見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

都市と野生の思考/大阪アースダイバー(中沢新一)

2012-10-18 23:47:46 | 読んだもの(書籍)
○中沢新一『大阪アースダイバー』 講談社 2012.10

 東京をフィールドワークする前著『アースダイバー』(2005年刊)を読んだのは、2006年のことだった。私は人生50年をずっと東京で暮らしていることもあって、浅草、本郷、新宿、渋谷など、どの章を読んでも、論理以前に湧き上がってくる共感と興奮があった。

 さて大阪である。あとがきによれば、著者が「つぎは大阪でやる」と言い出したとき、それはできないでしょう、と主に関西出身者から言われた。なぜかといえば、大阪でアースダイバー的に力の強い場所を探っていくと、必ず「差別にかかわる微妙な問題」に抵触するから、だと言う。

 確かにそのとおりだ。著者は「隠すことであらわにしたり、逆にストレートに書いているようで、じつは隠している」という文体の開発に挑戦し、その結果、「ずいぶん危険なことも書かれているのですが、連載中は無事に切り抜けられたようです」と明かす。ううむ、しかし「危険なこと」をそれなりに読みとってしまい、でも著者のようなデリケートな文体を手に入れていない私は、本書の感想をどう書いたらいいのか、困惑している。もし、著者の言いたかったのはこうだ、と下手に散文的にパラフレーズしてしまったら、ポリティカル・コレクトネスに敏感な人たちから、山のような顰蹙を買いそうな気がする。

 いや、でも…せめてキーワードだけでも語っておこう。南北に走るアポロン軸に対して、東西に走るディオニュソス軸。その交点に立つのが四天王寺であり、聖徳太子の「和」の思想は、二つの軸(原理)が、互いを否定せずに共存する仕組みを意味する。というが、私は、むしろ四天王寺の二面性を感じた。五重塔のガッチリした構造美が、明晰な「アポロン的原理」を表現するのに対し、暗い床下に潜り込んだ俊徳丸の物語が伝える、デモーニッシュな「ディオニュソス的原理」。

 ナニワ船場の「資本主義」論も面白いのだが、やはり本書の白眉は「ミナミ」論である。大阪の下半身。ネクロポリス。生者と死者が混在する場所。埋葬儀礼から生まれた数々の芸能、とりわけ「笑い」の芸。大阪が「ミナミ」の世界をもつことがなかったら、ここがこれほど人間味にあふれた、ユニークな都市となることはなかっただろう。無(産)と死に接触するミナミを抱えこむことで、大阪は、都市として類例のない、人類学的な「全体性」を保った、と著者は絶賛する。

 さらに著者は、大阪の古層における「海民・渡来民」の影響を指摘する。本書のいう「海民」は重層的な意味をもっているが、最も重要なのは「南朝鮮と西日本にまたがる海洋的な共通文化をもつカヤ世界の人々」であると説明されている(エピローグ)。本文中では、より端的に「コリア世界」と記載されている。

 私は、「死」や「暴力」やどろどろした「不浄」を覗き見することが好きだ。「血や死のような過剰した力にあふれているもの」を「ケガレ」という、と著者は述べる(異論があることは承知)。市民社会は、自然に直結した、荒々しい力との接触を恐れ、それを遠ざけようとする。いや、私だって、荒々しい力に日々巻き込まれることは好まない。しかし、アポロン的な「昼の論理」だけでは、人も都市も、生命力が枯渇してしまう。どこかで「ミナミ」的なものに触れている必要があるのではないかと思う。

 この五、六年、大阪に行く機会が増えて、私はようやく地下鉄とJRの駅名くらいはマッピングできるようになった。駅になっていない法善寺・千日前・西成・釜ヶ崎なども、本書のおかげで頭に入った。今度、ゆっくり大阪の街歩きをしてみたい。ちょっと緊張するけど。それと、本書のおかげで「文楽」作品に登場する地名のイメージが鮮明になった気がする。曽根崎、生玉神社、合邦辻など、なぜ舞台がそこでなければならなかったのか。ちなみに、著者の「大坂趣味」は、小学生の頃、ラジオから流れてきた文楽の音楽、すなわち義太夫節に始まると言う。嬉しかった。「そこで歌われている日本語こそ自分の求めている理想の日本語に近い」というアースダイバーの言葉に、深く共感する。

※なお、本書が私の「読んだもの」800件目のエントリーである。
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お手頃ハンドブック/すぐわかる絵巻の見かた(榊原悟)

