見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

上田秋成の墓(西福寺)に参拝

2010-09-21 00:23:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
○西福寺(左京区南禅寺草川町)

 今年の夏、京都国立博物館の特別展観『没後200年記念 上田秋成』を見た。このとき、京都の西福寺に残る秋成の墓石(生前墓)の蟹形台座は、伊藤若冲が石峯寺で五百羅漢を彫った残りの石で作ったものと伝えられていることを知った。ネットで「西福寺」「秋成墓」を検索すると、なるほど、ハサミを閉じてうずくまるカニの姿らしき石の台座の写真を確認することができる。

 できれば墓参とともに、蟹の姿を確認してみたいと思い、今回、西福寺を訪ねた。西福寺は、南禅寺の山門に続く参道の北側にあり、門前に「上田秋成墓」の札が立っているのですぐ分かる。開け放たれた門は、勝手な出入りができないよう、柵で塞がれていた。ネットで読んだ墓参記には「ご住職の許可が必要」と書かれていたので、覚悟を決めて、インターホンを押す。来意を告げると、思ったより簡単に「お入りなさい」の声。

 木戸をくぐって門内に入ったものの、どちらに行ったらいいものか、きょろきょろしていると、本堂の格子戸がガラリと開いて、ご住職と思しき方が姿を見せ、「上がんなさい」とおっしゃる。え?私は墓参だけさせてもらえれば…と思ったのだが、「上がんなさい」とおっしゃるので、素直に靴を脱いで、本堂の中へ。ご住職は、座敷を横切り、反対側のガラス戸とカーテンを引き開けた。すると狭い内庭に、見覚えのある秋成の墓がただ一基。あ、こうなっているのか、と納得。

 縁側に「志納」と書かれた箱が置かれていたので、財布から数枚の硬貨を取り出してお納めする。「線香は自由にお使いなさい」と言われたので、隣りに用意された線香をいただき、ライターで火を付ける。サンダルを借りて内庭に下り、秋成の墓にお供えした。合掌しながらも、目は墓石の台座に釘付け。いや~大きいカニだなあ、と苦笑する。石碑を載せるカメならともかく、こんな墓石(台座)見たことがない。許可を得て、写真も撮らせていただいた。 

 今年の夏、秋成展を見たんです、というお話をしたら、あのとき博物館に出した秋成像もあるよ、とおっしゃって、見せていただいた。ただし、これは大正時代の複製。本物は修理に出してね、戻ってきたけど保存庫に仕舞ってあるの、とのこと。突然の来訪にもかかわらず、快く墓参を許してくれた話好きのご住職、ありがとうございました。



 ところで、この台座の由来は、秋成の「春雨梅花歌文巻」に記載されているということなので、先日、気になって本文を確認してきた。該当箇所を以下に記す(『上田秋成全集』第9巻から)。

けふは香花院の未開紅をとて来たれは、たゝ一日ふられて、色はさめにたりける。
  春雨のふりてし色にゝほふ梅うつろひやすき花にさりける
此木のもとにいかめしけにうすゝまりをるは、我なき跡のしるしの石なり。蟹のかたちしたる、是は昔の若仲と云し、法のみちに志ふかゝりし人の、深草山の石峰寺にすみて、阿羅漢五百種、涅はんの御かたちや何や、石にて作りおかれし、其残りのいはほめきたるにてつくりおかれしを、翁か無腸と云号なれはとて、人の運はせてたまひし也。僥幸と云から事の、我は世のさひはひ人なりける、山霧にむされて黒ミつき、苔も青〻とつきたりけり。……

 以下、この蟹石を絵に描き、賛を加えたものがあったが、難波に住んでいたときに人に奪われて失くしてしまった…というような話が続く(たぶん)。上述の「若仲と云し、法のみちに志ふかゝりし人」という表現は、あまり両者が親しかった様子を感じさせないと思うが、いかがだろうか。また、「人の運はせてたまひし也」だから、秋成が好んで貰ってきたのではなくて、少々世話焼きな仲介者がいたことも分かる。でも「いかめしけにうすゝまりをる」は、大きな蟹石にぴったりである。
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古書の掃き寄せ、古人の面影/落葉籠(森銑三)

2010-09-20 21:57:27 | 読んだもの(書籍)
○森銑三著、小出昌洋編『落葉籠』上・下(中公文庫) 中央公論新社 2009.5-6

  今年5月に天理ギャラリーで『秋成展』を見たあと、調べていたら「黌門客」というブログに行き当たって、本書に春雨物語の伝本についての記述があることを教えられた。森銑三さん(1895-1985)の高名はもちろんよく存じ上げているが、畏れ多くて、著作はひとつも読んだことがない。はじめ、森銑三さんか、図書館で著作集を探さないと駄目かな、と思った。よく見たら「中公文庫」とある。どうせ品切れ絶版だろう、と思って調べたら、2009年の刊行だという。やるなあ、中公文庫。普通の書店で簡単に手に入れることができた。

