見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

小説よりも奇/重蔵始末(逢坂剛)

2008-12-18 22:05:11 | 読んだもの(書籍)
○逢坂剛『重蔵始末』(講談社文庫) 講談社 2004.7

 近藤重蔵の名前で自分のブログを検索したら、2005年の国立公文書館の特別展『将軍のアーカイブズ』がヒットした。そうそう、北方探検家としての重蔵は、もちろん以前から知っていたが、この公文書館の展示で、へえ~このひと、紅葉山文庫の書物奉行だったんだ!ということを初めて知って、急に親近感を抱くようになった(同業者のよしみ)。書物奉行にして探険家って、二重人格みたいなプロフィールだが、Wikiによれば「自信過剰で豪胆な性格が見咎められ」、のち書物奉行から弓矢奉行に左遷されたという。やれやれ、可笑しな人だなあ。

 本書は、その近藤重蔵を主人公に据えた短編時代小説集である。火盗改(かとうあらため=火付盗賊改の略)の若き重蔵は、牛の一物の皮でできた赤い鞭を腰に挿し、傍若無人でケレン味たっぷりのタフガイヒーローとして登場する。性格設定が現代的なので、ハードボイルドミステリーを読むような感じで、若い読者もすぐに感情移入できるだろう。一面、時代小説ファンの「江戸情緒に欠ける」という不満もうなずけるところだ。

 脇役に、もう少し個性的な人物が配置されると、もっと面白くなると思うのだけど。これからの展開に期待したい。あと、まだ今のところ私には、歴史上の重蔵のほうが、小説よりも魅力的に思える。
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知力の自由競争/江戸の知識から明治の政治へ(松田宏一郎)

2008-12-17 22:52:40 | 読んだもの(書籍)
○松田宏一郎『江戸の知識から明治の政治へ』 ぺりかん社 2008.2

 第1部「統治エリート観における伝統と現代」と第2部「アジア認識と伝統の再構成」から成る。第2部はちょっと難しくて斜め読みになってしまったが、第1部は面白かった。問題は、徳川期から明治初期にかけて、どんな統治者を戴く社会が理想的であると人々は考えていたか、あるいは、統治者をどのように選抜・育成するシステムが望ましいと考えていたか、である。本書は、この点を、横井小楠、高野余慶、佐久間象山などの残した文章に拠りつつ、また、同時期の西洋と比較しながら考える。

 19世紀半ば、英国では、インド植民地官僚の公開試験による採用方針が決められた。ただし、それは、現地語などの専門知識を有する者よりも、大学で古典を中心とする教養教育を受けた者を登用するための制度改革であった。英国の行政官僚におけるジェネラリスト優先主義は、20世紀後半まで、根強く存在したという。

 同様に日本でも、18世紀末から19世紀前半、学問吟味による人材登用などを通じて、学問を統治人材の要件とすることが一般化した。つまり、学問(教育)による立身出世、というライフプランは、明治以降に出現したものではなく、江戸後期の学問熱から育ってきたものであることが分かる。ただし、求められた「有用有益」の「実徳実才」とは、「吏事」のプロフェッショナリズムではなく、倫理的動機付けが重視されており、西洋の教養(リベラル・エデュケーション)に近いものである。

 人材の確保と育成は、現代においても、官僚機構と私企業とを問わず、重要な課題である。けれども面白いのは、社会を大局的に見ていた学者たち、J.S.ミルやトクヴィルは、優秀な人材が統治機構(行政官僚)に集中しすぎると、社会の活動力が失われると考えていたことだ。彼らは、その典型例を伝統中国の官僚制度に見ていた。ペダントクラシー(秀才政治)とは、うまく名付けたものである。

