さらに

「岸本くんも高射砲だ、なあ!」あまり話さない岸本兵吉だが

「うん、おれは月島だ」とポツリと言った

「いやあ奇遇だなあ、嬉しくなってきた井川くんも飲め!」

「いや・・おれは」

「いいじゃないか今日は特別だ、やろう」

とうとうチョコに一杯注がれて飲んでしまった、口の中が

苦くなった、胸が一気に熱くなった

「これは、俺の弟の次郎だ、15歳で満州に渡って18歳の時に

兵隊に志願して北支で戦っていたが露助(ロシア兵)に捕まらず

馬一頭連れて帰国したという男だ、今は建設会社で土木を

学んでいる、2歳年下だが井川君、よろしく頼むぞ」

太郎の弟、次郎はがっしりした太郎より更に体格がいい

土木作業員だけあって腕も太く、腕っ節も強そうだ、酒を飲むと

すぐに真っ赤な顔になって酔っているかと思ったが、顔のわりに

酔っては居ないらしい、兄は良く話すが,弟は口べ

たのようであまり口を開かない、顔も厳ついが人はよさそうだ

太郎の話の通りなら21歳だ、馬を引いて敗戦後の朝鮮から戻る

とは相当の度胸と運の良い男のようだ

 

「おい、井川のあんちゃん、おれは太郎達の親みたいなもんで

腰越という、次郎がつれて来た馬で今は荷運びをしているが

どうだ、おまえも閑があるようだから、俺の手伝いをしないか」

髪の毛が薄い40半ばくらいの男だ、顔を見ると一癖も二癖も

ありそうで、日野曹長を思い出した、同じ匂いがする

「ああ、とうさん、それはええ考えだ、かずさんや、そうしなさい」

と言ったのは腰越の妻、ウメだった

こちらは縁起の良いおかめ顔だ,ニコニコしてすぐになじめそうだ

「それなら明日からもやってみます」と返事をした

何もすることがない、こんなご時世に居候してただ飯を食わせて

もらうわけにいかない、いくらかでも稼いで食い扶持くらいは

渡さなくてはならない

「お~い、おれも話していいかい?」ひょうきんに言ったのは、少し

年上の舟形五助だ

五助も戦争中の体験を話した、彼はビルマ戦線で戦っていたが

あの最悪の作戦、インド占領をもくろんだインパール作戦に駆り出され

結果、大砲弾破片の両足貫通の重傷を負った、毎日、傷口に卵を

産みに来るハエを逐うのが仕事だったと笑った

補給がママならず、我が砲の弾がようやく来て、勇んで敵陣に打ち込むと

その10倍も敵弾が返ってくるので、弾があっても打つのをやめたとか

偵察に行き、匍匐前進していると天然のパイナップルにありつけるので

喜んで偵察に行ったとか、おもしろおかしく言うので、父も腹を抱えて

笑った

しかし部隊の敗走で動けない兵は自決せよと手榴弾を二発渡され、

近くで同僚の負傷兵が手榴弾自決をする爆発音を聞く度に心細くなったという

運良く、同じ町の出身者が中隊長だったおかげで、仲間が引き返してきて

馬に乗せて連れて行ってくれたのでこうして生き延びられたと言った

戦後はイギリス軍の捕虜になって収容されたが、捕虜の日本軍に自治させた

ので暴動も起きず、旧陸軍のママ上意下達が守られ、イギリス軍も安心

できたという、日本人の統制のとれた姿にイギリス将校も感心していたらしい

 

語り明かすうちに夜も深まり、みんな家に帰っていった

父も物置の二階に上がって寝た,この土地でむかえた初めての夜なのに

夜中にけたたましい物音で目が覚めた、窓から覗くと数百m先の大きな

建物が炎に包まれ、煙がもくもくと上がっていた

いきなり遭遇した深夜火事であった、父の前途を暗示するような出来事であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


昭和23年春 実父の故郷に

2019年12月13日 21時45分48秒 | 小説/詩

いよいよ東京は住みづらくなってきた

ダメだと思うと気持ちがどんどんすぼんでいく

とりあえず行き先があるのが心強い、小学校5年の時

茨城から東京に転校してきたのだから、他所へ行くのは別に

苦では無い

古河という内陸の町にいたのだから、田舎暮らしにも慣れている

(もう東京はいいか・・・)あきらめの気持ちがはっきりしてきた

長野か福島か?どちらにしてもこれから冬にむかって雪のイメージがある

雪はいいが寒いのは嫌だ、(せめて来春までは東京で)と思うのは未練だった

いずれにしても行き先を決めなくてはならない

慶次叔父さんは「長野の姉貴のところがいいと思うぜ」という

確かに、長く付き合ってきた井川繋がりのほうが話も通じる

福島は全くどんなところか見当がつかない

気持ちはほとんど長野に傾いていた

 

昭和23年になった、3月の半ば、ついに若狭屋を引き払い、会社も退職して

東京を発った、23歳8ヶ月の父は長野に旅立った

そして善光寺の伯母さんを訪ねていった、1週間ここに居たけれど、どうにも

居心地が悪い、何が悪いというわけでは無いが、感覚的にずれている

生活様式が全く違う、許嫁だった佐知が同じ家に居るのも変な気がする

しかし今さら福島の叔父さんを頼るのもバツが悪い

四方が山に囲まれているのも息苦しく感じるし、なにより寒くてたまらない

以前も感じていたが(おれは長野には住めない)それであった

陽はまだ西の中天にあるのに、瞬く間に山蔭に隠れて夕暮れが来る

もの悲しい、寂しい、(あの山の向こうには何があるんだろうか)

そう思った途端、実父の故郷がある事に気がついた

(行ってみるか・・)突然思ったのだ  新しい人生を送るにはいいかもしれない

あれほど憎み続けた実父が、なぜか今は恋しくて懐かしい

実父には兄弟が多いと聞いた、それならばまだ見たこともあったことも無い

従兄弟が居るのではないだろうか、それも楽しみだ

実父の実家は漁師なのだと母から聞いたことがある、海辺の町なのだろう

今まで暮らしたことが無い海辺の町、どんなところだろうか?

