〇畑中章宏『今を生きる思想:宮本常一:歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書) 講談社 2023.5
はじめに「民俗学」という学問について、著者は次のように解説する。人文科学は「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」という命題を追究するものだ。「私たち」の範囲は学問領域によって異なるが、柳田国男は、20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」と措定して「日本民俗学」を立ち上げ、「私たち」の起源・定義・未来を追究した。このとき柳田は「心」を手がかりにしたが、「もの」を民俗学の入り口にしたのが宮本常一(みやもと つねいち、1907-1981)である。
なるほど、この整理は分かりやすい。しかし宮本の民俗学というと、私は「もの」(民具研究)よりも、旅、聞き書き、座談、フィールドワークの人というイメージが強い。本書も代表作『忘れられた日本人』を読むことから、宮本へのアプローチを始めている。この本は読んだかなあ。私が民俗学に強い関心を持っていたのは学生時代の80年代なので、よく覚えていない。都会育ちだった私には、宮本の本に描かれる、漁村や農村、さらには村落共同体の外側で生きる人々の姿は、あまりにも遠すぎて、共感できなかった。
今の年齢になってようやく、日本列島に生きる人々には多様な暮らしぶりがあること、多様性を前提としつつも、がむしゃらに働き、いたわりあいながら、つつましく健全な暮らしを営む「庶民」というカテゴリーに括ることができることが、私にも理解できるようになった。宮本は、庶民の立場から庶民の歴史を書くことを志していたという。
前近代の日本人は、稲作に携わってきた人口が多数を占めることから、移動が少なかったように思われがちだが、宮本は移動する庶民の姿を多数記録している。飢饉や自然災害や、両親の死去などの個人的な理由で食いつめた人々は、食いつなげる場所を求めて移動し、「乞食」になって流浪したり、別の土地に住み着いたりした。共同体の側から見れば、外側から来るものの刺激を絶えず受け、刺激を取り入れていた。つまり「共同体」(人々が価値を共有する世界)と「公共性」(異質な価値観を抱く人々が共存する、オープンな空間)の絶え間ない往来の歴史があったのだ。現在の日本では、国外からの移民・難民の受入れが大きな課題になっているが、著者の言うとおり、私たちの多くが「移動する人々」(あるいはそれを受け入れた人々)の子孫であることに思いをめぐらせてほしいと思う。
宮本の記録した「庶民」の世界は、もはや消え去って跡形もないだろう、と感じるところもある。祖先から受け継いだ知識(伝承)は「公」のものだから、私見や粉飾を加えることをしてはならない。維新以前に生まれた老人には、まだ古い伝承形式が保たれていたというが、令和の現代では、無字社会での伝承の意味を想像するのも困難である。また、これは都会(大阪)の話だが、宮本が18歳の頃というから1920年代、文字を知らない女性たちに恋文の代筆を頼まれたとか、大きな橋の下には「乞食」の集落があったというのも興味深かった。
また宮本は、東日本は同族集団が基本で、縦の主従関係による家父長的な上下の結びつきを特徴とするが、西日本は、フラットな横の平等な関係を特徴とするという。寄合いや一揆のような横の組織は西日本で発達し、若者組・娘組のような年齢階梯制(これはフラットな組織の例なのか?)は東日本では非常に希薄だという。これは実感がなくて、是非を判断できないが、覚えておこう。