〇弘末雅士『海の東南アジア史-港市・女性・外来者』(ちくま新書) 筑摩書房 2022.5
交易活動が活発化し、東西世界(ヨーロッパ、中国、日本)から多数も来訪者がこの地域を訪れた近世(15世紀~)、さらに植民地社会が成立し国民国家形成運動が展開する近現代(19世紀後半~)の東南アジアを総合的に論ずる。本書の注目ポイントをよく表しているのは副題である。東南アジアには、古来、海洋を通じて多くの商人や旅行者・宗教家が来航し、港市は、外来者に広く門戸を開き、多様な人々を受け入れるシステムを構築してきた。そこで大きな役割を果たしたのが女性である。
以下、最も印象的だった「女性」の役割を中心にまとめる。15世紀から17世紀、東南アジアでは、東西海洋交易の中継港となり、香辛料などの東南アジア産品を輸出する港市が各地で台頭した。私の知っている地名でいえば、ムラカ(マラッカ)、アユタヤ、ジョホール、ブルネイ、ホイアンなどである。港市では、一般に外来者は、出身地ごとに居住区を割り当てられ、それぞれの居住区では頭領が任命され、出身地の慣習に従って滞在することが認められた(この方式は、東南アジアの港市に限らず、ありがちに思える)。
特徴的なのは、交易活動を進展させるため、滞在する外国人商人に現地人女性との結婚が斡旋されたことだ。東南アジアでは商業活動に関わる女性が多く、彼女たちは、外来者に現地の言語や習慣を教えるだけでなく、市場との間を仲介した。最高位の貴族たちが自分の娘を外来者に差し出したがったとか、何度も外来者の一時妻になるのは誉れ高いことだったとか、一時妻を得た外来者は、妻にひどいことをしたり別の女性とつきあったりしてはならなかった(普通の結婚と同じ)とか、びっくりする話が並んでいる。しかし現代の感覚で、当時の女性の人権が抑圧されているとは言い難い。むしろ彼女たちは誇り高く自由であったように思われる。いろんな社会システムがあるものだ。
もちろん、報酬や子供の親権をめぐって、しばしば軋轢も起きた。17世紀に至り、現地権力者が一時妻の斡旋に積極的でなくなると、ヨーロッパ人は、現地生まれのヨーロッパ人女性や現地人女性、あるいは女奴隷と家族形成するようになった。「現地生まれの(法的な)ヨーロッパ人」には、ヨーロッパ人男性と現地人女性の間の子孫(ユーラシアン)や、父親が認知した女奴隷の子供も含まれる。ヨーロッパ人はこうした現地妻を必ずしも正式結婚とみなさなかったが、ジャワでは、彼女たちをニャイ(ねえさん)という尊称で呼んだ。
近世後期(18世紀~)は清朝の隆盛により、東南アジアも生産活動や商業活動を活発化させた。女性や女奴隷は引き続き、市場での商業活動を担い、外来者と交流した。19世紀に入ると、イギリス東インド会社のラッフルズを筆頭に、ヨーロッパ人が勢力を拡大し、現地勢力との間に確執が生じた。19世紀後半には、植民地支配が拡大し、抵抗する現地勢力は多くが廃絶された。この頃、蒸気船の就航とスエズ運河の開通によって、東南アジアは、これまで以上に世界経済と緊密に結ばれることになる。外来のヨーロッパ人男性の多くは、相変わらずニャイと同棲していたが、在地権力者の権威の失墜により、彼女らの地位も下降し始めた。一方、ヨーロッパ人クリスチャンの間では性モラル向上運動が起こり、次第にニャイの慣習に変更を迫る圧力が増した。こうして、ニャイは(その子孫であるユーラシアンも)外来者と現地社会を仲介し、統合する機能を失っていく。
東インドでは、ユーラシアンとヨーロッパ系住民を中心に独立国家作りを目指す動きが起こる。その他の地域でも、宗教や政治思想(社会主義、共産主義)、民族主義に加えて、男女関係や家族形成を論点としながら、「国民統合」の新たな社会が構想されていく。その道程は、一国ごとに異なり、とても興味深い。国民統合としては上手くいったように見えても、ジェンダー平等の点では問題があると感じる例もあった。近代化の成功とは何なのかも考えさせられた。私は大雑把に「近現代」という時代を、なかなか好きになれない。その理由のひとつは、「男性優位の原理を掲げるヨーロッパ人の植民地体制」の名残が、地球上から消え去らないためではないかと思う。