不安より好奇心の方が強くなっている

町の名前だけは知っている、だがそこが越後なのか越中なのかそれすら知らない

「行ってみるか」つぶやいた・・・・何かが待っているだけマシだと思った

伯母さんに実父の故郷へ行ってみようと思うと伝えた、伯母さんは、それが

人としての真の情なのだと言って見送ってくれた

昭和23年4月11日の午前、長野駅を発った各駅停車の蒸気機関車は昼過ぎに

ようやく海辺の町に着いた

田舎だと思っていたが、案外駅前には人通りがある、古い町並みだが情緒もある

祭りの幟が所々に立っている、どうやら祭りの日のようだ

東京に比べたら問題にならないほど静かな町だ、だがせせこましさを全く感じない

駅からまっすぐに伸びた未舗装の道を進んでいくと間もなく海に出た

日本海だった、父はこんな広くて遠い海を見るのははじめてだった、右も左も

ずっと海岸線が続いている、もっともその中心にそこそこの川が流れていて

海岸を二つに分けているのだが

海岸で歩いている男に実父が住んでいるという「日の出町」を聞いた

海岸線と平行している国道を東に1km程行ったあたりだと教えてくれた

法被姿の若衆と幾度もすれ違った、たしかに今日はこの町の祭りなのだろう

焼け野原の東京にはない景色だった、浅草の祭りとは比べる術も無いが

人々は活き活きとして大らかに生きているように思えた、同じ日本なのかと

思う風景だった

10分も歩くと木造の二階建ての病院が見えてきた、そこのテニスコートのあたりだと

聞いてきたので、近くの人に尋ねると、「ああ、世田谷さか?、一番海に近い

小屋に住んでるよ」と少々軽蔑したような口調で言った

(親父は世田谷さとよばれているのか)成城に居たからそうよばれるのだと

すぐに思った

行ってみると本当にみすぼらしい小さな小屋だった、今夜は泊めてもらおう

と思って来たが当てが外れた、それでも勇気を出して玄関を入った

小柄な女が出てきた「どなたさんだね?」東北訛りがある

(ああ、これが後妻なのか)と直感的に思った

「井川かず、と言うものです、親父に言ってもらえばわかると思いますから」

「かずさん、ああ、あんたがそう、かずさんかあ」知っているようだった

すぐに実父が出てきた、表情も変えずに「かずか?」とだけポツリと言った

とても涙に対面などとはほど遠い再会であった、それにしてもこの貧しさは

何だろうと驚いた父であった

痩せこけた子供が出てきた、実父は「おまえのあんちゃだ」と言った

「あんちゃ、あんちゃ」子供が言った、意味もわからず言っているのはすぐわかった

3歳くらいかと思ったが6歳だと実父は言った、それほどに小さくて痩せていた

明らかに栄養失調だとわかった、この子が腹違いの弟の昭一だと知った

18歳年下の弟だった、何の愛情も感情も湧いてこなかった

「今夜は本家で泊めてもらえ」と言った、それでも親父らしく本家まで送ると

言って外に出てきた

実父もまた、ガリガリに痩せていた、近眼なのか丸いめがねをかけている

服装はみすぼらしいが、表情は学校の先生のようであった、すなわち

何に対する者なのかはわからないが、ある種のプライドがあるように見えた

年齢を勘定してみると実父は今年48歳なのだ、仕事をしているようには

見えない・・・・・

5分歩いただけで本家に着いた、実父の家に比べたら遥かに大きい

やはり本家と言うだけのことはある、広い玄関土間に立つと、座敷の囲炉裏を

囲んで、父と似た年格好の若者が3人いて、一斉にこっちを見た

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和22年 心に吹く寒風

2019年12月12日 17時39分47秒 | 小説/詩

冬にむかって夕暮れの頃は、ぽかりと心に穴が開く

強気一本で押してきた人生だが、自分だけに正直に言えば「寂しい」

こんなに人間が多い東京に居ながら、いざ誰かに心を許せるかと言えば

誰も居ないのだ

損得なしに自分を叱ってくれる人は、誰も居なくなった、戦争前までは

母や、セイ叔母さん、珠子ねえさんには忌憚なく自分の心内を話すことが

できたけれど、叔父さんである慶次さえ、口を滑らしたばかりに150円もの

大金をかすめ取った

しかも残っていた300円ほどの大金も戦後の異常なインフレで一年毎に

貨幣価値が大暴落して、小さな家1軒分が3年後にはタバコ20箱しか

買えないほどまで下落したのだ、信じられない時代であった。

国さえもこの有様だ

「誰にも気を許してはならない、お人好しであってはいけない」という心根は

22歳の頃に完成した

何もかも捨てて、隆のもとに走ってヤクザ稼業に入り込むのも面白いかも知れない

そんな誤った考えさえ道が開ける世界に思えるほど、心が疲れていた

そんな心細さで居るのに、まだ追い打ちをかけられた

3日間、下宿を空けていた父が,若狭屋へ戻ると、主人が顔を引きつらせて

出てきて「井川さん、どこに居たのかね、留守の間にたいへんな騒ぎがあったんだよ

仕方ないから足立の叔父さんに来てもらったけど、光顕さんが自殺を図ったんだ

睡眠薬を飲んで・・・・娘が早く見つけたから何とか助かったけど、危ないところ

だった。 長年宿をやってきたけどこんな騒ぎは初めてだよ、今は**病院に

入院して、長野からも家族が来る頃だと思う」

父は落ち着く間もなく病院に向かった、既に長野から伯父さん夫婦と佐知が来ていた

「この子は気持ちが弱いから・・・・・迷惑かけたね」

伯父さんが父に頭を下げた

「とんでもない!こっちこそ仕事にかつけて3日も家を空けていたから、なにも

できなかった」

「宿には随分と迷惑をかけてしまった、生きていて良かったけど死んでいたら

本当に宿屋には謝っても謝りきれないことになるところだった」

遺書など無かったそうだ、ただ日記には受験勉強に関して気弱な文字が

ずっと書き連なっていたと言うことだ」今風に言えば受験ノイローゼでストレスが

たまりすぎたと言うことだろうか

それから1週間ほど入院をして、家族が光顕を長野へ連れて帰っていった

 

