見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

かわいいお茶会/もてなす悦び展(三菱一号館美術館)

2011-07-10 10:49:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三菱一号館美術館 『もてなす悦び-ジャポニスムのうつわで愉しむお茶会』展(2011年6月14日~8月21日)

 19世紀後半、欧米社会を席巻したジャポニズムを紹介する展覧会。ただし、高名な芸術家に与えた影響ではなく、新興富裕層のめざましい台頭を背景に、人々の暮らしに深く入り込んだ「日常的な品々」を彩ったジャポニズムに注目する。会場を歩きながら、なるほど、こういう視点もありか、とちょっと感銘を受けた。

 銀器、ガラス器、布・服飾品など、さまざまなジャンルの工芸品(工場製品と呼ぶべきかな)が登場するが、最もバラエティ豊かなのは、何といっても磁器である。17~18世紀、日本の柿右衛門や古伊万里が、ヨーロッパの王侯貴族に熱狂的に迎えられ、多くの「写し」が生産されたことは、これまで、いくつかの展覧会で学んできた(→たとえば、出光美術館の『陶磁の東西交流』展)。19世紀後半には、この「写し」が、めざましい進化と発展を遂げている。

 いま、図録を眺めながら書いているのだが、たとえば、34-35頁の「ロイヤルウースター社 伊万里写ティーセット」。確かに、紺地に金の線描と、白地を埋め尽くす勢いの赤い菊花+緑の葉、この色選び、デザイン感覚の「基本」は、よく見れば古伊万里の金襴手である。けれども、金色の花芯が大きくなって、もはや別の花に見える菊花(さらに茎を失い、イソギンチャク状に見える)とか、色彩のバランス、日本の磁器にはあり得ない、風船のようなティーポットの形状など、もはや完全に「別物」だと思う。

 私は、けなしているのではない。これはこれで、とても魅力的だと思う。36-37頁を見ると、はじめに日本製の古伊万里皿があらわれる。次に、それを完璧に「コピー」した、18世紀、ウースター窯(イギリス)の古伊万里写し(ここに至るまでに、無数の「へぼコピー」があって、それはそれで、面白いのであるが)。そのあと、彼らは、完璧にわがものにした古伊万里のデザインを、自分の(欧米の顧客の)好みにあわせて、改変していく。あるいは明るくポップに、あるいはシックに…。

 目を奪われるのは、52頁から始まるティーカップ&ソーサーのコレクション。これは、展覧会でも、広い会場にずらりと並んだ姿が圧巻だったが、細部を鑑賞するには、写真のほうがいい。日本の磁器にはありえない、蛍光色に近いピンクやブルー、あるいは淡いピンクの地に描かれた愛らしい花鳥。確かに、梅、桜、菊、紅葉など、もとは「日本のデザイン」だったと言われれば、え、そうなの、とは思うけれど、そもそも今の日本人の多くが、古伊万里の色彩感覚(紺・赤・金)を忘れている状態では、ふるさと帰りというより、突如あらわれた、かわいいものの集合体、という感じがする。

 この無国籍な「かわいいもの」が大量に生み出された背景には、女性の関与(嗜好)があるんじゃないか、と直感的に思った。イギリスのアフタヌーンティーって、女性によって担われた慣習ではなかったか。いま思い出そうとしているのは、井野瀬久美恵著『大英帝国という経験』だが、Wikiにも「女性向けの社交の場」として始まったと書いてある。

 本展の中核をなすディヴィー・コレクションは、ニューヨーク在住のジョン&ミヨコ・ディヴィー夫妻が蒐集したもので、2008年から三菱一号館美術館に寄託されており、本年、購入によって、正式に同館の所蔵品になったものだという。「質は高いとはいえ必ずしも一品制作の注文品などではなく、普通に市販されていた、一般市民でも十分入手可能だった製品なのである」と図録の解説にいう。職人たちによって生み出され、一般市民の日常生活をいろどり、とある市民夫妻の関心によって蒐集され、このたび美術館入りした品々。どこにも「芸術家」が介在した形跡のないコレクションだけど(だからこそ?)、見る者の胸をときめかせる魅力がある。解説不要で「だってかわいいんだもん!」みたいな。長く愛されてほしいと思う。