 福沢諭吉は、ミルの警告に、素早く的確に反応している。知力の有効性を評価するからといって、その測定基準を一元化し、政府が正統性を付与することはすべきでない。全国の知力が全て政府に集中する、というような事態は、社会の停滞を招く。むしろ、知的人材を分散化し、競争状態を維持しておけば、必要に応じて人材は供給される、と説くのである。うーむ、ダメ官僚が頻出する今日の日本のありようは、慶賀すべきことなのかもしれない(人材が集中していないという点で)。それと、今般の大学行政担当者に聞きたい。いまのCOE制度なんて、福沢のいちばん危惧したことをやってるに等しいのじゃなかろうかね。
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受け継がれる遺伝子/琳派から日本画へ(山種美術館)

2008-12-16 22:09:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
○山種美術館 『琳派から日本画へ-宗達・抱一・御舟・観山-』(2008年11月8日~12月25日)

http://www.yamatane-museum.or.jp/

 この秋、東博の『大琳派展』に熱狂なさった皆様へ。宗達→光琳→抱一と受け継がれた琳派の遺伝子は、明治以降の日本画にも脈々と生き続けた。そのことを実感する展覧会である。

 見どころは、やはりいちばん奥の部屋。下村観山の大作『老松白藤』(大正10年)は、装飾的な金屏風に、巨大な老松と這い回る白藤をリアルに描いたミスマッチ感が、不思議な魅力を湛えている。松の巨木は、琳派というより、永徳みたいじゃない?と思ったが、上下をバッサリ切り落とした構図は琳派の伝統だという。なるほど、そういう視点があるのか。

 これに対峙するのが、3点の金屏風。中央は、速水御舟の『名樹散椿』(昭和4年)。山種美術館の代表的な名品である。しかし、両隣りの作品も負けず劣らず、いい。闊達なフォルムデザインが気持ちいい(槙の幹の曲がり方!)左の六曲屏風は、伝・宗達筆『槙楓図』(江戸初期)。描かれたばかりのように色鮮やかな右の四曲屏風は、鈴木其一『四季花鳥図』(江戸後期)だという。びっくりしてしまった。江戸初期から速水御舟まで、300年の時差をほとんど感じさせない。それも「琳派○代目」とか名乗っているわけでもないのに、「かざりの美学」の遺伝子は、きちんと継承されているのだ。

 同じ部屋の、本阿弥光甫(光悦の孫)の三幅対『白藤・紅白蓮・夕もみぢ』もよかった。丹念に対象の造形に迫る態度が、ちょっと素朴派ふう。奥村土牛『戌(いぬ)』は、金地の背景に梅一枝と、上目づかいの子犬を描いたもの。黒い背中には「たらしこみ」の技法が用いられているが、何より、悪ガキっぽい面構えが、まぎれもなく宗達直系である!

 歴史画を得意とした前田青邨は、琳派の系譜なのかなあ? まあ、江戸琳派の人々は、好んで大和絵や古絵巻を学んでいたようだけど。青邨の『三浦大介』は、白髯の老武者の何気ない座像を描いたもの。三浦大介(義明)の苛烈な最期を知る者には、抑えた筆遣いが却って慕わしく感じられる。
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連続シンポジウム『情報の海~漕ぎ出す船~』第3回

2008-12-15 23:05:11 | 行ったもの2(講演・公演)
○東大情報学環・読売新聞共催 連続シンポジウム『情報の海~漕ぎ出す船~』
 第3回 情報の海~「新聞」という船

http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/news/2008/09/post_33.html

 連続シンポジウムの第3回(最終回)は、折しもシカゴトリビューンの破産申請(12/8)を受け、「新聞」という巨大メディアは、かつての恐竜のように、絶滅に瀕しているのではないか?という、司会・吉見俊哉氏の切実な問いかけによって始まった。

 これに応答する基調講演を行ったのは、読売新聞東京本社会長の瀧鼻卓雄氏。瀧鼻氏は、アメリカの新聞社は広告収入の比重が高く、1部売りが中心であるのに対して、日本は購読収入の比重が高く、戸別配達が中心のため、不況の影響を受けにくいと説明。けれども、これは、続く立花隆氏から、日本の新聞社はそうかもしれないが、新聞販売店の収益構造(折り込みチラシの広告収入頼み)はアメリカに近い、というかたちで論駁される。