そして年が明けて昭和22年になった

春になった頃、風の便りで遠野と由希子が結婚したと聞いた

父にはわだかまりは無かったけれど、ただでさえ気持ちが沈んでいる時だけに

尚更落ち込んでいくのであった

それを忘れるために仕事には今まで以上打ち込んだ、それしか嫌な思いを

断ち切る術が無かったのだ、それでもお祝いをいくらか持って、遠野を訪ねた

若狭屋と遠野の家は、ほんの数百メートルしか離れていないのに随分と遠かった

遠野の家は下谷神社から南に細い路地を少し入ったところにある、今は広い

道路が上野駅から隅田川に向けて突き抜け、あたりは下町的な背の低いビルで

埋め尽くされている

遠野は屈託の無い顔で素直に喜んで父を招きあげた、新妻の由希子も晴れ晴れと

した顔で父を迎えてくれた

全く無関係でも無く、知らない間柄でも無く、複雑な気持ちで居たが、むこうさんは

全く気にしていないようだ、自分だけがセンチメンタルな思い込みをしているようで

居心地が悪かった、それで早々に祝い事だけ言って、宿に戻ったのだった

父がどれほど由希子さんを好きだったかというと計る術がある、5年後に私の

妹が生まれるのだが、妹に由希子(仮名)と名付けたのだから

 

この年は戦争の傷跡も次第に癒えて、人々の暮らしも食糧難以外は戦前に

戻りつつあった

特に食料を自給出来る環境にある田舎ほどたくましく再生している

交通体系も整備が進み人々の往来も盛んになり出した、そんなことで

父の元にも相次いで珍しい人が訪れた

5月には手紙のやりとりだけは欠かさなかった横井くんが訪ねて来た

御徒町小学校では唯一の友だちだった彼は、体の一部に障碍があったので

兵隊には行かなかったそうだ

しかし住んでいた家は爆撃で焼かれて転々としていたが、今は神奈川の

湘南で借家ながら卒業後に学んだ時計職人になって,小さな店を構えていた

昔と変わらぬゆったりとした風情は見ていても安心感がある

父はようやく心の内を話せる友がいたことに気づいたのだった

そして今の仕事を続けるか、ヤクザ稼業にも誘われているというと

眉をひそめて「それだけはやめろ!、そんな話しはするな」と強く言った

父は実のところ心にも無い事を言ってしまったのだ、言った自分を恥じた

横井くんの正義感溢れた強い目を見ると何もかも見透かされているようで

日頃は強気なのに親に叱られた子供のように縮こまってしまった

横井くんは笑いもせず、「いいか、約束だぞ」と念を押した

どうも彼には頭が上がらない父であった

 

7月には三春の叔父さんが訪ねて来た、あらためて三春の叔父さんと父の関係を

書いて見よう

明治15年頃に生まれた父の祖母キクは、栃木県黒羽町で小作を使い年貢

200俵があがってくる豊かな農家一人娘だった(現在の金銭価値感覚に換算すれば

2000万円前後とのこと)

キクは、福島県の三春生まれの吉蔵という若者と恋愛して、娘が生まれた

この娘が父の母親である

しかし何かの理由があって二人は別れ、吉蔵は三春に帰ってここで結婚した

そして生まれたのが三春の叔父さんである

だから父の母と、三春の叔父さんは異母兄弟である

 

