○中沢新一『大阪アースダイバー』 講談社 2012.10
東京をフィールドワークする前著『アースダイバー』(2005年刊)を読んだのは、2006年のことだった。私は人生50年をずっと東京で暮らしていることもあって、浅草、本郷、新宿、渋谷など、どの章を読んでも、論理以前に湧き上がってくる共感と興奮があった。
さて大阪である。あとがきによれば、著者が「つぎは大阪でやる」と言い出したとき、それはできないでしょう、と主に関西出身者から言われた。なぜかといえば、大阪でアースダイバー的に力の強い場所を探っていくと、必ず「差別にかかわる微妙な問題」に抵触するから、だと言う。
確かにそのとおりだ。著者は「隠すことであらわにしたり、逆にストレートに書いているようで、じつは隠している」という文体の開発に挑戦し、その結果、「ずいぶん危険なことも書かれているのですが、連載中は無事に切り抜けられたようです」と明かす。ううむ、しかし「危険なこと」をそれなりに読みとってしまい、でも著者のようなデリケートな文体を手に入れていない私は、本書の感想をどう書いたらいいのか、困惑している。もし、著者の言いたかったのはこうだ、と下手に散文的にパラフレーズしてしまったら、ポリティカル・コレクトネスに敏感な人たちから、山のような顰蹙を買いそうな気がする。
いや、でも…せめてキーワードだけでも語っておこう。南北に走るアポロン軸に対して、東西に走るディオニュソス軸。その交点に立つのが四天王寺であり、聖徳太子の「和」の思想は、二つの軸(原理)が、互いを否定せずに共存する仕組みを意味する。というが、私は、むしろ四天王寺の二面性を感じた。五重塔のガッチリした構造美が、明晰な「アポロン的原理」を表現するのに対し、暗い床下に潜り込んだ俊徳丸の物語が伝える、デモーニッシュな「ディオニュソス的原理」。
ナニワ船場の「資本主義」論も面白いのだが、やはり本書の白眉は「ミナミ」論である。大阪の下半身。ネクロポリス。生者と死者が混在する場所。埋葬儀礼から生まれた数々の芸能、とりわけ「笑い」の芸。大阪が「ミナミ」の世界をもつことがなかったら、ここがこれほど人間味にあふれた、ユニークな都市となることはなかっただろう。無(産)と死に接触するミナミを抱えこむことで、大阪は、都市として類例のない、人類学的な「全体性」を保った、と著者は絶賛する。
さらに著者は、大阪の古層における「海民・渡来民」の影響を指摘する。本書のいう「海民」は重層的な意味をもっているが、最も重要なのは「南朝鮮と西日本にまたがる海洋的な共通文化をもつカヤ世界の人々」であると説明されている(エピローグ)。本文中では、より端的に「コリア世界」と記載されている。
私は、「死」や「暴力」やどろどろした「不浄」を覗き見することが好きだ。「血や死のような過剰した力にあふれているもの」を「ケガレ」という、と著者は述べる(異論があることは承知)。市民社会は、自然に直結した、荒々しい力との接触を恐れ、それを遠ざけようとする。いや、私だって、荒々しい力に日々巻き込まれることは好まない。しかし、アポロン的な「昼の論理」だけでは、人も都市も、生命力が枯渇してしまう。どこかで「ミナミ」的なものに触れている必要があるのではないかと思う。
この五、六年、大阪に行く機会が増えて、私はようやく地下鉄とJRの駅名くらいはマッピングできるようになった。駅になっていない法善寺・千日前・西成・釜ヶ崎なども、本書のおかげで頭に入った。今度、ゆっくり大阪の街歩きをしてみたい。ちょっと緊張するけど。それと、本書のおかげで「文楽」作品に登場する地名のイメージが鮮明になった気がする。曽根崎、生玉神社、合邦辻など、なぜ舞台がそこでなければならなかったのか。ちなみに、著者の「大坂趣味」は、小学生の頃、ラジオから流れてきた文楽の音楽、すなわち義太夫節に始まると言う。嬉しかった。「そこで歌われている日本語こそ自分の求めている理想の日本語に近い」というアースダイバーの言葉に、深く共感する。
※なお、本書が私の「読んだもの」800件目のエントリーである。