 瀧鼻氏いわく、新聞とは、厳しい訓練をくぐりぬけてきたプロのジャーナリスト集団である。10年で半人前、20年で(他人の3倍働いて)ようやく1人前。なんとかモノになるのは3分の1、普通が3分の1、「採用ミス」が3分の1。おお~厳しい世界だなあ、と感心したが、よく考えてみると、ジャーナリストに限らず、仕事なんて、だいたいそんなものじゃないのか?

 ただ、瀧鼻氏が、プロフェッショナルな仕事の例として示された、いくつかの報道写真には感嘆した。ネットに垂れ流されている「ニュース写真」と比較すると、迫力の差は圧倒的である。戦場の幼い少女の、暗澹とした表情を捉えた写真について、「この子は直前までは普通に笑っていたのかもしれない。この一瞬の表情を捉まえることができるのがプロのジャーナリストです」と瀧鼻氏は説明された。確かに、心に響くような、忘れがたい写真だった。けれども、あまりにも洗練されたプロの報道は、戦場の少女が「直前までは笑っていたかもしれない」という想像を、我々の思考から完全に奪い去ってしまう恐れがある。そこを補うのが市民ジャーナリズムの役割なのではないか、と思った。

 同様に、メディア研究者である林香里氏と武田徹氏は、「公共性と共同性(利益共同体=私企業)の対立」「公共の意味をめぐる闘争」「最大公約数からこぼれ落ちる存在をいかに救うか」といった表現で、市民ジャーナリズムの可能性を説いた。これに対して(瀧鼻氏は途中退席)立花隆氏は「先生たちは、難しいことをいうなあ」と(敢えて?)揶揄的に応酬。うわ~辛辣。司会の吉見先生、ここから、どうまとめるんだろう、と聞いていて、ハラハラした。

 結局、この日の議論では、ジャーナリズムをめぐって、プロフェッショナルの誇り/アマチュアの可能性、客観(事実報道)/主観(ニュースの価値の発見)、大学のジャーナリズム研究/OJTによる現場のジャーナリスト教育、といった様々な対抗軸が容赦なく暴き出された。と同時に、どっちが悪い、というような不毛な水掛け論を廃して、異なる立場どうしの「対話」こそ重要、という結論が導き出されたことが収穫だったと思う。「職人=マイスター」は、弟子を教育できる(教育理論を持った)師匠でなければならない、というのは、林先生、いい切り返しでしたね。こんなふうに熱い討論が成立するということに、まだ「新聞」って愛されているメディアなんだなあ、ということを感じた。

 この連続シンポ、個別テーマとして扱ったのは「図書館」と「新聞」だったが、実は隠しテーマは「大学」だったように思う。「大学」もまた、「情報=知識」の海を渡る巨大な船であり、今まさに荒波に翻弄されて、針路を定めかねている感があるのだ。次の機会には、そこを正面から論じてほしいと思った。

参考:
 第1回 情報の海~マストからの眺め
 第2回 情報の海~沈まぬ「図書館」丸
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クリスマスの準備

2008-12-14 23:16:24 | なごみ写真帖


以前、住んでいた家の近所に、手作りのクリスマスリースを売る花屋さんがあった。
毎年、12月になると、とりどりのリースが店先に並ぶ。どれもセンスがよくて、値段もお手頃。
ふだんは花屋に用のない私だが、年に1度、クリスマスリースだけはこの店で買うことを習慣にして、もう10年近くになる。

それが、去年は、とうとう買いそびれた。埼玉に引っ越したことは理由にならない。神奈川県の逗子で暮らしていた2年間も、わざわざ東京までリースを買いに出かけたのだから。ひとえに去年の職場環境が、それどころではなかったのである。