 本稿は、雑誌「古書通信」に昭和30年(1955)8月号より同41年(1966)8月号まで11年間にわたって連載された書誌学エッセイである。と言っても、固い話題が続くわけではない。数行から十数行の章段を最小単位とし、古書の一節、韻文や笑話や人物評などを紹介するとともに、著者の疑問や批評的コメントを付している。どこから読んでも面白い。上巻は近世以前の本(漢籍を含む)、下巻は明治以降の本と雑誌を話題にしていることが多いように思う。順不同に、たとえば、こんな話題。

・文禄年間に天草で刊行された「イソップ物語」の口語日本語が生彩に富んでいること。
・今でこそ誰でも読める「蕪村句集」だが、子規が俳諧研究に志した当時は閲覧が困難だったこと。
・フェノロサは写楽は好まなかったが、春信については「少年少女の小説的恋愛」を描かせたら世界的な名手と認めていたこと。
・シーボルトが、日本人の鍼灸医の手並みを見せてもらった後で「あなたも何かして見せてください」と求められ、「そこ許の腕を切って継いでみせましょうか」と戯れたこと。
・大町桂月が井上哲次郎を揶揄した歌のこと(確か、内田魯庵も井上哲次郎をからかっていたような)。
・「坊ッちゃん」は明治語で、明治の初年には東京でも「お坊さん」だったこと。
・光悦は清貧に甘んじ、二十歳の頃から八十歳で果てるまで小者一人、飯焚き一人と暮らしていたこと。一生諂い言を言わなかったこと。
・ある下女が「林大学頭」を「林大黒」という神様と聞き違えていたこと。

 画家についての記述も多くて、渡辺省亭が「応挙はもと不器用な人だったのであるが、修業であそこまで行ったのだ」と評しているのは肯ける。さらに「その反対なのは探幽で、探幽はもともと器用な人だったが、小成に甘んじないで、修業を重ねた」と語っているのは、一層味わい深い。

 笑い話の小ネタとして記憶に残るものもあれば、「写本で伝えられた随筆雑著には、江戸時代に公にすることのできなかった秘話が載せられている」とか「古活字版ばかりを有難がるのは間違い。近世中期以降の活字版にも出来のいいものや、伝本が少なく貴重なものがある」など、ノートにとどめておきたい書誌学的な知識もある。明治期の雑誌には、同時代の学者や文学者が答えた「私の好きな夏の料理」や「天才とは誰か」という類のアンケートが頻りに掲載されているが、こうした回答の短文は全集にも収録されていないのではないか、という指摘にも教えられた。こういう雑誌を丹念に読んでいくと、意外な発見があるかもしれない。

 下巻では、昭和38年(1963)から刊行の始まった『国書総目録』の誤謬が、ガンガン指摘されていて、びっくり。うわー。でも、こういう読者の存在が、本をつくる側を鍛えるのだろうなあ。同じく下巻で触れられている「西鶴輪講」には、必ずしも文学の専門家ではない、各界の「特殊な物識」がたくさん参加していたという。本来、一国の「情報(知識)基盤」とは、ブロードバンドの普及率とか電子的コンテンツの数量ではなく、こういう在野知識人層の厚さと広がりをいうのではないだろうか。

 ベストセラーは大衆に読ませておけばいい。自分は自分の好きな本を読む、とうそぶく著者の読書量には及びもつかないが、私も同じ道を細々とたどっていきたいと思う。
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円山応挙筆『七難七福図巻』を見た!/書画と工芸(承天閣美術館)

2010-09-19 23:53:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
承天閣美術館 館蔵の名品展『書画と工芸』(2010年7月3日~3月27日)

 承天閣美術館のサイトを見に行くと「現在の展示」として上記の情報が掲載されている。ところが、ちょっと潜っていくと、とんでもない情報に突き当たった。2010年9月18日~12月12日の日程で、「重要文化財 円山応挙筆『七難七福図巻』15メートルの絵巻3巻 全て一挙に大公開」の特別展示を行うというのだ。何!! この連休を、東京で過ごすか関西に行くか迷っていた私は、直ちに上洛を決めた。2日間の旅で、他にもいろいろ興味深いものを見てきたのだが、この一件は「特出し」で速報したいと思う。

 『七難七福図巻』の展示会場は第2室なので、行かれる方は、第1室を後にして、とりあえず第2室に直行することをお勧めする。「15メートルの絵巻3巻 全て一挙に大公開」ってホントかな?と半信半疑だったが、これは掛け値なし。福寿巻・人災巻・天災巻の3巻(紙本著色、完全公開)に加えて、それぞれの下絵(墨書)3巻も部分展示されている。その迫力は、言葉を失うくらい、すごい。応挙って、『藤花図屏風』みたいな耽美な作品をモノにするかと思えば、こんな血みどろの凄惨な絵も描けるのに、敢えて奇矯に走らず、「松に雪」とか「水辺の鶴」みたいな平々凡々とした作品を量産している。不思議なひとだ。以下、メモに基づき、各巻の構成を再現。