そんな叔父さんが訪ねて来た、兵隊で成城にいたとき実父のところに連れて

行った、あの叔父さんである

叔父さんは父の事を心配で遙々訪ねて来たのだった

「東京は食料もままならないと聞いた、男の独り身は尚更だというが本当なのか」

実際、父は窮乏していた、お金には不自由していないが、確かに下宿屋も

統制の影響が出てきて、父の現物がないと食事の提供も難しい状況に追い込まれていた

お金があっても食い物が無い、それが都会の現実だった

夫婦ものであればどちらかが田舎に買い出しに行くという方法もある、しかし

一人ではいかんともしがたい、それで叔父さんには「そのとおり」と正直に言った

「それなら三春に来い、おまえ一人位どうでもなるよ」と言ってくれた

実は同じように長野の伯母さんも「長野においで」と言ってくれたのだった

父は東京には未練があった、その心には僅かながらも新宿の裏社会で生きよう

という悪い欲望もあった、しかしそれは横井君の渇!で消え去った

次第に心は東京から離れだしていた

福島か長野か、今、父の心は揺れている

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和21年~22年 荒波に揉まれる日々

2019年12月11日 19時21分42秒 | 小説/詩

昭和21年の秋が深まっている

下宿、若狭屋での光顕(みつあき)の風情は、貧乏学生そのものだった

家柄は良いのだから、もっと堂々としてお坊ちゃまになっていれば良いものを

まるで貧乏たらしいのである

実家の長野からは毎月下宿代と勉強の為の軍資金が送られて来て,若狭屋の

主人も光顕を上客として対応している

たまに父がここに帰ってくると「たまには外の空気を吸ってこいよ」などと言うほど

辛気くさい、何を言おうが少しも部屋から動こうとはしないで勉強に没頭している

父はと言えば、相変わらず仕事は順調で懐具合も悪くない、だから宿に来る毎に

なかなか手に入らない食品をそっと持ってきてみやげにするから、主人もすっかり

父の虜になって、あるときなど

「井川さん、どうだね娘と一緒になってこの宿をやる気はないかね?」などと言う

しかし今はそれどころでは無い、例の彼女(仮に由希子にしておこう)との恋愛が

進行中なのだから

ところがここに強敵、軍隊での上官遠野さんが一枚噛んでいるのだからうまくいかない

よくはわからないが二人には過去になにかの関係があったような気がする

それは今もなおくすぶっていて、そのためにどこか安心出来ない胸騒ぎを感じるの

だった

それでも上野のお山や、時には夜の不忍池のほとりでデートを重ねたりしていた

調布には父も遠野も由希子も暮らしているのだから、いつでも会える状況だった

由希子の本心がどこにあるのか、それについては遠野も父も触れることができなかった

遠野と父の間には友情が横たわっている、それをどけてまで突っ走る勇気は

お互い無かったのだ

しかし別れは突然やってきた、闇商売があまりに露骨であったためについに警察が

動いて社長の日野が逮捕された、それでこの商売も終止符をうたれたのだった

仕方なく父は上野の下宿に戻った、しばらくはすることもなくフラフラとあてもなく

いろんなところを歩き回っていたけれど、新宿で声をかけられた

「ひさしぶりだね、日野さんのところの井川君だろ?」

聞いたよ、日野さんの店は閉じたそうだね」

すぐにわかった、武蔵野の吉祥寺で金物加工の町工場を経営している鶴岡社長

だった、50歳くらいの穏やかな感じの人だ

「今はなにかやってるのかい?、仕事は?」

「いえ、今は何も・・・」

「そうか、それならどうだうちの会社に来ないか?」

日野のところでの仕事は主に農機具を扱っていたが、それだけではすぐに

ネタが尽きるので、金物や工具なども販売していた、そんなことで仕入れ先の

一つが鶴岡化工機工場だったのだ、父はそこの担当をしていたから覚えて

いてくれたのだ

どうやら初対面の時の第一印象が良くて、ずっと気にとめていたそうだ

こうして自ら新宿の闇市に湯たんぽを売り込みに来ているが

営業員を一人ほしいと探していたのだという

「きみには悪いが、日野さんの商売は君には向いていないし、させたくなかった

ちょうどここで会ったのも縁だから、どうだいやってみないか」

父は「捨てる神もあれば拾う神もあるんだな」と思って、その身を鶴岡に預けることに

した。 こうして調布から決別する事になったのだった、それは由希子ともしだいに

疎遠になっていくことでもあった

 

父は働いた、吉祥寺で作った製品を、新宿で売りさばくのが父の仕事だった

終戦直後の新宿というところは一攫千金を狙う男達が命をはって生きている

危険な場所でもあった、在日朝鮮人の危険なグループなどもあり

利権を争って、日本人の愚連隊などとしょっちゅう暴力沙汰を起こしていた

後の暴力団の芽があちこちで土の中から出てきた頃であった

そんな町はものを売るものにとっては魅力的な町であった、とにかく大量に

捌ける、しかし顔役というのがいて、いやでも関係を持つことになる

たとえ家庭製品の湯たんぽであろうと、売るからには裏社会が表に顔を

出しているところとの接点に触れる

そこはそこで度胸では負けない父は、若干22歳ながら蛇の道は蛇で

うまく立ち回っていたから、湯たんぽの売れ行きは良くて、

鶴岡社長も大喜びだった

 

