見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

集める・並べる/日本における辞書の歩み(静嘉堂文庫)

2011-07-02 11:21:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 『日本における辞書の歩み-知の森への道をたどる-』(2011年6月25日~7月31日)

 久しぶりの静嘉堂文庫。刀剣も雛人形も陶磁器も行き逃していたのだが、古典籍が出ると知って、いそいそと出かけてきた。

 「プロローグ」として、どこの図書館にもある印刷本の『大漢和辞典』(昭和58年刊)が展示されていたので、ちらっと横目で見て通り過ぎようと思ったら、小さな赤字は、編者の諸橋轍次(1883-1982)当人による訂正書き入れだという。諸橋が静嘉堂の第二代文庫長だったということを初めて知って、(自分の無知に)軽い衝撃を受けてしまった。いま調べたら、大正12年の関東大震災当時の文庫長であり、静嘉堂文庫って、その翌年、二子玉川に移転したのか(※三菱ゆかりの人々 Vol.19)。

 『広韻』(宋刊)は、現存最古の広韻で、室町時代には伝来していたものと考えられる。『永楽大典』は、正本が明末に消失し、副本も散逸して、世界各地に400冊足らずが伝存しているというもの。静嘉堂文庫は8冊を所蔵する。『康煕字典』は、比較のために2種類が並べて展示されていた。ひとつは清刊(殿版=武英殿刊本)で、朱筆で訓点や送りがなが書き入れられている。誰の筆なんだろう? もうひとつは安永9年(1780)日本で刊行されたもので、訓点も版に起こされている。読み下し方は微妙に異なる。あと、紙質が明らかに違う(日本の方が厚く、白っぽくてぼってりしている)のも面白いと思った。『欽定古今図書集成』(雍正4年/1726)は銅活字本。中国も、意外と活字を使ってるんだな…。

 日本の辞書は、狩谷棭斎の自筆書き入れ本や、石川雅望編『雅言集覧』の自筆初稿(読みにくい字だなー)、青木昆陽自筆の『和蘭文字略考』などを興味深く眺めた。『波留麻和解』(江戸ハルマ)の見出し語(オランダ語)は木活字で組まれている。画像を探したら、早稲田大学のこれが該当。なお、こちら全文)は見出し語も手書きである。

 『道訳法児馬(長崎ハルマ)』は天保4年(1833)書写。「法児馬(fa er ma)」は中国語音訳である。版心に「三省堂蔵」と見えるが、これはどこの三省堂? 『仏語明要』の「達理堂蔵版」も分からなかったが、調べたら、編者・村上英俊(幕末のフランス学者)の家塾だった。ヘボンの『和英語林集成』は、英文のタイトルページには「Shanghai」とあるが、和文のタイトルページには縦書で「日本横浜梓行」とある。また本文に取られている単語が不思議で、「アビコ 石龍 A kind of lizard(トカゲの1種)」なんて、知らなかった。

※参考:それにしても、世の中には、いろいろなサイトを立ち上げている人がいるものだと思う。

日本英語辞書略年表(早川勇氏/愛知大学)

幕末明治期日本語学関連電子化資料(金子弘氏/創価大学)
ヘボン『和英語林集成』初版「和英の部」冒頭のテキストあり
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大人のドラマ/日中国交回復(服部龍二)

2011-07-02 08:28:22 | 読んだもの(書籍)
○服部龍二『日中国交回復:田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書) 中央公論新社 2011.5

 1972年9月の日中国交正常化交渉。政治家と官僚たちは、何を考え、どのように動いたかを、精緻な検証(巻末の注記がすごい)に基づき、再現ドラマを見るように、生き生きと描き出した(これは研究者に対して誉め言葉になるかな?)労作。

 当時、私は小学生だった。中国と「国交がなかった」理由も、それを「回復する」という意味も、よく分からなかったが、上野にパンダがやってきて、突如沸き上がった中国ブームは、今でも強く印象に残っている。