■福寿巻

・大家の門前で主人の帰りを待つ小者たち。祝宴のため、仕留めた雉が運びこまれる。
・門内。祝賀の使者が続々と到着し、門を潜る。
・庭先には満開の桜。玄関先に並べられた引出物(?)の山。烏帽子を直す公家の仕草がリアルだ。こういう何気ない日常的な所作って、古典的な絵巻には見られないので新鮮。
・婚礼の席。上席は舅と姑。次に控えるのが新郎か。新婦は分かりにくい。
・大僧正を迎えて花見の宴。奥座敷も宴席が続く。
・邸内の池で舟遊びする童子たち。
・忙しそうな厨房。食いもの多数。真剣に火を見つめる者、談笑に余念がない者など、働く人々の表情と性格を描き分けている。水桶を両手に提げた男はいかにも重たそう。
・年貢米を運び入れる百姓と検査役の役人。作柄がいいのか、牛の表情も明るい。

■人災巻(※残酷です)

・雪の日、商家に押し入った強盗団。主人と番頭は殺され、婦人は凌辱される。
・旅先で追い剝ぎにあった家族。文字どおり身ぐるみ剥がされる。
・心中(刺し違え)した男女遺体の検証
・水責めの拷問。寝かされ、縛られた罪人の口に柄杓で水を注ぎ入れる。
・切腹。まさに腹に刃を突き立てる直前、苦悶の表情。
・一家心中。松の枝には伸び切った首吊り遺体。
・火責め。やや幻想的で地獄の業火を見るよう。
・獄門。淡々と仕事を遂行する首切り役人。地面に転がる首なし死体からは大量の流血。
・磔刑。顔をそむけつつ、両脇から槍を突き刺す役人。ボタボタと流れ落ちる血。
・鋸引きの刑。肩から下は地中に埋められた罪人。執行役は、その両肩に当てたのこぎりを引く。流血。
・牛裂きの刑。柱に固定された罪人の足を2頭の牛に縛り付け、灸を据えて左右に疾走させる。一瞬にして三ツ裂きになる罪人の身体。

■天災巻

・地震。倒壊する家屋、こけつ転びつ逃げ惑う人々。丸々した応挙のイヌがコテッと転がっていて、思わず微笑(ほのぼのしちゃった)。
・大雨による洪水。最近の台風映像を思い出してしまった。
・火事。爆発するような炎の描きかたがすごい。
・大風(台風)。突然、視点を大きくズームアウトして、なぎ倒される家屋と人の姿を小さく描く。自然の猛威と人間の小ささが対照されているようだ。水上では、船首から波間に呑み込まれゆく船。
・雷。暗夜に走る雷光が、一転して幻想的。
・子どもが大鷹(?)にさらわれる図。
・人を襲う狼。人を見ていない目が却って怖い。
・人を襲う大蛇。ありえない巨大さ。

 以上のとおり、『七難七福図巻』というけれど、その内容は明確に「七つ」には数えられないものである。

■天災巻下絵(一部展示)

・台風。なぎ倒される家、沈む船を、完成版よりかなり大きく描いている。
・火事。左に猛火→燃え上がる家→逃げる人々→駆けつける火消し、という構成は完成版とほぼ同じ。すばやい描線で、人々の切迫した表情が、丁寧かつ生彩をもって描かれていることが、著色の完成版よりもよくわかる。

■人災巻下絵(一部展示)

・水責め。完成版では役人が柄杓で水をかけているが、下絵では垂れ流しの水道の下に罪人を置く。
・牛裂きの刑は、罪人の身体が柱に固定されていないので、2頭の牛によって真二つになる。完成版より大きめに描かれており、牛にもスピード感あり。
・獄門、磔刑、鋸引きの刑も少しずつ構図が異なる。いちばん大きい違いは、下絵のほうが、場面から次の場面への連続性を意識している点。完成版では、獄門以下は、孤立した1画面1画面を貼り継いだようにしか見えない。画家が嫌になったのか、表現を抑制せざるを得ない事情が起きたのか?

■七難七福図下絵(一部展示)

・早い時期の下絵か。初期の構想では「七難七福」を数え挙げようとしていたことが分かる。
・「一 地震」「二 洪水」「三 大火」は完成版の構図に近い。
・「第五(?)盗賊」はまだ全体の構図が決まらないのか、2~3人ずつの部分デッサンを多数並べている。
・「七福」は各場面の初めに番号のみ。( )内に仮に場面名を付記した。「一(門前)」「二(庭)」「三(宴)」「四(礼物)」「五(厨房)」。

 蛇足ながら『七難七福図巻』は、三井寺の円満院住職の依頼により、四年の歳月をかけて描いたもの。「応挙36才。渾身の超大作」というのも嘘ではない。会場の解説パネルに、応挙はこれらのシーンを全て実際に見た上で描いたのではないか、とあった。いや、大蛇はないだろう、と思うのだけど、拷問とか処刑は取材しているかもしれないなあ。怖い画家である。

 なお、同作品は、萬野(まんの)美術館の旧蔵品である。2004年に萬野美術館が閉館するに当たり、承天閣美術館に寄贈されたそうだ。このところ、若冲一本で売ってきた感のある承天閣美術館だが、こんなすごい作品も持っていたのね。これからも時々見せてほしい。