今年は、ちょっと余裕を取り戻して、なじみの花屋さんでクリスマスリースを買ってきた。

緑一色にまとめたシックなデザインが気に入ったもの。玄関に掛けてみたら、ちょっと杉玉(日本酒の造り酒屋などの軒先に飾るもの)に似ているかも…。

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岩波書店フェア企画「私のすすめる岩波新書」

2008-12-11 23:41:37 | 見たもの(Webサイト・TV)
○岩波書店:創刊70周年記念「私のすすめる岩波新書」

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/sin_fair2008/index.html

 当節、どうして丸山真男の『日本の思想』(岩波新書、1961)なんぞを突然読もうと思ったかというと、先日、大型書店の入口で、大々的なフェアをやっているのを見つけたのだ。岩波新書は1938年11月20日に誕生し、今年、70周年を迎えた。この記念の年に、各界著名人の推薦によって選ばれたのが「私のすすめる岩波新書」50点である(→上記サイトに一覧リストあり)。こうして見ると、恥ずかしながら書名を知っているだけ、というのがけっこう多い。大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』とか、鶴見良行『バナナと日本人』とか、実は読んでいないのである。

 読んだ記憶はあるが、内容をきちんと答えられないものもある。梅棹忠夫の『知的生産の技術』はその代表。中高生の頃、背伸びして読んだ本は、ほんとに何も実質が残っていない。もちろん印象の強かったものもあって、堀田善衞の『インドで考えたこと』、加藤周一の『羊の歌』、吉川幸次郎と三好達治の『新唐詩選』が私のベスト3だろうか、この中では。

 何より面白いのは、誰がどの本を推薦しているかである。推薦者の大半は、わりと生真面目に、自分の専門分野に関係の深い1冊を選んでいらっしゃるが、ときどき、あれっ?と思う結びつきがある。近代史の成田龍一さんが石母田正『平家物語』だったり、中世日本文学の久保田淳さんが高階秀爾『名画を見る眼』(西洋美術鑑賞の手引)を選んでいたり。へえ~このひとは、なぜこの本を選んだのかなあ、と思う。こんなふうに、各界の著名人と、ただの一般人が体験を共有できるところが、読書をめぐる共同体の「幸福」だと思う。ちなみに、私が丸山の『日本の思想』を読みなおそうという気になったのは、「姜尚中氏推薦」のポップが立っていたからだ。

 別のページに「読者が選ぶもう一度読みたい岩波新書」があって、こっちもなかなかセレクションがいい(そうそう、吉川幸次郎には『漢の武帝』もあった。この本、好きだったなあ~)。近年、読み捨ての週刊誌みたいな新書が爆発的に出現しているが、20年後、あるいは30年後、「もう一度読みたい新書」として、タイトルの挙がるものがどれだけあるだろうか。やっぱり、文化・学術財って、供給者(作者)と、享受者(読者)と、その間を仲介する商売人(書店=出版社)という三者の、どこかが矜持を忘れたら、終わりなんじゃないかと思う。
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フィクションとしての伝統/日本の思想(丸山真男)

2008-12-09 23:54:59 | 読んだもの(書籍)
○丸山真男『日本の思想』(岩波新書) 岩波書店 1961.11

 たぶん、いや絶対、むかし読んだことがあるよなあ、と思いながらの再読。本書は2つの論文と2つの講演からなる。冒頭の「日本の思想」は、日本思想史の不幸な特質を論じたもの。日本では、伝統思想が外来思想に対話や対決を迫ることがなく、逆に、伝統思想が変革や再生を経験することもなく、あらゆる思想が無時間的に雑居してきた。それゆえ、日本人は、どんな新思想でも(あるいは芸術様式でも)手持ちのストックから「よく似たもの」を都合よく「思い出す」ことができるのである。

