おはようございます。ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
久しぶりに書棚から「日本文学全集」(新潮社)の「芥川龍之介集」を取り出し、『手巾(ハンケチ)』を読みました。
この短編の主人公は、東京法科大学教授、長谷川謹造先生。「武士道」で有名な新渡戸稲造がモデルだと言われています。
細かい点をカットしてあらすじを書きます。
アメリカ人の妻を持つ長谷川先生は、ベランダで読書をしているときに、あるご婦人が家にやって来ます。
先生のお世話になった「西山憲一郎の母」と名乗るそのご婦人は、息子が腹膜炎のために亡くなったことを報告します。先生は、涙もためずに声も平生どおり、口角に微笑さえ浮かべているご婦人のことを不思議に思います。
ところが、先生が団扇(うちわ)をテーブルの下に落として拾おうとするときに、偶然婦人の膝を見ます。すると、婦人の手が激しく震えているのに気づきます。膝の上の手巾(ハンケチ)を両手で引き裂かんばかりに握っていたのです。婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから全身で泣いていたのです。
以下は芥川が新渡戸稲造をモデルにした、自ら東西両洋の間に横たわる橋梁になろうと思いながら暮らしている長谷川謹造先生に託したメッセージでもあります。
「最近50年間に、物質的方面では、かなり顕著な進歩を示しているが、精神的には、ほとんど、これと言うほどの進歩を認めることができない。否、むしろ、ある意味では堕落している」
そして、続きます。
「武士道なるものは、決して偏狭なる島国民の道徳をもって目せられるべきものではない。かえってその中には、欧米各国のキリスト教的精神と一致すべきものさえある。この武士道によって、現代日本の思潮に帰趣(きしゅ)を知らしめることができるならば、それはひとり日本の精神的文明に貢献する所があるばかりではない。ひいては、欧米各国と日本国民との相互の理解を容易にするという利益がある。あるいは国際間の平和も、これから促進されるということがあるであろう」
『手巾(ハンケチ)』をどう読むかは、読者の自由です。
(1)感情を隠す日本人、と読んでもいいし、(2)この小説が書かれた大正5年前後と今の日本が変わらない、とも、(3)武士道のような日本独特の精神的な基盤を持とう、とも読めるのがこの短編の味わいでした。
40数年ぶりに読んだ『手巾(ハンケチ)』ですが、年齢によって読み方が変わることが発見できたのは収穫でした。
<お目休めコーナー> 椿山荘にて(5)
◎Twitter 始めています。
(クリックしてね)