 私のいる間に、小学生くらいの女の子と、もっと小さな男の子を含む家族連れが展示室に入ってきたので、ええ~この作品って、少なくともR-15指定じゃないか?と思って慌てたが、よく見たら、狂言の和泉宗家の皆さんだった(和泉節子さんを含む)。まあ、伝統芸能にかかわるご家族ならいいか、と思ったが、小さな男の子は「人災の巻」を本気で怖がっていた。そりゃあそうだな。子ども連れの観覧はお勧めしない。あと、順路を示す「→」が左から右になっているのは、何か意味があるのだろうか。ふつう、絵巻は「←」でしょう…。
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お爺ちゃんのわび・さび好み/保守の遺言(中曽根康弘)

2010-09-17 23:46:09 | 読んだもの(書籍)
○中曽根康弘『保守の遺言』(角川Oneテーマ21) 角川書店 2010,5

 私は中曽根康弘という政治家が好きだったことは一度もない。にもかかわらず、何を血迷って本書を読もうと思ったか。

 中曽根のライフワークは憲法改正であり、「日本列島=不沈空母」発言をし(ただし発端は誤訳だったことを本書の中で述べている)、「防衛費1%枠」を撤廃して防衛力増強をはかり、靖国神社に公式参拝し、愛国心を強調して教育基本法改正に意欲を見せた。この中に私の共感できる材料はひとつもない。中曽根が首相だった1980年代、当時20代の私は、嫌なジジイだと思って彼をみていた。

 それから時が過ぎて、新自由主義とポピュリズムが結びついた小泉政権下で、長老・中曽根は引退を勧告された。いまどき、中曽根の「老いの繰言」を真面目に聞いてみようとする若手政治家は、自民党内にも多くないだろうと思われる。そうなると、アマノジャクな私は、敢えて今さらこんな本と言われそうな本書を読んでみることにした。

 結果は…まあ、やっぱり駄目なものは駄目だ。アメリカに依存しない、真に独立自存の日本をつくろうとした情熱は分かる。そのためには、自前の軍備が必要だという主張もスジが通っている。また、実はアジア重視の外交ビジョンを持っていたこともよく分かった。特に中韓と良好な関係を保つことの重要性はよく理解していて、自分の靖国神社参拝によって、中国の胡錦濤氏が窮地に立たされていることを知ると、すぐに参拝を中止したという。彼の場合、「公式参拝した」イメージが強すぎて、「中止した」決断が忘れられているのは残念なことだ。

 それから、首相は自国の歴史を学び、伝統と文化を体現している必要がある、という主張にも賛成する。しかしなあ、その結果が「わび、さび、もののあはれ」と「天皇」だというところが私にはガッカリなのだ。そういう日本史観・日本文化論が、決して普遍的・客観的なものではなくて、特定の時代思潮の影響を受けた「流行」に過ぎない、という反省を、なぜ持てないかなあ、と思う。自戒として、老いて一時代の「流行」に囚われないためには、若い頃から何でも博く学んでおくことだと思った。
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茶碗、茶入、茶掛け/茶道具の精華(五島美術館)

2010-09-16 23:20:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 開館50周年記念名品展IV『茶道具の精華』(2010年8月28日~10月24日)

 名品展シリーズの第4弾。茶道具コレクションは五島美術館の「精髄」と言っていいと思うが、当然というか、第3弾の『陶芸の美』(2010年6月26日~8月8日)とかぶるものが多いのが、ちょっと興ざめする。会場に入ってすぐ、鼠志野茶碗「銘・峯紅葉」と古伊賀水指「銘・破袋(やれぶくろ)」が、それぞれ個別ケースに収められているのは、6月に来たときのまま。信楽一重口水指「銘・若緑」は、前回は壁際の展示ケースだったが、今回は平型ケースで、真上から覗き込む体勢にならざるを得ないのが、何か妙だった。

 眼福は、やはり赤黒楽茶碗。光悦の赤楽茶碗「十王」かわいいなー。赤くて丸くて(茶碗としてはかなり深い)つるっとしている。長次郎の赤楽茶碗のうち、「夕暮」は何度も見ているが「湖月」はめずらしかった。しかし、カタログに☆(注目)印だけ付けてきたのに、思い出そうとすると、その姿が浮かばない。五島美術館のサイトに「十王」「夕暮」は写真が載っているのに…。ま、いいか。茶椀に比べて、茶入の美しさは、いまひとつ分からないのだが、唐物茄子茶入「銘・宗伍茄子」はいいと思った。大ぶりで掌になじみそうな感じが楽茶碗っぽい。撫でまわしてみたい。

 書(茶掛け)では、千利休消息「横雲の文」。秘蔵の茶壺「橋立」を秀吉が取りに来るという噂を聞いて、大徳寺珠光院の住持あてに書いた手紙だという。緊迫した状況なのに、行間が広く、どこかゆったりして、几帳面な筆跡に感じられる。和歌は「よこ雲のかすみわたれるむらさきの ふみととろかすあまのはしたて」。「踏み轟かす」に、無粋な田舎者の秀吉の姿が浮かぶように思う。無準師範の墨跡「茶入」には笑ってしまった。禅寺内で茶の接待をする役目、または場所を示すそうだが、何かの折、実用的な用途で書かれた書を、気に入った誰かが取っておいたのだろうか。今日まで伝わった経緯を想像すると、可笑しい。