戦争が終わって一年、日本人という人種はいったいどんな民族なのだろうか

東京のあらかたが焼き尽くされ、未だに廃墟ばかりが目立つ新宿だが

そこには廃墟を利用して住んでいる者、にわか作りの雨露しのぎのバラックを

建てて住んでいる者、そして空き地に闇市の俄作りの建物やらテントやらが

並んで商いをしているのだ、残飯かと思うような汁物でも金になる

人であふれかえり、活気がみなぎっている

国家が崩壊して政治も何も行き届かない世界、国の助けどころか食い物を

統制して飢えた市民がようやく田舎から買ってきた米や野菜を見つけ次第

没収する、そんな極限の中でもたくましく生きている

政府の援助を並んで待っているような悠長さは日本人には無い、自らが

自分と家族の命を守るために全力をあげて生きているのだ

爆撃で両親が死に孤児となった子供たちでさえ生きるために必死になっている

米兵の靴磨きする者、食料の盗みを繰り返して妹に与えている幼い少年

ゆとりあるものは「蟻の家」のような救護施設を作って孤児を慈しむ

そんな国民パワーがあるからこそ、やがて政府の力が回復するにつれて

国家と国民の歯車が噛み合い、昭和30年代40年代の高度成長期に花開く

そんな新宿で売り歩く父だったが、いかにも愚連隊風の男から声をかけられた

甘い顔は見せられないが、自然体で相手の顔をのぞき込んだ

「お! やっぱり(かず)じゃないか! びっくりだぜ」

それは錦糸町界隈でしょっちゅう悪さをしていたときの砂町の不良メンバーだった

特別親しくしていたわけじゃ無いが歳も同じくらいだから、よく連んでいた

確か、隆(たかし)という名前だった

「生きていたか? 兵隊には行ったのか?」矢継ぎ早に聞いてきた

そして屋台店に入って思いで話をしていた、隆はあれからも少しも変わらず愚連隊

だった、そして父と同じく19年に兵隊として召集されたが、国内の部隊で無事除隊

できたのだった、そのあとは古巣に戻ったけどやはり空襲で焼かれていて新宿に

出てきた、そこでお決まりのヤクザ稼業に舞い戻ったらしい

「どうだい運試しをしようじゃないか」と隆が言った、そして連れて行ったところが

辻占いであった

その時のことは何度も父に聞かされた、よほど易者の占いは心に残っていたらしい

これからの生き様を問うと

「あんたは、深海の金(きん)を掴むという相がでている」

「それはどういう意味だろう?」

「簡単では無いと言うことだよ、だが掴むことはできるかも知れない、長い道のりだが」

わかったようなわからないような、だが易者が言ったのは前途多難の暗示だと思った

もっとも神も仏も信じないと言った父である、占いなんかなおさら信じない

「くだらねえ」そう思った

隆とは、そんな程度で別れたが、別れ際に名残惜しそうに言った

「かず、おまえに堅気(かたぎ)は似合わないかもな、俺とまた組んでみないか

いつでも兄貴を紹介するぜ、気が変わったら、この易者のじじいが俺の居所を

知っているから聞いて訪ねて来いよ」

だが、ようやく鶴岡化工機でで落ち着いたばかりだ、社長への恩義と義理は裏切れない

今さら、あの忌まわしい時代に戻ろうとも思っていない、だがかすかに血が騒ぐ父であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和21年夏 長野で

2019年12月10日 16時33分41秒 | 小説/詩

長野の伯母さんは子だくさんで三男三女いる

長女は父より一歳年上で既に県庁職員と結婚して家を出ている

次が次女で父より一歳年下、これが父の許嫁だった佐知だ

長男は随分と頭が良いそうだが、国立大学受験に失敗して浪人中だという 

伯母さんの頼みというのは、この長男光顕(みつあき)を東京に

つれて行ってほしいと言うことだった

信州の国立大学を失敗したが志は高く、次回は東京の一流大学を目指したい

と言うことだった、そのためには信州の田舎より東京に出て

受験の勉強をした方が良いだろうと父親が言ったからだった

しかし肝心の光顕は、父から見ると、おとなしくて煮え切らないような性格

に見えた、親の言うことには従うけれど本人の思いが少しも伝わらない

というより父と話そうともしないのだ、何か聞いても「はい」としか言わない

神経がか細すぎるのだ、だが頼まれた以上断れない父の性格だった

話しが決まると伯母さんは「いろいろ支度もあるから3日ほど時間がほしい

その間、かずさんはここに泊まって長野見物でもしておいでなさい」

さすがにお江戸育ちの伯母だけに有無を言わせない強いものを感じる

風まかせの人生を送ってきた義父や叔父さんとは姉弟といえども

苦労の度合いが違うと思った、俺と似たような人生を送ったんだろうなと

父は思うのだった

 

そんなわけでしばし命の洗濯を決め込んだ、翌日には次男が父を

長野から近い野尻湖というところに連れて行ってくれた

ここでボートなどに乗って遊んだけれど、次男が言うには、ここから

数十km行けば日本海に出るということだ、だが次男はまだ海というものを

見たことが無いという

野尻湖も広いけれど松本の向こうにある諏訪湖ははるかに大きい

そこには行ったことがある、海は諏訪湖よりもっと広いと聞いたが、どの

くらい広いんだろうか、かずさんは東京に居るから海は見るだろ」

父は、海を見たことが無い人間が居るのかと思って驚いたが、考えて見れば

祖祖母のシチも、祖母も一度も海を見ないで栃木で育ち、茨城古河で死んだ

事を思い出した

そして日本海は自分自身も一度も見たことが無いのに気づいた

太平洋は品川で毎日見ていた、正確に言えば東京湾だが・・・・・

その日本海の越後だか越中だか知らないところが自分たち母子を捨てて

出て行った実父の故郷だと聞いたことがある

長野まで来て初めてそれを実感したのだった、それは東京で一緒に

暮らした母と井川の兄妹を失った寂しさが、腹は立つけれど血を分けた

人間がまだこの世にいることを気づかせたのだ

初めて、実父とその一族、そして実父の故郷を意識した瞬間だ

 

「甲斐の武田信玄は、このあたりまで攻めてきたそうだ、信玄も僕と

同じで若いときは海を見たことがなかったんだろう、きっと越後の海まで

行きたかったんだろうな?」

次男がポツリと言った。 この子は兄とは全然違うタイプだ、妙に落ち着いて

いて物怖じも人見知りもしない、かといって人なつこくも無い

彼は高等学校を卒業した後、家を出て行って行方不明になってしまう・・

 

そして支度が調った3日後、父と光顕は汽車に乗って東京に帰った

光顕は父と同じ部屋で暮らすことになった、宿だから二人で寝ても少しも

狭くは無い、それよりも父の仕事が忙しくなり、調布で寝泊まりすることの

方が多くなった、それで光顕が一人で若狭屋に居ることが多かったのである

静かに勉強させようという父の気遣いも少しはあったのかもしれない

 

父が調布でぶらついている時のことだった、アメリカ兵が二人で日本人の

若い女性に絡んでいるのを見た

女性は気丈なのか叫ぶことも無かったが、明らかにまわりに助けを求めて

居るようだった、このような進駐軍の狼藉はたくさんあったようだ

しかし周りに居る日本人の男たちは誰も停めようとしなかった

何しろ奴らは180cmもある大男が二人だ、武士の町人切り捨て御免では

ないが何かの拍子に撃ち殺されたり殴り殺されるかもしれない

そこが戦争に負けたものの辛さだ、極東軍事裁判でも一方的に日本と

日本軍の責任と罪を裁いたが、連合軍の非人道的な悪行を問い返す場面も

あった、けれど「この裁判は勝者を裁く裁判では無い、勝者が敗者を裁く裁判だ」

と一蹴されたとか・・・・

そんなご時世だから父もいったんは二の足を踏んだのだ、しかし「義を見てせざるは

勇なきなり」父の性格では見過ごせない、尻込みするような腰抜けでは無い

三人のところにすっと近づいて、米兵を見上げて声を励まして言った

「My Sister」そう言って指を指して彼女の手を取った

アメリカ兵は肩をすぼめて去って行った、彼女は父に礼を言った

これがきっかけで彼女との縁が出来たのだけれど、何という偶然か

先輩の遠野兵長とも彼女は知り合いだったのだ

複雑な恋の糸がもつれはじめた

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和21年 調布での生き様

2019年12月09日 09時31分53秒 | 小説/詩

調布での荒っぽい仕事にも慣れ、良心を少しずつ失いはじめていた

 