 さて、機軸(思想的伝統)なしに憲法政治(民主政治)を始めることの恐ろしさを認識していた伊藤博文は、「我国ニ在テ機軸トスベキハ、独リ皇室アルノミ」というフィクションを打ち立てる。この「国体」は、帝国臣民に厳しい「無限責任」を要求するように見えて、実は「巨大な無責任への転落の可能性」を内包していた。

 前段は、いかにもジャーナリズム受けしそうな、皮肉の効いた、颯爽とした文体である。高校生くらいで読んでいるとすれば、必ず前段を面白がったに違いない。しかし、今読むと、史料に基づいた後段のほうにむしろ惹かれる。臣民の権利をめぐる、伊藤博文と森有礼のやりとりが興味深い。伊藤の「抑憲法ヲ制定スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」という発言を読むと、やっぱりこのひとは、日本のリベラリストの祖だなあ、と思った。

 2番目の「近代日本の思想と文学」は、いちばん読みにくかった。残念ながら、「プロ(レタリア)文学論」とか「ナップ」とか「文芸戦線」の用語がピンとこないのである。

 次の「思想のあり方について」はよく分かる。タコツボ型とササラ型なんて、例によって、うまい比喩だ。しかし、戦前にタコツボの間をつないで国民的意識の統一を確保していた天皇制に代わって、マスコミの役割が期待されているけれど、この点は、近い将来、マスコミの影響力が低下すると、分からなくなるかもしれない。あと、本来、マスコミとは孤立・受動的な個人に働きかけるもので、組織体と組織体の間をつなぐ力には乏しい、という細やかな分析には、感心させられる。

 最後が「『である』ことと『する』こと」。教科書や入試問題によく出ていた文章だが、いまはどうなのかな。「である」価値(身分、家柄)から「する」価値(実用)へという移行を、基本的には肯定的に捉えながら、研究者の昇進が論文の内容よりも本数で判断される趨勢を嘆き、文化的創造とは不断に忙しく働くことではないと断じて、「教養」や「休止」「静閑」の価値に注意を喚起するところに、むしろ現代性を感じる。
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国民・議員・公務員/あした選挙へ行く前に(池上彰)

2008-12-08 23:19:20 | 読んだもの(書籍)
○池上彰『あした選挙へ行く前に』(14歳の世渡り術) 河出書房新社 2008.11

 図書館などで、中学生・高校生を「ヤングアダルト」と呼ぶ言葉が使われ出したのは1980年代くらいだろうか。むかしは、主に文学のサブカテゴリーとして使われていたように思うが、最近は、さまざまな社会問題を、斬新な切り口で論じた本が増えてきた。いいことだと思う。

 本書は「選挙」について考える本。選挙はなぜ必要か。次の選挙で「落ちる不安」があるからこそ、政治家は一生懸命に市民の声を聞き、仕事をする。経済学者のアマルティア・センは「民主主義の国では国民が飢え死にするようなことは起きない」と言ったという(この点、いまの派遣労働者をめぐる状況は、日本が本当に民主主義の国かどうかを問われている気もする…)。

 われわれが選挙で選ぶのは「われわれの税金を使う人」であるべきだ(最初の有権者は納税者だけだった)。けれども、われわれは公務員を選ぶことができない。つまり「私たちの税金で雇っている公務員が、ちゃんとした人たちかどうか分かりません(略)そこで私たちが政治家を選び、その政治家が公務員の仕事を監督し、公務員に仕事を命じたりするのです」。いや、これには目からウロコだった。国民-議員-公務員の三者関係って、本来、そうあるべきものだったのか! もしかしたら、中学や高校の社会科で習ったのかもしれないが、いまの現実が、あまりにも理想から遠く隔たっているので、すっかり忘れていた。

 選挙の投票に行かないのは「私の納めた税金は、何に使ってもいいですよ」と言っているようなものだ、と本書はいう。なんだか身もフタもない言い方だが、「権利」とか「義務」とか、抽象的な言葉で説明されるよりも、かえって胸にこたえる重みがある。