 9/28より後期展示替え。
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生活密着アート/世界の更紗(文化学園服飾博物館)

2010-09-14 23:20:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
文化学園服飾博物館 『世界の更紗』(2010年7月6日~9月25日)

 更紗とは、「主に木綿布に手描きや型を使って文様を表したもの」を指す。インドを起源とし、16~17世紀の大航海時代に世界各地に広まった。本展では、インド、東南アジアをはじめ、ヨーロッパやロシア、アフリカなどのさまざまな更紗を紹介する。

 展示室1では、緻密な模様、金をあしらった豪華なジャワ更紗(バティック)に見とれる。中国で印花と呼ばれる更紗は藍染めが基本。陶磁器の青花好みに通じていて面白い。日本でも、鍋島更紗、天草更紗などと呼ばれる和更紗が試みられた。インドやジャワの更紗のような鮮やかな発色はないが、独特の渋味を好む人もいるという。なるほど。ものは言いよう。

 展示室2は、ヨーロッパの更紗を紹介。ヨーロッパでも中世以来、木版型染めが用いられてきたが、文様が単純で、発色も鈍く、堅牢性も低かった。17世紀以降、東インド会社交易により、インドの更紗がもたらされると、圧倒的な人気を博し、イギリスやフランス政府は、輸入の不均衡是正と本国の産業保護のため、更紗の輸入制限を設けなければならなかった。ヨーロッパって、ほんとに何も持たない文明後進地帯だったんだなあ、としみじみ…。

 しかし、19世紀初め、イギリスは銅板ローラーを用いた更紗の生産に成功すると、19世紀後半には、アメリカやヨーロッパ諸国に輸出するようになり、インドの更紗産業に大打撃を与える。アジアに学んだヨーロッパという点で、磁器をめぐる技術移植にも似ている。打撃を与えられたインドの状況はしばらく措き、イギリス国内では、鮮やかな銅板プリントの更紗が廉価で出回るようになったものの、大量生産品は独創性に欠け、その反動として、リバティ商会やウィリアム・モリスによるテキスタイル・アートが呼び覚まされる。これは意外な「因果関係」の指摘だった。

 日本では、室町~近世初期の茶人たちが更紗を珍重したことはよく知られている。三井家伝来の更紗帯は、数種類の更紗をパッチワークにしたもので、大胆なデザイン感覚に感心する。後ろ身頃に菖蒲(あやめ)の絵を配し、まわりを更紗のパッチワークで囲んだ着物も伝来しているらしいが、これは写真のみ展示。あと、更紗屏風というのは、更紗の端切れを貼り付けたもの…と思ったら、更紗の模様を描いた木綿を貼り付けてあった。こんな偏執狂的なことをするのは誰?と思ったら、円山応瑞の署名があり、父(応挙)の筆と極めていた。

 アフリカの更紗(アフリカン・プリント)は、ジャワ更紗の精緻な文様とは全く逆を行くものだが、思わず微笑みを誘われる、おおらかな味わいが好ましかった。更紗をめぐる「世界史」、奥が深そうである。

※参考:更紗今昔物語(みんぱく、2006年):今さらだけど、見逃して残念。
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「公共」をめぐるてんやわんや/映画・ようこそ、アムステルダム国立美術館へ

2010-09-13 23:55:53 | 見たもの(Webサイト・TV)
○ウケ・ホーヘンダイク監督 映画『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』(ユーロスペース)

 めったにないテーマの映画なので、一部では極端に盛り上がっている(?)気がする。オランダのアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam, 国立博物館とも)で、2004年、大規模改修プロジェクトが始まった。コンペの結果、スペインの建築家コンビの改修プランが採択されたが、これまで市民に開放されていた「通り抜け」通路が狭くなることについて、市民団体から反対の声が上がり、プラン変更を余儀なくされる。さらに、研究センターの規模をめぐって、教育文化科学省からも横槍が。

 度重なる変更要請に、怒りを抑えきれない建築家。調整に苦慮する館長。一方、新美術館で始まる展示に夢を描く学芸員たち。静かに日々の仕事を積み重ねる修復家、装飾家。孤高のポジションを貫く警備員。ようやく建築許可が下りるが、入札の結果、業者は1社しか現れず、見込みよりかなり高い金額に。2008年新春、ドナルド・デ・レーウ館長は退任を発表。同年秋、館長のお別れパーティを以って映画は終わるが、改修プロジェクトは、まだ終わらない…。

 映画はドキュメンタリーを標榜している。しかし、何だろう、この違和感。撮り方が巧すぎるし、登場人物がカッコよすぎる。再現フィルムは含んでいないの? (ジャ・ジャンクー監督の『四川のうた』みたいに)プロの俳優さんは混じっていないの? あと、ちょっと不思議だったのは、美術館の「取り壊し」映像から始まるのに、あとから入札と施工業者の決定が描かれていたこと。解体工事と新築工事は別件だから、後者の入札前に前者が始まっていてもおかしくないのかなあ?