 実際の食卓を使い、展示品を組み合わせたテーブルセッティングの展示もおもしろかったが、やっぱり、あのカップ&ソーサーでお茶を飲んでみたいと思った。駄目かなあ。
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そうだ、江戸へ行こう/JIN-仁- 完全シナリオ&ドキュメントブック

2011-07-08 23:32:25 | 読んだもの(書籍)
○TVガイド特別編集『JIN-仁- 完全シナリオ&ドキュメントブック』(TOKYO NEWS MOOK) 東京ニュース通信社 2011.7

 ドラマ『JIN-仁-』第1シリーズ全11話、第2シリーズ全11話のシナリオを完全収録。各話の冒頭には、演出家のコメント付き。読みどころは、プロデューサー石丸彰彦氏と、脚本家、森下佳子氏へのロングインタビュー。

 特に石丸彰彦氏へのインタビューは面白くて、ああ、このひとがいなかったら、このドラマは生まれなかったんだな、ということがよく分かった。作品をつくるきっかけとなったのは、江戸時代の写真を探していて、たまたま、ある本で、順天堂大学(の位置)から見た神田川の写真を見つけたことだという。あの場所に誰かが立って、あの風景を写真に撮らなかったら、ドラマ『JIN-仁-』は全く違うものになっていただろう。そのくらい「奇跡」の出会いだった、という発言を読みながら、実は、石丸さん自身が江戸にタイムスリップして、その写真を現代に送り届けたんじゃないか、と妄想してしまった。

 石丸さんは、本当に歴史好きなんだな。実証的な研究対象としての歴史好きではなく、もっと生身の、歴史ドラマ好きというか、歴史小説好きというか…。「そうだ、江戸へ行こう」と思えるドラマにしたかった、という表現は分かりやすい。実際、そのとおりのドラマだったと思う。

 「今の自分が生きているのは、間違いなく『誰か』のおかげなんだってことは、本気で感じています」という発言も、感慨深く受け止めた。私は、あのドラマを見て、亡き祖母のことが思い出されて、いくらなんでも、これは私の想像の飛躍だろう、と思っていたのだが、石丸プロデューサーが「『JIN-仁-』が終わったら、おじいちゃんの墓参りに行こうかなと思ってます」というのを読んで、ああ、私の「読解」は、制作者の趣旨を大きく外れたものではなかったんだ、と思った。

 森下佳子さんのインタビューでは、内野聖陽さんが「龍馬」という役を自分のモノにしてしまったことを「あえて例えれば、ケーキを先に食べられてしまったような」と表現しているのが面白かった。「役づくり」って、脚本家と俳優さんの共同作業ではあるけれど、主導権争いの一面もあるんだろうな。

 私は『JIN-仁-』を録画していないのだが、記憶による限り、放送で流れたドラマと、この「完全シナリオ」には、ほとんど差がないように思う。差がないことが気にかかる。

 実は、5月に『大河ドラマ50の歴史展』(日本橋高島屋、2011年5月11日~30日)を見てきた。このとき、故・緒形拳さんが使った『風林火山』の台本が展示されていたのだが、活字の台本が跡形もなくなるまで、緒形さんの筆で修正が加えられていたのである。時間配分とか、いろいろ理由はあるのだろうけど…。一般にテレビドラマというのは、あんなふうに現場で、脚本家の書いた台本に改変を加えながら撮影するものなのか、私にはよく分からない。