再婚した母の相手の義父に反発して小学校卒業と同時に住み込みで

就職、その後、会社が倒産して失業した15~6歳頃は一番心が

荒んだ時期で、砂町の不良グループに入り浸って喧嘩に明け暮れた

負の実績をもった父だった、逆境に入ると裏返ったファイトが湧き上がる

誰かに咎められれば咎められるほど裏返しになる心

小学生の時から貧しい故にいじめ抜かれてきた人生だった、誰のせいに

することもできず、幼心ながら我慢を覚え、それは勝手な大人や

虐げてきた同級生などへの復讐心となって心の奥にたまり

笑うことを忘れてしまったのだ、それを小学生で極めてしまった。

 

ようやく落ち着いたのに、戦争で両親も家も一番信頼していたセイ叔母さん、

姉のように慕っていた珠子さんも失い、何の目的も、自分を愛してくれる人も

無くなって半分は自暴自棄になっている21歳の父だった

こんな仕事だから同業ともめることもしばしばあったが、そんな体験が

重なって元来の負けず嫌いに輪をかけ気持ちを曲げない頑固さも

身についてきた

子供の頃は小さくて胃弱のやせっぽちだったが、成人した頃には

同年代の平均身長163cmになっていた、胃弱も軍隊に入ってから

御飯一口を三十回噛めと言われて実行するうちに、すっかり治って

健康になり人並みの体格になった

 

年が明けて昭和21年になり、それも瞬く間に7月になった

父は日野の仕事に疑問を持って聞いてみた

「農家に農機具を売ったとき現金でもらった方が仕事が早いんじゃ

ないですか? 米もいいけれど没収の危険をおかさなくてすむんじゃ」

日野は「ふふ~ん」と鼻で笑って

「そりゃ並みの人間の考えさ、仕事ってのは面倒になるほど儲けが

でかいのさ、同業の奴らのほとんどが現金をもらって喜んでやがる

もう一押し、もう一工夫するから人より稼げる、危険があるから成功すれば

儲けもでかい、農機具売って十円もらって、それで五円の仕入する

それより米をもらって、それを三十円に売れば・・・簡単な話しさ

五円の機械を三台一度に仕入れれば、次は米を三倍四倍もらって、

百円、百五十円の稼ぎになるだろ、世の中は金をいっぱい持っている奴が

娑婆を大手を振って歩けるのさ、誰だって金の力にはひれ伏す

金が無いのは魂の無いのと同じだ、稼げ!人と同じ事をしていて稼げるものか」

わかったようなわからないような、丸め込まれた気もするが、実際、他の

同業より羽振りはいいから、ある程度事実なのだろう、分け前も悪くはない

ちょっと懐が豊かになったことで父は大事なことを思い出した

それは長野の伯母さん(義父の姉)の二女との許嫁(いいなづけ)を解消する

ことだった、両親が居ない、家も無い今では何の意味も成さなくなったからだ

当然先方も、そんなことすら覚えていないだろう、しかし父はそういった事にも

きっちりと白黒つけたい性分なのだ、曖昧が一番嫌いだ、何よりも後回しが

嫌いなのだ

日野に一週間ほど休むと言って、信越線の汽車に乗り長野市に向かった

伯母は義父の姉だが先妻の娘だった、そのために継母を嫌って早くに家を出て

亡くなった実母の実家を頼って長野へ行ったのだった

当時は義父の一家は代々日本橋に居宅を構えていて、それなりに由緒ある

家柄だったから、長野へ行った伯母さんが善光寺ゆかりの僧侶に嫁ぐのに少しも

臆することは無かった

井川家の家運が傾いたのは大正12年9月1日の関東大震災で家が焼けて

しまってからだった、それ以前に伯母は長野に嫁いでいて子も数人もうけていた

善光寺の門前で宿坊を僧侶でもある夫は営んでいた、その父親も善光寺の僧侶で

そうとうに高い位に就いていた、墓地も善光寺の境内にあって一度だけ義父に

連れられて行ったとき、お参りした事がある

許嫁は小学校の教員をしていたが今はどうしているか知らない

初夏の東京は蒸し暑いが長野は涼しい、湿気が全然違う、ひんやりとした空気が

気持ちいい

だが盆地である長野市は周囲三百六十度、全てが山である、それが気に入らない

生まれ故郷の古河は茨城県とはいえ、もっとも内陸にあって、そこは関東平野の

ど真ん中なのだ、日本一広い関東平野は渡良瀬川の遊水池の土手に上ってみると

周囲三百六十度全てが緑の平野で果てしなく広い、山といえば遥か遠く上越県境と

上州の、のこぎりのように尖った山並みがうっすら見えるだけだ

だから信州は息苦しいほど狭く思えた(ここには住めないな)

そして伯母さんの立派な家にたどり着いて、許嫁解消の許可を求めたが

伯母さんは父の境遇に同情してくれて「少しも気にしてないよ」と

あっさり認めてくれた

だが父は心の中で(厄介払いができてホッとしてるんだろう)と曲げて

解釈していた、そしてそろそろ帰ろうかと思ったとき伯母さんが言った

「かずさん、あなたに一つお願いがあるんだけど、聞いてもらえますかね?」

「・・・・・・・」それは思ってもみなかった(まさか)のお願いだった

 

 

 

 