 疑り深い私は、アムステルダム国立美術館の改修に関する、信頼できる情報を集めてみようと試みた。しかし、日本語で検索すると、ほとんどこの映画の「あらすじ」の引き写し情報しかヒットしない。駄目だなあ。そこで英語で検索をかけてみると、本家・アムステルダム国立美術館の公式サイト(英語版※音が出ます)がヒットした。左下に「renovation(改修)」というメニューがある。これは映画が面白かったと思う人には必見のアーカイブだ。

 「Progress and timeline of the renovation」によって、改修プロジェクトの沿革を整理することができ、映画の中でも使われていた完成予想図のアニメーション、外観(exterior)と内装(interior)を見ることもできる(ダウンロードすると、かなり重いけど)。楽しいのは「Renovation special(Watch video interviews on renovation)」のページ。関係者20人以上のインタビュー映像(ただし、オランダ語)が掲載されており、その中には、映画に登場した警備員のレオさんもいる。よくできたサイトだなあ。

 トップページに戻って、別メニューの「News」からアーカイブをたどると、2007年には「ドナルド・デ・レーウ館長、2008年に退任」の記事があり、2008年には「ヴィム・パイベス新館長」の記事も。もちろん顔写真付き。おお、その下にイケメン学芸員のタコ・ディビッツ氏の写真もある。あまりによくできたフィルムだったので、「作品」と「現実」が混乱してしまう。いや、ドキュメンタリーなのだから、作品=現実であっていいのだが、あえて「混乱」と呼びたいほど、登場人物の個性が際立ち、演技(?)が冴えているのである。

 私が身悶えして笑ったのは、長引く美術館の休館について、教育文化科学省の責任を追及する各党議員の声の調子が、こういうときの日本の政党政治家と瓜二つだったこと。自分は「政治的正しさ」にのっとっていると信じ(または、信じていると見せかけ)相手を糾弾する人間って、おんなじ喋り方になるんだなあと思った。ついでに、対応に困っている大臣の目の泳ぎ方も、日本の役人にそっくりだと思った。

 市民のための「改修プラン変更」を勝ち取ったサイクリスト協会代表の満足気な表情も、日本のどこかで見たことがある。うんざり顔の建築家は、市民団体の強硬ぶりを非難して「これは民主主義の悪用だよ」とつぶやく。制作者は、ひそかに建築家に共感を寄せているように感じるのは、私の欲目だろうか。直観的だが、いかにもオランダらしい(リベラルすぎ、議論が多すぎて無駄も多い)という感じもした。

 それから、ドナルド・デ・レーウ館長。経歴を読むと、美術館のファンド獲得に大きな功績があり、経営者として「やり手」だったと分かるが、映画の中では、さまざまな利害関係者の間に立って、苦悩する姿が中心に描かれており、こういう役職(官僚組織のトップ)に求められるリーダーシップって何なんだろうなあ、と考えてしまう。

 私は、美術館の経営にかかわったことはないが、類似の公共組織で働く者として、たぶん一般の視聴者以上に、この映画の可笑しさを味わえたように思う。続編も撮影されているらしいので、楽しみ。

アムステルダム国立美術館見学の記(2008/3/15)
オランダ出張の折、空き時間に訪ねた。正面玄関は工事中で、ぐるりと歩かされて、仮設の入口から入った記憶がある。このとき、既にデ・レーウ館長は退任を発表し、後任待ちだったのね。

オランダのプラステルク教育文化科学相が来日(2009/10/27)
長引く閉館の責任を追及されて目が泳いでいたのは、このひと。

産経ニュース:メンノ・フィツキ学芸員インタビュー(2010/8/20)
新しいアジア館での展示のため、日本で金剛力士(仁王)像を買いつけ、到着に目を輝かせていた"仏像男子"はこのひと。デ・レーウ館長の退任を聞いたときは、ライデン大学で読書に専念して、ショックを乗り切った、と答えていたのが印象的だった。たばこと塩の博物館で行われていた『阿蘭陀とNippon』展の関係でも来日されていたようだ。

建築家、クルス&オルティス(Cruz y Ortiz)(スペイン語Wiki)
スペインの公共建築(駅、スタジアム、図書館等)を多数設計。

映画公式サイト(音が出ます)
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ほのぼの系から血みどろ絵まで/諸国畸人伝(板橋区立美術館)

2010-09-11 20:18:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
板橋区立美術館 江戸文化シリーズNo.26『諸国畸人伝』(2010年9月4日~10月11日)

 18世紀後半から19世紀前半、既存の流派にとらわれず、個性的な絵を描いた画家10人を紹介。中央で紹介される機会が少なく、あまり知られていない絵師もいることから、展覧会のタイトルは「諸国畸人伝」。巧いなあ、伴蒿蹊の随筆『近世畸人伝』および石川淳の『諸国畸人伝』にトリビュートすることで、取り上げられた画家の範型(畸人)が、だいたいどういう人々か、想像がつくようになっている。「絵師10人、驚愕の不協和音」というキャッチコピーも上出来々々々。