 それにしても、本書の、放映版との一致ぶりを見ると、これは森下佳子氏が書いた「台本」ではなくて、放映されたドラマ(編集済みビデオ)から起こした「完全シナリオ」なんじゃないかと思う。本書の中に、江戸の地図を表紙にした、各話の「台本」らしきものを積み重ねた写真があるが、こっちの本こそ読んでみたい。
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ふたりの歴史家/『史記』と『漢書』(大木康)

2011-07-07 21:34:21 | 読んだもの(書籍)
○大木康『「史記」と「漢書」:中国文化のバロメーター』(書物誕生:あたらしい古典入門) 岩波書店 2008.11

 先日、同じ著者の『現代語訳 史記』(ちくま新書)を読んで、本書の存在を知った。「後世に大きな影響を与えた点で、いずれもひけをとらない『史記』と『漢書』」というのは、本書のカバー折目に掲載された内容紹介である。へえ、中国文学の専門家の見方は、そうなんだ!

 前漢の中頃、紀元前97年に司馬遷によって完成された『史記』と、後漢のはじめ、紀元後80年頃に完成した班固の『漢書』。その評価は、時代によって変化してきた。後漢から六朝、唐初(門閥貴族=駢儷文の時代)にかけては、あきらかに『漢書』が優勢だったが、中唐の韓愈、柳宋元は『史記』を讃えた(科挙官僚=古文復興の時代)。宋~明代も『史記』がもてはやされたが、清代に入ると、再び『漢書』が好まれる傾向が生まれた。以上が、中国における、おおまかな『史記』『漢書』の読書史である。

 『日本国見在書目録』によれば、9世紀末の日本では、中国(唐初まで)の状況を反映して「『漢書』の方が少しばかり多い」のだそうだ。意外! 紫式部が『史記』を覚えてしまったとか、『源氏物語』賢木に『史記』の引用があるとか、なんとなく、古来、日本人は『史記』びいきの印象があったもので。江戸時代は、明代文化の影響が強く、『史記』のテキストが、より多く出版された。明治以降も、引き続き『史記』のほうが読まれた。私が受けた「漢文」教育でも『史記』は教科書の定番だったが、『漢書』を読んだ記憶はない。ちなみに中島敦『李陵』も、現代文教材の定番だったと思う。

 班固は、『漢書』司馬遷伝において、司馬遷が「明哲保身」を貫けなかったことを惜しんでいる。「明哲保身」とは、『詩経』において賢人の生き方とされるもの。つまり、『史記』を好むか『漢書』を好むかは、単純化すれば、司馬遷の生き方「発憤著書」に共感するか、班固の理想「明哲保身」をとるか、に帰着するようだ。しかし、極刑を受けた司馬遷が、それでも天寿を全うしたのに対し、順調に出世した班固は、晩年、政争にまきこまれ、投獄されて没したという。獄中の班固に、いま一度、司馬遷の評価を聞いてみたかったように思う。

 本書第二部「作品世界を読む」は、『史記』「伯夷伝」および「高祖本紀」「項羽本紀」を素材に、司馬選が、歴史家の使命をどう考えていたかを考える。いずれも、かつて親しんだ本文で懐かしかった。『漢書』「古今人表」の存在は、初めて知った。古今の人物を「上の上」から「下の下」まで、九段階に序列化して、視覚的な表に整理した珍品である。後世の評価は芳しくないが、「あらゆるものを一網打尽に整理したい」という、偏執狂的な貪欲さが感じられて、可笑しさが感じられる。

※本書にて「読んだもの」エントリー700件目。600件目が昨年7月15日だったから、少しペースを取り戻したかな。とりあえず「年100冊読破」×10年完走が目下の目標である。
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われらが江戸っ子/破天荒の浮世絵師 歌川国芳(太田記念美術館)

2011-07-05 00:05:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
太田記念美術館 特別展『没後150年 破天荒の浮世絵師 歌川国芳』(2011年6月1日~7月28日)

