おはようございます。ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
高台寺 は、豊臣秀吉夫人の北政所ゆかりのお寺です。
高台寺は、慶長11(1606)年に豊臣秀吉の正室北政所(ねね、出家後は高台院湖月尼)が夫の没後、その菩提を弔うために建てた臨済宗建仁寺派の寺院です。
北政所(ねね)の生涯をたどってみましょう。
1.ねねは、天文17(1548 )に生まれました。やがて浅野長勝の養女となります。
2.わずか13歳で11歳年長の木下藤吉郎(24歳)と恋愛結婚をします。永禄4年(1561年)のことでした。
3.慶長3年(1598年)8月5日、夫の秀吉は五大老宛てに2度目の遺言書を記し、8月18日、その生涯を終えます。
4.慶長4年(1599 年)に北政所は、大坂城を出て京都に移ります。 その翌年(1600年)に関ヶ原の合戦が起き、東軍(徳川家康側)が勝利を収めます。
5.慶長8年(1603年)、北政所は、高台院の号を授かります。この年に北政所は、出家したことになります。ということは、1598年に秀吉の死後5年間、豊臣家の帰趨を見守りながらも、時代が徳川政権に移ったことを見定めての出家だということです。
6.慶長11年(1606年)に北政所は、京都東山に高台寺を建立します。
7.北政所は、寛永元年(1624年)に77歳で没するまで25年間京都で余生を送り、京都が北政所の終焉の地となりました。その間には、大阪冬の陣(1614年)、大阪夏の陣(1615年)を経ての豊臣家の滅亡がありました。
8.北政所は、豊国神社の見える高台寺で夫の秀吉と時代の推移を見守りながら、ひっそりとこの世を終えたことになります。あまり知られていないことですが、財政的には、徳川家康の支援もありました。
北政所の住居で終焉の地は、高台寺の近くの圓徳院 でした。ここには、彼女を慕って大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家など多くの文化人が訪れたと言われています。
(圓徳院の庭)
(北政所ゆかりの手水鉢)
今までは夫(豊臣秀吉)側からの歴史を読んでいましたが、妻(北政所、ねね)側から見ることができた高台寺でした。
寺院などの観光スポットも歴史を調べてみると、楽しさが一段と増します。
<お目休めコーナー> 大覚寺の花(4)
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