○東京国立博物館 慶應義塾創立150年記念 特別展『未来をひらく福澤諭吉展』 (2009年1月10日~3月8日)
http://www.tnm.go.jp/
幕末明治の代表的知識人、福沢諭吉(1835-1901)の思想と活動を紹介する展覧会。ただし、最後に驚くべき「おまけ」が付いている。
私は福沢というオジサンが、けっこう好きだ。まずビジュアルが、なかなかよい。特に若い頃の写真は、目が大きく、鼻筋が通っていて、男前の部類だと思う。そのうえ、身長173センチの大男だったというのは初めて知った。そりゃあ西洋人の前に出ても物怖じしないわけだ。さらに居合の達人で、晩年まで健康のため居合稽古に明け暮れた。慶応義塾の校章に「ペンは剣よりも強し」を掲げた福沢だが、剣も強かったのである。また、散歩党と称して、早朝から塾生を引き連れて散歩したり、米搗きも健康管理のための日課だったという。愛用の居合刀、散歩杖、重たそうな臼と杵などを興味深く眺めた。
当然ながらこの展覧会には、貴重な書籍が多数展示されている。諭吉の名前の由来になったとされる父・百助旧蔵の漢籍『上諭条例』とか、福沢家旧蔵と伝える『ヅーフ・ハルマ』写本(蘭和辞典)とか。杉田玄白(1733-1817)の『蘭学事始』って、明治になってから福沢諭吉が刊行しているのか~。玄白の没年と福沢の生年って20年ほどの差しかないんだなあ、ということにあらためて驚く。『ピネヲ氏プライマリー文典』『クアッケンボス氏合衆国歴史』など、近代初期の高等教育で広く用いられた洋書教科書もなつかしかった。
私は『福翁自伝』を読んで、壮年期までの福沢とは馴染みになっていたが、後半生については初めて知ることが多かった。明治14年(1881)の政変以後、伊藤博文・井上馨に送った絶縁状(控)は、黒々とした推敲の跡が目に刺さるようだ。明治24年(1891)、旧幕臣の勝海舟と榎本武揚を批判した『瘠我慢之説』を贈呈された海舟は、やんわりといなすような返書を送っている。このへん、明治維新という激動の後には、何年にも渡って、息の詰まるような後始末の時代が続いたんだなあ、という感じがする。朝鮮の近代化を目指した政治的指導者・金玉均は、躍るような筆跡で「福沢先生我師也」と記す。生々しい歴史の刻印に、うまく言葉にならない感想が胸の中を去来する。
福沢は、明治31年(1898年)脳出血で倒れ、いったんは回復した。これ以降、揮毫には「明治卅弐季後之福翁」という印章を用いたという。私は、福沢の書は、この印のある晩年の作のほうが味わい深くて好きだ。明治34年(1901年)没。このときの病床記録も慶応大学図書館に保管されているが、患者姓名欄に「福沢先生」とあるのが、可笑しくて泣かせる。
さて、会場である表慶館をぐるりとまわって、1階→2階→再び1階に下りてきたところで、展示内容がガラリと変わる。ここからは「福沢門下生による美術コレクション」を紹介。この「門下生」が半端な顔ぶれではない。益田鈍翁の次弟、末弟、それに松永耳庵。展示品は、光悦、仁清、長次郎あり。伊賀耳付花入(銘・業平)も最高にいい。ところが、残念なことに福沢諭吉や慶応大学に興味があって、この展示を見に来た人たちは、美術品には関心が薄いらしい。せっかくの名品の前でも立ち止まる人は少ない。このセクションだけで、ひとつの特別展と称してもいいくらいの品揃え(→展示リスト)なのにもったいない! 古美術ファンの皆様、騙されたと思って、福沢諭吉展に来場を請う。なんと常設展の本館2階には、松永耳庵旧蔵の『釈迦金棺出現図』も京博から上京中である。
■『未来をひらく福澤諭吉展』公式サイト
http://www.fukuzawa2009.jp/
■MSN産経ニュース:福沢諭吉の新たな写真発見、オランダで(2008/10/25)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081025/acd0810251940007-n1.htm