 まだ今のように日本美術に詳しくなかった頃から、歌川国芳(1798-1861)は大好きだった。北斎よりも写楽よりも国芳だった。『相馬の古内裏』の巨大ガイコツとか、『宮本武蔵と巨鯨』の背美クジラとか、教科書に載る「浮世絵」の枠を大いにはみ出した、あやしさとカッコよさがあった。

 私は、90年代に大規模な国芳展を2つ見た記憶がある。「国芳/展覧会図録」というサイトによると、1つは、大丸ミュージアム・KYOTOで開かれた『国芳の世界展』だと思う。確か小雪のちらつく冬に、京都の友人を訪ねていって、四条通のデパートで見た。もう1つは、東京(地区)の美術館だったと思うので、サントリー美術館の『歌川国芳』ではないかと思う。すっかり忘れていたが、あれらは生誕200年(1998年)にあわせた催しだったらしい。

 そして、今年はまた、妙に盛り上がっていると思ったら、没後150年なのだそうだ。12月に森アーツセンターにやってくる『歌川国芳展』も楽しみだが、まずは先陣を切って、太田記念美術館である。前期と後期で、すっかり展示内容が変わるというので、実は2回行ってきた。どちらもすごい人気だった。

■前期:豪快なる武者と妖怪(2011年6月1日~6月26日)

 武者絵、妖怪絵、役者絵が中心。圧巻は『国芳芝居草稿』で、「5メートル近くに及ぶ絵巻の中に、所狭しと歌舞伎役者たちを描いたデッサン」(個人蔵)の全巻公開。国芳作品の登場人物たちは、実に身体のひねり、手足の置きどころがカッコよくて、センスあるなーと思っていたのだが、あれは国芳による「振りつけ」ではなく、歌舞伎の見栄を写実的に写していたのだ、ということを感じた。ちなみにYouTubeに動画が上がっているのだが(5/31付け)大丈夫なのか?

■後期:遊び心と西洋の風(2011年7月1日~7月28日)

 国芳のもうひとつの側面、戯画多数。きゃっきゃと騒ぎながら見ている女の子もいれば、耐え切れずにぶふっと噴き出しているおじさんもいて、観客の反応が面白い。猫、かわいいなー。狸の○○シリーズは、さすがにひとことも解説なし(笑)。肉筆画も魅力的で、下絵なしの即興画とおぼしい『甲子大黒図』、竹(笹?)にぼってり積もった雪を、墨色の塗り残しで表現した『雪中屋根舟美人図』(静嘉堂文庫)に見惚れた。

 洋風画は、地階の第3展示室でたっぷりと。ニューホフ著『東西海陸紀行』の挿絵に学んだ作品を、その元絵の図版と見比べる展示。『忠臣蔵十一段目夜討の図』(※画像:Wiki)の斬新で印象的な風景が、実は『東西海陸紀行』のバタビア領主館の図を原本にしているという指摘が、いちばん衝撃的だった。こういう粉本関係は、これからもっと見つかるだろう。でも、そのことは、「絵を描くこと」に貪欲だった国芳の魅力を、何ら損なうものではないと思っている。

 スカイツリーはご愛嬌だけど、うれしくなるなあ。
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ファイナル記念/雑誌・芸術新潮「五百羅漢の絵師 狩野一信」

2011-07-04 00:22:22 | 読んだもの(書籍)
○『芸術新潮』2011年5月号「五百羅漢の絵師 狩野一信」 新潮社 2011.5

 江戸東京博物館の特別展『五百羅漢-幕末の絵師狩野一信 増上寺秘蔵の仏画』が、今日で幕を閉じた。関係者の皆さん、ありがとう! 私は、5月15日のシンポジウムのあとに見てきたのだが、最後の週末、名残りを惜しんで、もう一度、見に行ってきた。美術館や博物館が所蔵する美術品と違って、神社仏閣の「宝物」は、どんなに需要があっても簡単に見られるものではない。この作品を、百幅まとめて見られる機会は、私の残りの人生に、もう二度とないかもしれないと思って感謝する。