 さらに選挙制度について。私が小学生の頃に比べれば、日本の選挙制度は、ずいぶん変わった。制度の影響は、すぐには現れないので、政治家の身勝手で制度をいじっているだけじゃないか、と思ったりもしたが、変化の兆候は、少しずつ見えてきたように思う。もしかしたら、日本にも、選挙による政権交代をともなう、二大政党の時代が、ついに訪れるかもしれない。

 そのほか、国会議員の特権や、アメリカ大統領選挙の仕組みなど、一見、常識にあわない不思議なシステムにも、「なるほど」と思える理由があることが分かる。オバマ氏が、自分の意思でアメリカにやってきたエリート黒人の子孫であり、アメリカのいわゆる「正統な黒人」ではない、という点も、あまり日本の報道では強調されていないことで、興味深かった。
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構築進む、アジアの電子図書館

2008-12-07 00:52:22 | 行ったもの2(講演・公演)
○東京大学東洋文化研究所 アジア貴重古籍の電子図書館建設と保全事業シンポジウム『アジア古籍電子図書館からアジア知識庫へ-法華経と古典知の冒険-』

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/

 午前の第1部は、どう考えても仏教哲学とは縁のなさそうな政治学者、経済学者を交えて「法華経と現代」を語る、異種格闘技のようなセッション。面白そうだったが、間に合うように早起きできなかった。ごめんない。

 午後の第2部は「アジア古籍電子図書館-アジア知識庫の構築に向けて」と題して、日本・中国・台湾で行われている各種の電子図書館とデジタル・アーカイブの試みを紹介する。

 冒頭、橋本秀美氏(東文研准教授)から、中国・台湾・日本における古籍電子図書館構築の沿革・現況・展望と、それぞれの特徴について、研究者の視点からのレビューがあった。最も早く中文古籍目録のデータベース化に着手したのは日本であり、台湾・中国が追随した。次に日本は全文画像データベースの構築に進んだ。これは書籍の代用とまではいかないが(PC上で通読するのは疲れる)、対照・参考用としては十分実用的な価値を持っている。一方、中国・台湾は全文テキスト化に進んだ。台湾では中央研究院の主導によって、非常に精密なデータベースを作り上げたが、中国では、民間の個人が、てんでバラバラに入力した成果がネット上に公開され、結果的に膨大なテキストデータベースが出現した。

 古籍にとどまらず、「中国ではほとんどあらゆる出版物がスキャンされてネットで流通している」という、とんでもない話も聞いた。もちろん違法行為である。しかし、書籍の流通がよくない中国の場合、たとえば中華書局の『二十四史』のような基本文献であっても、地方都市では「買いたくても買えない」ことが多いため、これは大助かりなのだそうだ。『續修四庫全書』(1,800冊?)も全てPDFファイルで手に入るという。うーん、蛇の道はヘビというか、なんというか。個人がスキャンして公開しているものもあれば、どこかの図書館の内部用に作成されたデータが流出したと思われるものもあるそうだ。

 まあ、文明国とは思われない話であるが、この「野蛮な活力」を放置したほうが、大局的には国益に添う、と中国の指導者は判断しているのではないかと思う。実際、日本やヨーロッパが大騒ぎしているGoogleブック図書館プロジェクトなんて、メリットでもなければ脅威でもないだろうなあ、中国にとっては。

 中国の国家的な電子図書館プロジェクトで最も画期的だったのは、四庫全書が全文テキスト化され、検索可能になったことだ。そもそも四庫全書が「清朝以前の古典世界を再構築する」目的で編纂された叢書であったことが、データベースにも特権的な特徴を与えているという。なるほどねえ。日本には、個性的な文庫は数々あるが、こういう叢書はないと思う。『群書類従』もちょっと違うし…。