 日中国交回復のプロセスを理解したのは、ずっと大人になってから、この5~10年くらいの読書による。事を成し遂げるにあたり、田中角栄の力が大きかったこと、田中の「ご迷惑」スピーチの波紋、「不正常な状態」という起死回生策、毛沢東の「ケンカは済みましたか」発言――などは、本書を読む以前から知っていた。いま、ブログ検索を書けながら、何の本で読んだのか探してみたが、不思議とそれらしい読書記録が出てこない。もう少し前だったのかな。

 本書で初めて知ったことは、まず、大平正芳の存在感。陽気で行動的な田中角栄と、慎重で緻密な大平正芳は、そもそも無二の親友で、お互い「この男は総理になる」と思っていた、という証言がすごい。下品な金権総理だと思っていた田中角栄の見方が、大人になって変わったように、アーウー総理・大平正芳の見方も、近年ようやく修正されつつある。「修正」しているのは、私個人の話だけれど、当時、面白おかしい報道を垂れ流して、国民の判断を誤らせたマスコミの責任は重い。だから、鳩山政権や菅政権に対する評価も、割り引いて聞く必要があると思っている。

 1972年7月7日(あれから39年か)田中内閣が誕生すると、大平は外相に就任する。田中は苦手な外交を全面的に大平に任せたが、責任は自分がかぶり、大きな決断は自分でした。一方で、大平が田中に決断を促す側面もあった。ふたりの政治家の二人三脚が、日本を困難から救ったのである。外務官僚たちも、政治家の決断を指をくわえて見ていたわけではない。本書では、上層部を飛び越えて、橋本恕、栗山尚一などの若い課長クラス(それも、チャイナ・スクールでない人々)が、重要な局面で、見事な活躍を見せている。ほんとに脚本家が書いたドラマみたいだ!

 また、中国側(周恩来総理、姫鵬飛外交部長)のタフ・ネゴシエーターぶりも、よく描かれている。日本も中国も、お互いの面子をつぶさず、譲るべきことは譲り、最善の決着点を目指した。それぞれ、国内の政敵、国民感情のコントロールにも、細心の注意を払っている。ホンモノの「外交」だと思う。

 ただし、田中を「アメリカに反逆した総理」として持ち上げる向きもあるが、少なくとも日中国交に関して、日本は、サンフランシスコ体制(日米協調)の維持を前提に臨んだ、というのが、本書の立ち位置である。こっちが現実的なんだろうな、と思った。だからこそ、難しい交渉だったとも言える。

 田中、大平は、さきの戦争で日本が犯した罪過の大きさをよく分かっていたから、殺されることも覚悟して中国に向かった(大平は遺書を書いていた)という。後年、すっかり日本国民に見捨てられた田中が、中国に招待されて、車椅子の上でぼろぼろ泣いている映像を見た記憶がある。あのときも、日本のマスコミは冷淡だったが、田中の心中を慮ると、あらためて感慨深い。芸術家も、同時代の民衆に理解されないことが多いが、政治家もそうなんだな…。

 同時進行した日台「外交」交渉もまた、スリリングな大人のドラマだった。表舞台で怒って見せ、嘆いて見せながら、両国の政治家と官僚は「裏メッセージ」を発し続け、それを的確に理解し合った。それでも最後まで、台湾の報復の可能性(邦人の抑留とか、武力行使まで)が案じられてた、ということを初めて知った。

 日中交渉に先立ち、田中総理から蒋介石総統に贈られた親書は、外務省の橋本課長が作成し、最終的に安岡正篤が添削を入れている。情報公開法に基づいて開示された文書の写真図版が本書に掲載されており、繰り返された修正の跡を、生々しく確認することができる。最終案は、書き起こし全文が収録されているが、格調高い正統漢文調で、蒋介石総統、ひいては台湾国民に対する礼節と真剣な配慮を感じさせる。

 本書を読みながら、何度か思い起こしていたのは、2002年、2004年の小泉純一郎総理(当時)による北朝鮮訪問である。あれも全貌が明らかになり、評価が定まるまでは、40年くらいの歳月を要するのだろうか。私が生きているうちは無理かな…。
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