 この展覧会を心待ちにしていた美術ファンは、私のように早めに見に行ってしまっただろうから、今頃はもう、閑古鳥が鳴いているんじゃないかと思っていた。そうしたら、5月のときより人が多いくらいで、びっくりした。テレビや雑誌でもそれなりに取り上げられていたようだが、やっぱり口コミの力だろうか。twitterで「五百羅漢」を検索してみたら、「面白かった」「行ってよかった」などのつぶやき多数(タグは #RKN500)。会場も若者が多くて、「羅漢さん、マジすごいッス!」(腹の中の仏様を見せつけられたサルの科白)とか言い合いながら、自由に楽しんでいた。あと、妙に真剣に見ていた小学生くらいの男の子もいて、記憶に残るといいなあ、とひそかに思った。

 帰宅してから、以前、買っておいた『芸術新潮』を取り出して、復習の復習。限られた頁数の中で、やっぱり、いい場面を掲載しているなあ、と感心する。9幅・10幅の「浴室」は、全体としても面白いが、どの部分も面白い。すだれ&湯けむり越しの羅漢さんとか、手前の頬髭を従者に剃らせる羅漢さんのポーズ・表情・衣装も絶妙。

 第5幅「名相」で独鈷杵を持って海にもぐろうとしている白髪の羅漢さんとか、第15幅「論議」で鼻をかんでいる羅漢さんとか、あ、やっぱりそこが気になるか、と同感して嬉しくなる箇所もずいぶんあった。

 「一信の絵筆これに極まる」が、第20幅「六道・地獄」であるというのも、何度も百幅全体を眺め返してみると、最後には納得。特に私は、下方の地獄図よりも、上方の羅漢さんのポーズと表情が好きだ。肥痩の強いうねうねした線で、極端に強調された衣服の皺にも力がみなぎっている。でも私は、1幅だけ貰えるなら、第32幅「修羅道」がほしい。武者絵とか合戦図として、すごくカッコいいのである。

 『芸術新潮』本号には(5月のシンポジウムでも話題が出ていたが)「全国五百羅漢めぐりマップ」が紹介されているのも嬉しい。加西市北条町の五百羅漢寺は、先日、広島出張の帰りに寄ってきてもよかったな。兵庫県に行く機会は、近いうちにまたありそうなので、忘れないでおこう。

5月15日シンポジウム聴講の記事

同、会場見学の記事

 上記の記事でも紹介した「羅漢新聞」は、その後、順調に発展・増殖していた。会期終了と同時に忘れられるのは、個人的に、あまりに惜しいと思ったので、一部を写真に撮ってきた(→フォトチャンネル)。スタッフの方に「写真に撮ってもいいですか?」と聞いたら、快く許してもらったけど、ブログに掲載したいとは言わなかったので、クレームがあれば非公開にする。さっき「#RKN500」のツィートを見ていたら「羅漢展の『羅漢新聞』は嫁ぎ先が決まったようです」の情報あり。詳しいことは分からないが、よかった!
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インターナショナルな空気/平常展+常盤山文庫の名宝(鎌倉国宝館)

2011-07-03 11:27:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
鎌倉国宝館 平常展+特集陳列『常盤山文庫の名宝』(2011年6月2日~7月3日)

 国宝館はいつ行っても、見慣れた平常展でも和むので、ふらりと寄ってみた。そうしたら、特集陳列の常盤山文庫所蔵品が見応えありすぎて、唸ってしまった。これ「企画展」を名乗るには、数が少なすぎるのかな(中国陶器9点、書画等5点)…もったいない。

 注目は、北斉(550-577)時代の三彩5点。北斉の芸術は、次の時代(隋唐)への影響が大きく、いま国際的にも「注目の時代」なのだそうだ。フリーア美術館でシンポジウムが開かれるというのは、これ(英文)のことか。