荒波人生 昭和20年秋~21年

2019年12月08日 14時37分39秒 | 小説/詩

除隊の日が近づくにつれて兵舎の中の人数は次第に減っていった

しかし兵士が居るうちは炊事兵(今はもう兵隊では無いが)の仕事がある、

父を終始可愛がってくれた日野曹長は今も兵舎に居る

以前も紹介したが、世間をなめているとしか思えないふてぶてしい男である

彼の武勇伝は父も入隊してまもなく先輩の兵から聞かされた

自ら炊事班員を希望したそうだ、それは唯一大手を振って毎日、外へ買い出しに

行けるからだ、とにかく自由気ままにやりたい人だから狭い兵舎などでじっと

していられない性格なのだ

しかも調子がいいし、物怖じしないから初対面の女性にも調子よく声をかける

そうしてとうとう買い出しに行っていた八百屋の娘を口説いて結婚してしまった

そんな30男なのだ、除隊したらこの八百屋に住むらしい

 

父が除隊と聞いて、日野曹長がその当日、父を呼んだ

お祝いだ」と言って、リュックにたんまり砂糖と米を入れてくれた、そして

「俺はこの調布で事業を考えているから、仕事にあぶれたら訪ねて来いよ」

と男らしい口調で言ってくれた

とりあえず先に除隊している遠野兵長を頼ることにした、彼も除隊の時

「きっと訪ねて来いよ,力になるから」と言ってくれたのだ

父が入隊して半年過ぎた頃、下士官候補の試験を受けないかと隊から言われた

その時、相談したのが遠野兵長だった

「やめとけ、下士官は消耗品だ、先頭に立って突撃するから真っ先に死ぬ

軍は下士官不足で困っているんだ」とあっさり言ってくれた

なるほど話しがうますぎるとは思っていたが・・・何も知らない新兵であった

 

遠野さんは江戸っ子だ、上野に自宅があって空襲でも焼け残った運の良い人だ

そこを訪ねて、当座の住まいを紹介してもらうのだ

「明日探しに行こう」と言って、一晩自宅に泊めてくれた

下宿はすぐに決まった、上野駅に近い、上野車坂町の若狭屋旅館(仮名)

というこじんまりとした宿だった、年頃の娘が一人いた

主人は人のよさそうな人で、いかにも商人風で頭の低い人だった

父は、とりあえず1ヶ月分を前金で支払い、みやげに持っていた砂糖と米を

いくらか渡すと、すごく喜んでくれた、食糧難の今、米も砂糖も貴重品だ

ともあれ落ち着く先が決まったので一安心した

次ぎにやることは職探し、品川の工場は4月の空襲で焼かれて閉鎖となった

からだ、これは宿を世話してくれた遠野さんに相談したら調布の日野曹長の

ところに相談に行こうということになった

結局、日野さんの仕事を遠野さんも父も手伝うことが決まった

仕事内容は簡単に言えば、農機具の転売だ

在庫を抱えて資金繰りに困っている農機具屋から安く買いたたいて、それを

在方の農家に売るという商売だ

一見まともに見えるが、日野曹長はあくどい男だ、農機具屋を買いたたく

方法がまともではない,脅したり騙したりする

そして多少の不良品でも平気でとぼけて農家に売る

農家からは現金では無く、米で支払ってもらう、その米を一般市民に

闇米として販売して利益をあげた

苦情があっても絶対謝らない、口先で丸め込む

こんな商売であったが、父も遠野さんも批判などしない、日野さん

程でないが、それなりのあくどさで仕事をしている

戦後の闇市が至るところで起こり、東京は生き馬の目を抜くような

危険で粗野な町になっている、新興の闇市場に首を突っ込むからには

それ相応の覚悟と度胸が必要な時代だった

この仕事、儲かるときは儲かるが、歯車が狂うとまったく儲からなくなる

何しろ警察に見つかれば没収される闇米販売だからだ

そんな景気の悪いときだった、父は下宿屋の主人にお金のことで

ぼやいたことがある

すると、失礼だが終戦前にどこぞかの銀行に貯金していなかったかと聞く

それで義父がずっと自分の給料や父の給料の一部を安田銀行に貯金していた

ことを思い出して言った、だけど空襲で銀行は焼けたから何も無いというと

自分の身分を証明できれば貯金は戻って来ますよ」と教えてくれた

軍隊での兵隊手帳ならあるというと、「それで十分だと思いますよ」

それで安田銀行に行ってみると、なるほど五百円という大金を手にすることができた

義父名義で三百円、自分の名義で二百円あった、今なら小さな家が建つ金額らしい

すっかり有頂天になり大きな気になって、足立の慶次叔父さんを訪ねていって

得意になって貯金の話しをしてしまった

まさにネコの前に魚を見せたようなものだ(今のネコは生魚を食べないが)

慶次の目の色が変わった、そして兄貴の分は弟の俺に半分相続する権利がある

と言って取り上げられた

軽口は災いの元と知らされた瞬間だった、それでも三百円ほどある、慶次はそれにも

目をつけて

「どうだい、金もある事だし兄貴と義姉さんの葬式をやろうじゃないか」と持ちかけた

「段取りは俺に任しておきな」

そして浅草の日輪寺で義父と母の葬儀を慶次叔父さんと二人だけで執り行った

葬式といってもお骨があるわけでもなく戒名をつけてもらい位牌をいただいた

義父には院号、母には大姉号をいただいた

支払いまで全て慶次がやったがお金の出所は父の財布だった、ここでもいくらかの

金額をくすねたことは間違いない、だが親の葬儀でもあり大きな気持ちで従った

だが20年の後になって父は、この日のことを悔やむことになる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和20年8月15日 終戦