 さて、その10人についてコメント。

■菅井梅関(すがいばいかん、1784-1844、仙台)

 『鵞鳥図』だけは見た記憶がある。府中市美術館の『動物絵画の100年』(2007年)に出ているので、そのときではないかと思う。2点の『虎図』がどちらも気に入ってしまった。1点は大きな口をあけて、にやりと笑っているように見える。もう1点、天を仰ぐ横顔の虎はどこか悲しげ。カタログの解説によれば、画家の晩年は不遇だったそうで、61歳のとき、自ら井戸に身を投じたという。「仙台地方では、目出たい席では梅関の絵を掛けないといわれている」と読んで粛然とした。

■林十江(はやしじっこう、1777-1813、水戸)

 ここ、板橋区立美術館で覚えた画家のひとり。絵は独創的で面白いけど、ぎすぎすした苛立ちを感じさせる『龍図』を見ていると、あまり画家本人とは会いたくない感じがする。『十二支図巻』は、ほのぼのしていてよい。図録には全十二図、写真ありで嬉しい!! 私の好みは羊図。

■佐竹蓬平(さたけほうへい、1750-1807、伊那)

 このひとも板橋区立美術館で覚えた画家。巧く描こうという作為には無頓着な感じで、人柄が慕わしい。このひとには会ってみたい。

■加藤信清(かとうのぶきよ、1734-1810、江戸)

 文字絵(経文で描く仏画)という特異なジャンルに特化した画家。その高度な技術は、部分拡大写真で。拡大写真がないと文字絵だと気づかないくらい、絵画としての完成度が高いのがすごい。私は藤沢の遊行寺で作品を見た記憶があるが、あれも文字絵だったんだろうな。京都の相国寺にも作品があるんだな。

■狩野一信(かのうかずのぶ、1816-1863、江戸)

 あ、やっぱり来ましたね、狩野一信。今回は、増上寺の五百羅漢図(全100幅)から、選りすぐりの優品3点を展示。気がつけば、江戸東京博物館の『五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画』展(2011年3月15日~5月29日)も近づいてきた。ふふふ、楽しみ。

■白隠(はくいん、1685-1768、駿河)

 白隠は、本展で取り上げずとも、もう全国区と考えていいんじゃないかなあ。『蓮池観音図』のアンニュイな観音さんがうるわしかったが、画中に「誰道度生願海深/人縁絶処来愉閑」とあるのは「こんな人里離れたところで骨休めしているんじゃない、もっと人間界に降りていって人を救え」と叱咤する意味だ、と解説されていて面白かった(誰か道(い)う、度生(としょう)の願、海のごとく深しと/人縁絶ゆる処に来たりて閑を愉しむ?)。白隠は観音さまを叱咤するとともに、一般の僧侶たち、もしくは自分自身を叱咤しているのかも。

■曽我蕭白(そがしょうはく、1730-1781、京都)

 いや蕭白も全国区でしょう。「畸人」であることは間違いないにしても。

■祇園井特(ぎおんせいとく、1755-没年不詳、京都)

 文化の爛熟を感じさせる「デロリ」系。春画を描いていたという噂もあるそうだが、この画家の春画は怖そうだ。

■中村芳中(なかむらほうちゅう、不詳-1819、大坂)

 こちらは、植物も動物もまんまるくデザインしてしまう「癒し系」。

■絵金(えきん、1812-1876、土佐)

 おおお、「土佐の絵金」の作品が東京で見られるなんて、思ってもみなかった! 展覧会サイトで知ったときは、思わず息が荒くなった。会場には『播州皿屋敷 鉄山下屋敷』『伊達競阿国戯場 累』『浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森』『銘木先代萩 御殿』の4点が出品されている。これもいいセレクションだ。個人的には「絵金が見られる!」って、もうちょっとアピールしてほしいと思うのが、血みどろ絵では、そうはいかないのかしら(美術館サイトにも作品写真なし)。会場のパネルによれば、NHK『龍馬伝』に出てきた河田小龍は、絵金の弟分である由。10人の絵師の中で、絵金だけは作品に落款も署名もないんだなあ、と思った(芝居絵だから)。しかし絵金は、やっぱり祭りの夜に野外で見るのがいちばん。また赤岡に行きたい。涙が出るほど行きたい。

絵金まつりの夜:その1~絵金蔵(2007/7/23)
絵金まつりの夜:その2(2007/7/24)

 余談。この美術館周辺は食事をするところが何もない、と思っていたが、最近、南側に蕎麦の「ひびき庵」を見つけた。こだわりの蕎麦屋なので、時間がかかるし、値段も張るが、それなりに美味しい。時間に余裕のあるときはおすすめ。
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高野山カフェin丸の内ハウス

2010-09-10 22:21:57 | なごみ写真帖
期間限定イベント「高野山カフェin丸の内ハウス」(2010年9月1日~12日)に友人と行ってきた。昨年と一昨年、青山や神宮前で行われたイベントの記事に比べると、フロア装飾にはあまり力が入っていなくて(写真、パネル中心)ちょっと期待外れ。