 中国のやきものは、「白い土」と、白をキャンバスとする「三彩」の発展により、隋唐時代に確立したとされるが、北斉時代には、同じ美意識の芽吹きが十分に感じられる。まず、白いやきもの(白磁ではなく白釉らしい)の登場。そして、美しい白い肌をひろびろと残しながら、控えめに施された緑と赤褐色の釉薬のコントラストが初々しく、清々しい。

 白一色のやきものもある。隋代の白磁の完成度に比べると、北斉の「白」は、まだ黄みを帯びているが、その温かみが日本人(茶人)好みな感じがする。『白釉突起文碗』は、ガラス器か金属器をモデルにしたのだろうか、繊細な連珠文が、遠い西方の匂いを感じさせる。
 
 清拙正澄の『遺偈』(国宝)は「毘嵐巻」とも「棺割の墨蹟」とも呼ばれるもの。「斗」「神」「牛」の並んだ縦棒を見て思い出した。今年のはじめ、根津美術館の『墨宝 常盤山文庫名品展』で見たものだ。無学祖元の『重陽上堂偈』もたぶん見ている。墨蹟は、だんだん好きになりつつあるのだが、その魅力をうまく言葉にできないのが悔しい。とりあえず、常盤山文庫の墨蹟は、表具を見るだけでも楽しい、ということは言っておこう。

 それ以外では、国宝館所蔵の絵画『魚籃観音像』と『霊照女図』(どちらも室町時代)は、あまり展示されない作品ではないかと思う。前者は、キリッとした全身の立姿、後者は感じのよい市井の美女である。

 仏像は、養命寺の薬師如来、五島美術館の愛染明王坐像が、『鎌倉の至宝』展に引き続き、滞在中。それにしても、建長寺の伽藍神とか浄智寺の韋駄天とか円応寺の初江王が並んでいると、「鎌倉時代」や「南北朝時代」ではなく、「宋代」の空気が濃厚にただよっている感じがする。
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鎌倉散歩:月と星のマーク

2011-07-03 01:07:09 | 日常生活
先週、思い立って鎌倉へアジサイを見に行った。海蔵寺から、久しぶりに亀ヶ谷坂の切り通しを抜け、巨福呂坂を下って、鶴岡八幡宮に出た。このとき、巨福呂坂洞門(落石防止のトンネル)の壁に並んだ円筒形の照明設備に、星と三日月のマークが付いているのが目に入った。このトンネルは何度も通っているはずなのに、どうして、この日に限って「発見」したのか、不思議である。



すぐに思い出したのは、鎌倉国宝館の扉のステンドグラスの図と同じだということ。



これは何か謂われがあるのだろう…と思って、調べてみたら、旧・鎌倉町(明治27/1897年-昭和14/1939年)の町章だった。ちなみに、現在の鎌倉市の市章は、源頼朝の家紋にちなむササリンドウである(※鎌倉市のページ)。

なぜ星と月かというと、鎌倉には「星月夜」という地名があり、現在も「星月夜の井」(または「星の井」「星月の井」とも)という鎌倉十井の一の名前に名残をとどめている。『永久百首』にも「われひとり鎌倉山をこえゆけば 星月夜こそうれしかりけれ」という古歌が見えるそうだ。

実は、鎌倉国宝館のステンドグラスは長年の疑問だったのである。これでスッキリした。

なお、「鎌倉の極楽寺から西ヶ谷の月影地蔵堂に歩いていく途中」と「鎌倉宮そば」の2箇所に、月星印のマンホールの蓋が残っているらしい。今度、探してみよう!
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集める・並べる/日本における辞書の歩み(静嘉堂文庫)

2011-07-02 11:21:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 『日本における辞書の歩み-知の森への道をたどる-』(2011年6月25日~7月31日)