http://www.tnm.go.jp/
幕末明治の代表的知識人、福沢諭吉(1835-1901)の思想と活動を紹介する展覧会。ただし、最後に驚くべき「おまけ」が付いている。
私は福沢というオジサンが、けっこう好きだ。まずビジュアルが、なかなかよい。特に若い頃の写真は、目が大きく、鼻筋が通っていて、男前の部類だと思う。そのうえ、身長173センチの大男だったというのは初めて知った。そりゃあ西洋人の前に出ても物怖じしないわけだ。さらに居合の達人で、晩年まで健康のため居合稽古に明け暮れた。慶応義塾の校章に「ペンは剣よりも強し」を掲げた福沢だが、剣も強かったのである。また、散歩党と称して、早朝から塾生を引き連れて散歩したり、米搗きも健康管理のための日課だったという。愛用の居合刀、散歩杖、重たそうな臼と杵などを興味深く眺めた。
当然ながらこの展覧会には、貴重な書籍が多数展示されている。諭吉の名前の由来になったとされる父・百助旧蔵の漢籍『上諭条例』とか、福沢家旧蔵と伝える『ヅーフ・ハルマ』写本(蘭和辞典)とか。杉田玄白(1733-1817)の『蘭学事始』って、明治になってから福沢諭吉が刊行しているのか~。玄白の没年と福沢の生年って20年ほどの差しかないんだなあ、ということにあらためて驚く。『ピネヲ氏プライマリー文典』『クアッケンボス氏合衆国歴史』など、近代初期の高等教育で広く用いられた洋書教科書もなつかしかった。
私は『福翁自伝』を読んで、壮年期までの福沢とは馴染みになっていたが、後半生については初めて知ることが多かった。明治14年(1881)の政変以後、伊藤博文・井上馨に送った絶縁状(控)は、黒々とした推敲の跡が目に刺さるようだ。明治24年(1891)、旧幕臣の勝海舟と榎本武揚を批判した『瘠我慢之説』を贈呈された海舟は、やんわりといなすような返書を送っている。このへん、明治維新という激動の後には、何年にも渡って、息の詰まるような後始末の時代が続いたんだなあ、という感じがする。朝鮮の近代化を目指した政治的指導者・金玉均は、躍るような筆跡で「福沢先生我師也」と記す。生々しい歴史の刻印に、うまく言葉にならない感想が胸の中を去来する。
福沢は、明治31年(1898年)脳出血で倒れ、いったんは回復した。これ以降、揮毫には「明治卅弐季後之福翁」という印章を用いたという。私は、福沢の書は、この印のある晩年の作のほうが味わい深くて好きだ。明治34年(1901年)没。このときの病床記録も慶応大学図書館に保管されているが、患者姓名欄に「福沢先生」とあるのが、可笑しくて泣かせる。
さて、会場である表慶館をぐるりとまわって、1階→2階→再び1階に下りてきたところで、展示内容がガラリと変わる。ここからは「福沢門下生による美術コレクション」を紹介。この「門下生」が半端な顔ぶれではない。益田鈍翁の次弟、末弟、それに松永耳庵。展示品は、光悦、仁清、長次郎あり。伊賀耳付花入(銘・業平)も最高にいい。ところが、残念なことに福沢諭吉や慶応大学に興味があって、この展示を見に来た人たちは、美術品には関心が薄いらしい。せっかくの名品の前でも立ち止まる人は少ない。このセクションだけで、ひとつの特別展と称してもいいくらいの品揃え(→展示リスト)なのにもったいない! 古美術ファンの皆様、騙されたと思って、福沢諭吉展に来場を請う。なんと常設展の本館2階には、松永耳庵旧蔵の『釈迦金棺出現図』も京博から上京中である。
■『未来をひらく福澤諭吉展』公式サイト
http://www.fukuzawa2009.jp/
■MSN産経ニュース:福沢諭吉の新たな写真発見、オランダで(2008/10/25)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081025/acd0810251940007-n1.htm