東京をフィールドワークする前著『アースダイバー』(2005年刊)を読んだのは、2006年のことだった。私は人生50年をずっと東京で暮らしていることもあって、浅草、本郷、新宿、渋谷など、どの章を読んでも、論理以前に湧き上がってくる共感と興奮があった。
さて大阪である。あとがきによれば、著者が「つぎは大阪でやる」と言い出したとき、それはできないでしょう、と主に関西出身者から言われた。なぜかといえば、大阪でアースダイバー的に力の強い場所を探っていくと、必ず「差別にかかわる微妙な問題」に抵触するから、だと言う。
確かにそのとおりだ。著者は「隠すことであらわにしたり、逆にストレートに書いているようで、じつは隠している」という文体の開発に挑戦し、その結果、「ずいぶん危険なことも書かれているのですが、連載中は無事に切り抜けられたようです」と明かす。ううむ、しかし「危険なこと」をそれなりに読みとってしまい、でも著者のようなデリケートな文体を手に入れていない私は、本書の感想をどう書いたらいいのか、困惑している。もし、著者の言いたかったのはこうだ、と下手に散文的にパラフレーズしてしまったら、ポリティカル・コレクトネスに敏感な人たちから、山のような顰蹙を買いそうな気がする。
いや、でも…せめてキーワードだけでも語っておこう。南北に走るアポロン軸に対して、東西に走るディオニュソス軸。その交点に立つのが四天王寺であり、聖徳太子の「和」の思想は、二つの軸(原理)が、互いを否定せずに共存する仕組みを意味する。というが、私は、むしろ四天王寺の二面性を感じた。五重塔のガッチリした構造美が、明晰な「アポロン的原理」を表現するのに対し、暗い床下に潜り込んだ俊徳丸の物語が伝える、デモーニッシュな「ディオニュソス的原理」。
ナニワ船場の「資本主義」論も面白いのだが、やはり本書の白眉は「ミナミ」論である。大阪の下半身。ネクロポリス。生者と死者が混在する場所。埋葬儀礼から生まれた数々の芸能、とりわけ「笑い」の芸。大阪が「ミナミ」の世界をもつことがなかったら、ここがこれほど人間味にあふれた、ユニークな都市となることはなかっただろう。無(産)と死に接触するミナミを抱えこむことで、大阪は、都市として類例のない、人類学的な「全体性」を保った、と著者は絶賛する。
さらに著者は、大阪の古層における「海民・渡来民」の影響を指摘する。本書のいう「海民」は重層的な意味をもっているが、最も重要なのは「南朝鮮と西日本にまたがる海洋的な共通文化をもつカヤ世界の人々」であると説明されている(エピローグ)。本文中では、より端的に「コリア世界」と記載されている。
私は、「死」や「暴力」やどろどろした「不浄」を覗き見することが好きだ。「血や死のような過剰した力にあふれているもの」を「ケガレ」という、と著者は述べる(異論があることは承知)。市民社会は、自然に直結した、荒々しい力との接触を恐れ、それを遠ざけようとする。いや、私だって、荒々しい力に日々巻き込まれることは好まない。しかし、アポロン的な「昼の論理」だけでは、人も都市も、生命力が枯渇してしまう。どこかで「ミナミ」的なものに触れている必要があるのではないかと思う。
この五、六年、大阪に行く機会が増えて、私はようやく地下鉄とJRの駅名くらいはマッピングできるようになった。駅になっていない法善寺・千日前・西成・釜ヶ崎なども、本書のおかげで頭に入った。今度、ゆっくり大阪の街歩きをしてみたい。ちょっと緊張するけど。それと、本書のおかげで「文楽」作品に登場する地名のイメージが鮮明になった気がする。曽根崎、生玉神社、合邦辻など、なぜ舞台がそこでなければならなかったのか。ちなみに、著者の「大坂趣味」は、小学生の頃、ラジオから流れてきた文楽の音楽、すなわち義太夫節に始まると言う。嬉しかった。「そこで歌われている日本語こそ自分の求めている理想の日本語に近い」というアースダイバーの言葉に、深く共感する。
※なお、本書が私の「読んだもの」800件目のエントリーである。