 久しぶりの静嘉堂文庫。刀剣も雛人形も陶磁器も行き逃していたのだが、古典籍が出ると知って、いそいそと出かけてきた。

 「プロローグ」として、どこの図書館にもある印刷本の『大漢和辞典』(昭和58年刊)が展示されていたので、ちらっと横目で見て通り過ぎようと思ったら、小さな赤字は、編者の諸橋轍次(1883-1982)当人による訂正書き入れだという。諸橋が静嘉堂の第二代文庫長だったということを初めて知って、(自分の無知に)軽い衝撃を受けてしまった。いま調べたら、大正12年の関東大震災当時の文庫長であり、静嘉堂文庫って、その翌年、二子玉川に移転したのか(※三菱ゆかりの人々 Vol.19)。

 『広韻』(宋刊)は、現存最古の広韻で、室町時代には伝来していたものと考えられる。『永楽大典』は、正本が明末に消失し、副本も散逸して、世界各地に400冊足らずが伝存しているというもの。静嘉堂文庫は8冊を所蔵する。『康煕字典』は、比較のために2種類が並べて展示されていた。ひとつは清刊(殿版=武英殿刊本)で、朱筆で訓点や送りがなが書き入れられている。誰の筆なんだろう? もうひとつは安永9年(1780)日本で刊行されたもので、訓点も版に起こされている。読み下し方は微妙に異なる。あと、紙質が明らかに違う(日本の方が厚く、白っぽくてぼってりしている)のも面白いと思った。『欽定古今図書集成』(雍正4年/1726)は銅活字本。中国も、意外と活字を使ってるんだな…。

 日本の辞書は、狩谷棭斎の自筆書き入れ本や、石川雅望編『雅言集覧』の自筆初稿(読みにくい字だなー)、青木昆陽自筆の『和蘭文字略考』などを興味深く眺めた。『波留麻和解』(江戸ハルマ)の見出し語(オランダ語)は木活字で組まれている。画像を探したら、早稲田大学のこれが該当。なお、こちら全文)は見出し語も手書きである。

 『道訳法児馬(長崎ハルマ)』は天保4年(1833)書写。「法児馬(fa er ma)」は中国語音訳である。版心に「三省堂蔵」と見えるが、これはどこの三省堂? 『仏語明要』の「達理堂蔵版」も分からなかったが、調べたら、編者・村上英俊(幕末のフランス学者)の家塾だった。ヘボンの『和英語林集成』は、英文のタイトルページには「Shanghai」とあるが、和文のタイトルページには縦書で「日本横浜梓行」とある。また本文に取られている単語が不思議で、「アビコ 石龍 A kind of lizard(トカゲの1種)」なんて、知らなかった。

※参考:それにしても、世の中には、いろいろなサイトを立ち上げている人がいるものだと思う。

日本英語辞書略年表(早川勇氏/愛知大学)

幕末明治期日本語学関連電子化資料(金子弘氏/創価大学)
ヘボン『和英語林集成』初版「和英の部」冒頭のテキストあり
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大人のドラマ/日中国交回復(服部龍二)

2011-07-02 08:28:22 | 読んだもの(書籍)
○服部龍二『日中国交回復:田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書) 中央公論新社 2011.5

 1972年9月の日中国交正常化交渉。政治家と官僚たちは、何を考え、どのように動いたかを、精緻な検証(巻末の注記がすごい)に基づき、再現ドラマを見るように、生き生きと描き出した(これは研究者に対して誉め言葉になるかな?)労作。

 当時、私は小学生だった。中国と「国交がなかった」理由も、それを「回復する」という意味も、よく分からなかったが、上野にパンダがやってきて、突如沸き上がった中国ブームは、今でも強く印象に残っている。