でも高野山からいらした(?)お坊さんと、お話させていただきました。さまざまな宣伝広告の中で、ダントツに私たちの目を引いたのは、『(予告)空海と密教美術展』(東京国立博物館、2011年7月2日~9月25日)というチラシ。金剛峯寺所蔵の『両界曼荼羅(血曼荼羅)』の写真が載っていて、若いお坊さんが「(この展覧会)すごいんですよ、僕、高野山にいても本物は見たことないです」と興奮気味におっしゃっていた。さらに、東寺(教王護国寺)の金剛業菩薩、大威徳明王、持国天、帝釈天(!)の写真も。来年の夏は、東博がすごいことになりそうである。

食事は自由ヶ丘グリルの精進コース。



ついでなので、掲載しそびれていた高野山ろうそく祭り(2010年8月13日)の写真から。



↓武田信玄・勝頼墓


↓上杉謙信廟


↓陸奥宗光墓(まだ小物扱いで、何の看板もなし)


高野山へは、また行きたい。でも来夏は、霊宝館の名品は、全て東京に来ちゃうんでしょうか?ってお坊さんに聞いたら、「その分、ふだん蔵の中に入っているものを展示します」と自信たっぷりにおっしゃっていた。それはそれで見に行きたいものだ。
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岩崎家のコレクション/三菱が夢見た美術館(三菱一号館美術館)

2010-09-09 23:54:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三菱一号館美術館 『三菱が夢見た美術館-岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』(2010年8月24日~11月3日)

 建物の話から始めたい。

 本年4月に開館した同美術館が次第に姿を現し始めた頃、たまたま周辺を通りかかり、見慣れぬ風景の出現にびっくりした記憶がある。2009年4月竣工というから、2008年の晩秋くらいの出来事だったろうか。同館は、1894(明治27)年、三菱が建設した日本初の洋風事務所建築である。老朽化のため、1968(昭和43)年に解体されたが、このたび40年余りの時を経て、原設計に忠実に復元された。すごい。「保存」や「補修」ではなく「復元」というところがミソ。「創建当時と同じ約230万個の赤煉瓦を積み上げるなどして」と書かれたサイトもあった。

 気になって、復元前の姿をネットで探したら、次のような写真が出てきた。

デジカメ散歩・ブログ版(2004年12月20日)
取り壊し前の三菱商事ビル・古河ビル・丸の内八重洲ビル。そうそう、私のなじみの丸の内風景はこれ。

デジカメ散歩:丸の内界隈建築散歩(2005年)
三菱一号館の復元に伴い、取り壊しの決まった「丸の内八重洲ビル」の写真多数。これもいい建築だったのに残念…と思ったら↓

夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所(2009年5月16日)
かろうじて残ったみたい。よかった。

ケンプラッツ建築・住宅(2008年3月11日)
工事の始まっている施工現場。

※参考:織部製陶「三菱一号館復元プロジェクト」
明治煉瓦の復元について。

 さて、本展は、三菱&岩崎家ゆかりの静嘉堂、東洋文庫所蔵の名品、さらに三菱系企業と個人所蔵の作品を紹介するもの。個人的には、第1室の山本芳翠描く「十二支」シリーズの3点『丑(牽牛星)』『午(殿中幼君の春駒)』『戌(祇王)』に魂を抜かれてしまった。「三菱重工所蔵」って、えええ、どういうこと?と思って、図録を買って読んでみたら、芳翠の親友の海軍造船士官・若山鉉吉の妻が後藤象二郎の三女で、岩崎弥之助(弥太郎の弟)と姻戚関係にあったという。なるほど。黒田清輝の『裸体女人像』(1901年)は、”警察が下半身を布で覆った”というエピソードをすぐに思い出したが、この迫力ある裸体画が静嘉堂にあるって、不思議だなあ。

 その静嘉堂からは、曜変天目茶碗のほか、重文「徒然草」写本や慶長勅版「日本書紀」など和漢の見慣れた典籍が出品されていた。唯一、おや見慣れない、と思ったのは、あまりうまくない岩崎弥太郎の一行書。「東山散人」と署名されている。

 東洋文庫の所蔵品は、あまり見たことがないので興味深かった。笑ったのは、土佐海援隊蔵板の『和英通韻以呂波便覧』で、封面(だっけ?)に「蟹行字(※横文字の意)阿蘭陀人書」ってあるけど、これって目録に取るのかな(と首を傾げたが、NACSIS Webcatで検索したら、みんな、ちゃんと取っている)。アムステルダム版『ターヘル・アナトミア』は、日本語版『解体新書』を何度も見たことがあるのに比べて、めずらしかった。蔵書印が「藤井」と読めたので、誰かと思ったら、医学史家・藤井尚久の旧蔵本だという。展示キャプションには、こうした解説がないので、カタログを買わざるを得なかった。

 こうした典籍や工芸品、日本絵画に比べて残念なのは、岩崎家が所蔵していた西洋絵画コレクションは、関東大震災や東京大空襲で被災、失われた可能性が高いということ。残念である。カタログや写真類から、これこそ「復元」できないものだろうかね。
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