見もの・読みもの日記

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つくられる国民/文明国をめざして(牧原憲夫)

2009-01-25 23:58:39 | 読んだもの(書籍)
○牧原憲夫『文明国をめざして』(全集 日本の歴史 第13巻) 小学館 2008.12

 幕末から明治時代前期を論じる。私がこの時代に興味を持ったのは、つい3、4年前のことだ。それまでは、中学生程度の知識もなかったから、手当たり次第に目につく本を読んで、何を読んでも面白いと思った。最近は、さすがに読む本を選別するようになってきた。

 本書を読もうと決めたのは、口絵のカラー図版が一風変わっていたからだ。体操教育普及のために作られた「新式小学体育双六」、伊万里焼の「染付時計図八角皿」、金ぴかの台紙に貼られた「鹿鳴館のメニュー」等々。常識的に考えて「幕末明治」を語るなら、偉人のイコンとか年表に載る大事件とか、もっと別の選択もあろうものを、本書は、徹底して普通の人々の生活の視座から、この時代を論じようとしていることが、図版からうかがえた。

 当時の庶民にとって、突如降って湧いた「御一新(近代化)」とは何だったかといえば、次の表現に集約されるだろう。「要するに、お上に仁政を求めず、富者に徳義を求めず、神仏に現世利益を祈らず、乞食や障碍者のような弱者は追い払い、祭りがなくともひたすら勤勉に働き、誰の厄介にもならない『独立』した『個人』となること、それが文明開化というものなのだ」。

 為政者・指導者の側には、そういう「独立した個人」をひとりでも多く促成栽培的に輩出しなければ(この考え方が既に自己矛盾なのだけど)、遠からず日本は帝国列強の餌食になってしまう、という強い危機意識があった(そうですよね、福沢先生)。だから、被差別民の解放を含め、四民平等を徹底することで、社会の「客分」意識を葬り去り、教育・徴兵・納税システムの整備はもちろん、裸体や立ち小便の禁止、施餓鬼や念仏踊りの禁止など、身体や習俗のレベルに及ぶ徹底した管理によって、近代の国民=帝国の臣民をつくり出そうとしたのである。

 「客分」の自由か、義務(束縛)の付随する権利か、という問題は、このあと、女性や植民地住民などのマイノリティ・グループについても、繰り返される。基本的には、均質化の方向を否定できないと思うけど、どこかで「客分」(異人)の存在を許容する、ゆるい社会のほうが、息がつまらなくて私は好きだ。実際、明治前期の社会を見ていても、御一新直後の「文明化」の行き過ぎに対しては、かなり揺り戻しが起きている。

 ただし、怖いのは「お祭り騒ぎ大好き」という、日本人の「秩序逸脱的な情性」が堤防を決壊させたときの危険性で、明治20年代のジャーナリストが既に指摘している。この危険性は、幾度かの戦争を経て、今日に至るまで変わっていないなあ、と思う。
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