 日中国交回復のプロセスを理解したのは、ずっと大人になってから、この5~10年くらいの読書による。事を成し遂げるにあたり、田中角栄の力が大きかったこと、田中の「ご迷惑」スピーチの波紋、「不正常な状態」という起死回生策、毛沢東の「ケンカは済みましたか」発言――などは、本書を読む以前から知っていた。いま、ブログ検索を書けながら、何の本で読んだのか探してみたが、不思議とそれらしい読書記録が出てこない。もう少し前だったのかな。

 本書で初めて知ったことは、まず、大平正芳の存在感。陽気で行動的な田中角栄と、慎重で緻密な大平正芳は、そもそも無二の親友で、お互い「この男は総理になる」と思っていた、という証言がすごい。下品な金権総理だと思っていた田中角栄の見方が、大人になって変わったように、アーウー総理・大平正芳の見方も、近年ようやく修正されつつある。「修正」しているのは、私個人の話だけれど、当時、面白おかしい報道を垂れ流して、国民の判断を誤らせたマスコミの責任は重い。だから、鳩山政権や菅政権に対する評価も、割り引いて聞く必要があると思っている。

 1972年7月7日(あれから39年か)田中内閣が誕生すると、大平は外相に就任する。田中は苦手な外交を全面的に大平に任せたが、責任は自分がかぶり、大きな決断は自分でした。一方で、大平が田中に決断を促す側面もあった。ふたりの政治家の二人三脚が、日本を困難から救ったのである。外務官僚たちも、政治家の決断を指をくわえて見ていたわけではない。本書では、上層部を飛び越えて、橋本恕、栗山尚一などの若い課長クラス(それも、チャイナ・スクールでない人々)が、重要な局面で、見事な活躍を見せている。ほんとに脚本家が書いたドラマみたいだ!

 また、中国側(周恩来総理、姫鵬飛外交部長)のタフ・ネゴシエーターぶりも、よく描かれている。日本も中国も、お互いの面子をつぶさず、譲るべきことは譲り、最善の決着点を目指した。それぞれ、国内の政敵、国民感情のコントロールにも、細心の注意を払っている。ホンモノの「外交」だと思う。

 ただし、田中を「アメリカに反逆した総理」として持ち上げる向きもあるが、少なくとも日中国交に関して、日本は、サンフランシスコ体制(日米協調)の維持を前提に臨んだ、というのが、本書の立ち位置である。こっちが現実的なんだろうな、と思った。だからこそ、難しい交渉だったとも言える。

 田中、大平は、さきの戦争で日本が犯した罪過の大きさをよく分かっていたから、殺されることも覚悟して中国に向かった(大平は遺書を書いていた)という。後年、すっかり日本国民に見捨てられた田中が、中国に招待されて、車椅子の上でぼろぼろ泣いている映像を見た記憶がある。あのときも、日本のマスコミは冷淡だったが、田中の心中を慮ると、あらためて感慨深い。芸術家も、同時代の民衆に理解されないことが多いが、政治家もそうなんだな…。

 同時進行した日台「外交」交渉もまた、スリリングな大人のドラマだった。表舞台で怒って見せ、嘆いて見せながら、両国の政治家と官僚は「裏メッセージ」を発し続け、それを的確に理解し合った。それでも最後まで、台湾の報復の可能性(邦人の抑留とか、武力行使まで)が案じられてた、ということを初めて知った。

 日中交渉に先立ち、田中総理から蒋介石総統に贈られた親書は、外務省の橋本課長が作成し、最終的に安岡正篤が添削を入れている。情報公開法に基づいて開示された文書の写真図版が本書に掲載されており、繰り返された修正の跡を、生々しく確認することができる。最終案は、書き起こし全文が収録されているが、格調高い正統漢文調で、蒋介石総統、ひいては台湾国民に対する礼節と真剣な配慮を感じさせる。

 本書を読みながら、何度か思い起こしていたのは、2002年、2004年の小泉純一郎総理(当時)による北朝鮮訪問である。あれも全貌が明らかになり、評価が定まるまでは、40年くらいの歳月を要するのだろうか。私が生きているうちは無理かな…。
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