 そのあと、中国・台湾・日本の図書館・博物館から、実際のデータベースやデジタルアーカイブの紹介があった。中国国家図書館のサイトを見るのは久しぶりだが、いつの間にか、ものすごくデジタルコンテンツが増えていた。「中國古籍善本目録」が実装している”相関性分析”という考え方が、なかなか面白い。たとえばA氏の著作は、どこで出版されたものが多いとか、誰が跋を書いたものが多いとかが、一目で分かる仕組みである。

 台湾の故宮博物院・図書文献館は割愛して、日本については、奈良国立博物館の写真デジタルアーカイブの紹介があった。現在も「所蔵写真検索システム」というかたちで一部公開されていることは知っていたが、来年2月には、これを進化させた(?)デジタルアーカイブを公開するらしい。楽しみである。ただし、ネット上に公開できるのは所蔵品の画像のみである。それ以外(各地での調査成果や寄託品など)の写真は、仏教美術資料研究センターで閲覧できるそうだ。門外不出の秘仏の写真もあったりするのかしら。要チェックである。
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理想郷の輪舞/近世初期風俗画(たばこと塩の博物館)

2008-12-04 21:31:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
○たばこと塩の博物館 開館30周年記念特別展『近世初期風俗画、躍動と快楽』(2008年10月25日~11月30日)

http://www.jti.co.jp/Culture/museum/WelcomeJ.html

 先週末で終わった展覧会だが、せっかく行ったので書いておこう。近世初期(16世紀末~17世紀中頃、慶長~寛文頃)風俗画の名品を集めた展覧会。多くは屏風絵である。近世初期というのは、とても面白い時代である、ということを、最近、感ずるようになった。図式的な理解かもしれないけれど、宗教的呪縛の中世から、政治的束縛の近世へ移行する間に、ぽっかり浮かんだ異次元空間のような伸びやかさががある。

 そのことを最も強く実感させるのが、風俗図屏風である。なんといっても人々が身にまとう衣装の、自由で大胆なデザイン。それから、ジェンダーの混乱。描かれた人々の性別は全く定かでない。男装した女芸人は少年に色目を遣い、観客の男女は誰に熱い視線を送っているのやら。

 もっとも、大勢の男女が群れ集う遊楽図は、この世ならぬ「理想世界」の表現である、という解説もあった。今日、風俗図と呼ばれるものが、本当に当時の風俗を表しているのかどうかは、慎重に考えなければならない。あでやかな小袖で輪舞に興ずる女性たちは、阿弥陀聖衆来迎図の変奏形かもしれないのだ。

 風俗図屏風を楽しむには、とにかく細部に目を凝らすことだ。路上の商売人は何を売っているか。お茶屋の前にしゃがんだ男は、財布を出そうとしているのかな?(四条河原遊楽図・個人蔵) 開いた扇を膝の前に置くのは、寺社参詣の作法だったようだ(江戸名所遊楽図など)。今と変わらない相撲や文楽興行の図もある。西尾市岩瀬文庫蔵『四条河原遊楽図』では、舞台上(左隻)に侏儒(こびと)がいる!

 中国やヨーロッパの宮廷ならともかく、日本にも芸能に携わる侏儒っていたのだろうか。調べてみたら、天武紀に「能く歌う男女及び侏儒伎人を選びて」貢上させたという記録があるそうだが、その伝統が近世初期まで永らえていたとは、びっくりである。こういう絵画史料って、実はもっとあるのかなあ。われわれ一般人の目に触れないだけで。

 また、本展は「たばこと塩の博物館」らしく、喫煙具や刻みたばこ売りの図像にも注意をうながす。肩にかつぐような長大なキセルは、階下の常設展示室に実物もあって、面白かった。

 開館30周年記念シリーズということで、来週から始まる特別展『おらんだの楽しみ方』にも期待が持てる。関連講演会も豪華ラインナップである。

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