2019年12月07日 09時25分54秒 | 小説/詩

ほぼ三式戦飛燕の航空隊だった調布基地に様々な軍用機が

勢揃いしていた

どこにこれほどの飛行機があったのかと思うほどの壮観さであった

アメリカ軍は5月の東京空爆を最後に、もはや焼き尽くした東京には

用はないとばかりに通りがかりの艦載機の戦闘機による機銃掃射以外は

来なくなった、かわりに名古屋、浜松、富山など全国50カ所以上に

及ぶ地方都市への爆撃が激しくなってきた

そのため東京近郊の部隊には地方へ転属していくものもあった

高射砲隊は富山へ行ったし、戦闘機部隊は浜松などに、そして少なくない

数の飛行機部隊は神風特攻隊として鹿児島に移った

アメリカ軍は日本上空の制空権も日本近海の制海権もすでに握っていた

B29は被弾して太平洋上に不時着しても潜水艦が待機していてパイロットを

救出した

4月には、日本が誇った不沈戦艦「大和」さえも沖縄出撃のため出航したが

鹿児島県の沖合で航空機によって撃沈され、沖縄にさえ着くことができなかった

16年の開戦時に日本軍航空機がイギリス巨大戦艦をマレー沖で撃沈した

逆バージョンだった

日本を爆撃することなどアメリカ軍にとってもたやすい状況になっていた

しかし京都、奈良、金沢、そして皇居を爆撃しなかったのはなぜか?

軍部に日本通が居たとしか考えられない

アメリカが日本占領した後、日本の古都情緒を堪能するためだったのか?

 

こんな状況であったから、爆撃も無く航空機の戦闘も無くなった調布基地は

すっかり閑になった

それでも父たち通信兵には無線傍受と連絡という仕事がある

この頃、入ってくる電波はアメリカ軍が日本に向けた降伏勧告ばかりだった

「*月*日に**(複数の都市の名前)のうち二カ所を爆撃します、爆弾には

目が無いので、どこに落ちるかわかりません、早く避難しなさい」

などとなめたようなことを言ってくる、しかしその通りになるから嘘ではないのだ

軍部のお偉さんは,必勝逆転を信じているのか、我が身の保身を図っているのか

一人で死ぬのが嫌なのか?

神風特攻で先立った兵士達に「後から俺も行くから」と言って天寿を全うした司令官が

複数いると最近のネットに書かれていたが

これだけ日本中が爆撃され数十万の市民が爆死しても強気な構えを崩さず

例え破れても1億国民全てが玉砕して米兵100万と差し違えると意気まく

そして婦女子を集めて竹槍を持たせてアメリカ兵を突き刺す訓練を真面目に

おこなったのだ、誰が考えても飛行機や戦車でやってくる敵に竹槍で敵うわけがない

会津の女子娘たちは戊辰戦争に時、長刀をもって薩土の男どもに切り込んだが

それとはレベルの違う戦いだ

よしんば米軍が歩兵できてもマシンガンをぶっ放すから、敵に触れる前に全員が

撃ち殺されることは誰でもわかる、もはや生き残ることや勝つことでは無く、軍は

軍のみでは無く、民を道連れにして国家の玉砕をしようということなのだ

集団ヒステリーといわれる所以だ、勝負がついていることは頑固な軍人でも認識

していただろう、それでも続けたのはなぜか?

勇敢な兵士だった人たちも戦後、神風特攻をやる時点で手を上げるべきだった

勝敗はついていたのだから」という人の話を聞くことがあった

それを臆病者だとか非国民とののしって、結果広島、長崎で20万人も尊い国民を

無駄死にさせてしまったのだ、沖縄戦では沖縄県民の3分の1が犠牲になった

とか聞いたが?  「武士道とは死ぬことと・・云々」という言葉に酔いしれ

自分を古武士に例える、それは死ぬことより、武士の潔さをたたえる言葉なのだ

どこにも町人を道連れにせよなどとは書かれていない、武士として己自身が全ての

責任を負って腹を切り、他を救うことこそ美しいと言うことだと思う

会津戦争では会津武家の家族幼児から娘、嫁、老人まで一家全員が自決した家が

ものすごい数であったが、使用人は逃がしている、それこそが武家の誇りだ

20年3月の空襲を最後に降伏していれば、失われた百万近い兵士や国民は今日に

命を繋ぎ失われた優秀な頭脳も生きて活かされ、より高度で強い戦後の日本が

あったかもしれないまことに惜しいことであった

 

7月に入ると新聞やラジオの勇ましい報道とは異なり、アメリカ軍の放送の方が

正しいという証拠が通信兵の間ではささやかれはじめた

それは敵が言う爆撃目標が間違いなく爆撃されることで、予告されても防げない

自軍の力のなさを痛感したからだ

そして8月、降伏するらしいということもささやかれ、それは確信となった

父たち通信兵が真っ先にその情報を入手して、事が事だけに班長にだけ伝えた

班長は分隊長にと情報は一段ずつ上に伝わり、8月14日の時点でこの大隊で

知らないのは大隊長だけであった、さすがに中隊長は、ガチガチの軍人である

大隊長に伝える事ができなかったのだろう

そして昭和20年8月15日、天皇陛下の降伏の玉音放送が流れ戦争は終わった

まさかの放送を聞いた途端、大隊長は崩れ落ちた、それからトボトボと歩いて

執務室から出てこなかった

兵士達は順次、隊を離れて家路についたが通信兵である父達は、そのまま残された

破れたとは言え、通信はいまだ連絡の要であったからだ

ようやく解放されたのは米軍が進駐した後であった、進駐軍が調布に来たときには

生き残った軍用機が接収のため飛行場に並べられていた

三式戦、四式戦など約50機だった、これらは米軍の重戦闘機F6F、P51などに飛行時間が

僅かな新米パイロットでは勝てないので、本土決戦に備えて掩蔽壕に隠しておいたものだった

 

20年9月14日、ちょうど一年前に入隊した同じ日に父は軍役を解除されて一国民に戻った

21歳の父、家族も家も無い荒波人生の第二章に突入した日である。