2012-10-17 23:35:13 | 読んだもの(書籍)
○榊原悟『すぐわかる絵巻の見かた』 東京美術 2012.6改訂版

 サントリー美術館の『お伽草子』展を見に行って、うきうきした気持ちだったので、図録と一緒にミュージアムショップで買ってしまった。2004年初版発行、一部図版を拡大したり増補した改訂版である。「合戦絵巻」「伝記絵巻」などにジャンル分けをして、計33本の絵巻が見開き2ページ(作品によっては4ページ、または6ページ)で紹介されている。少なくとも1場面は「名場面」をカラー写真で紹介。そのほかに、所蔵者、物理形態(○巻、長さ)、成立年代などの基礎データ、見どころ紹介、そして「ハイライト・シーン」から成っている。

 文は榊原先生の執筆かと思ったら、主には佐伯英里子さんと内田啓一さんという方であった。特に内田さんの解説が軽妙で「こりゃ気が抜けない」とか「あら不思議」とか、絵解きの講釈師みたいな語り口で、ときどき吹き出しそうになった。「ハイライト・シーン」は白黒の単純化されたイラストで、カラー図版以外の「名場面」を紹介する。これが、あ、この絵巻のこのシーン見たことある、というインデックスとして、けっこう役立つ。いや、見たことがなくても、だいたいどんなシーンか目に浮かぶ気がする。人間の連想力というのは不思議なものだ。

 本書で気づかされたことのひとつは、当たり前だが、右→左という文法の大切さ。ボストン美術館の『平治物語絵詞(絵巻)』を見て、巻末の武士の行軍を「巻頭」と間違えて激賞したアメリカ人学者がいるという。本当かな。『源氏物語絵巻』の登場人物が、一様に「引目鉤鼻」であるのは、鑑賞する側がそこに複雑微妙な心理を重ね合わせて見るためである。これは、文楽人形につながる原理だと思う。それから『信貴山縁起』の「見えないものを見せるテクニック」で、「転がり出た鉢の動き」や「護法童子の飛翔した軌跡」が、現代マンガと同様、細い墨線で表現されていることには気づいていたが、「犬の吠え声」が短い直線(一本だけ?)で表わされているのは知らなかった。どの場面だ? 今度、探してみたい。

 見たいと思ったのは、まず『賢学草紙絵巻』。一回見てるけど、また見たい。これ、巨大な蛇身(最後は龍)となった女の姿を、後ろからおそるおそる開いていって、正体(顔)を見出す瞬間って、怖いだろうなあ。これと似て非なるドンデン返しが楽しめるのが『華厳宗祖師絵伝(義湘絵)』なわけだが…。逸翁美術館の『大江山絵詞』も見たい。「名場面」の鬼が可愛すぎる。「ハイライト・シーン」の「(酒天)童子に仕える鬼たちは、仮装行列で頼光らをもてなす」というトボケたイラストも可愛い。『前九年合戦絵詞』『後三年合戦絵詞』は、「ハイライト・シーン」を見ると、さらし首などの残酷シーンが淡々と描かれているようだ。こういう場面は、見たいけど、展示でもあまり開けてくれないからなあ…。

 本書では「物語絵巻」や「説話絵巻」と並べて「お伽草子」というジャンル立てをしていて、なるほど美術史の人はこういう言い方をするんだ、と思った。とりあえず有名絵巻を見るには、お手頃で便利なハンドブックだと思う。
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匂い立つ個性/尚意競艶 宋時代の書(台東区立書道博物館)

2012-10-17 00:09:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
台東区立書道博物館 『尚意競艶-宋時代の書-』(2012年10月2日~11月25日)

 東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画、10回目の記念展でもある。両館のほか、京博、大阪市立美術館、香港中文大学所蔵の名品も出品されている。東洋美術のさまざまなジャンルの中でも、「書」は、いちばん近寄りがたいと思っていたが、最近、その感じが薄れてきた。日常生活で文字を書かなくなった分、書を芸術として眺めることに抵抗がなくなってきたように思う。

 今年は、北宋時代の四大家の一人である蔡襄(1012-1067)の生誕1000年にあたる。ということで、1階の特大展示ケースには『楷書泉州万安橋碑』。なんと朱墨の拓本である。顔真卿に学んだという男ぶりのいい書風で、好きだ。万安橋(別名・洛陽橋)は、福建省・泉州に現存する。ただし、万安橋記(万安橋碑)は別の場所に写されているらしい(→個人ブログ:やた管ブログ)。行ってみたいなあ、泉州。

 『楷書謝賜御書詩表巻』2件は蔡襄の自筆だ、と思ってよく見たら写真複製版。前期は東博で現物を展示し、書道博物館では後期(10/30~)展示である。さらに前後期の中でも展示替があるのでややこしい。面白いと思ったのは『楷書顔真卿自書告身帖跋』。書道博物館が誇る名品、顔真卿自筆の『告身帖』の巻末に、蔡襄が堂々と大きな、しかし畏まった筆跡で書き添えた跋文である。展示箇所より前の、軸に巻かれた部分を眺めながら、この部分に顔真卿の『告身帖』があるのかーと想像すると、感慨深かった。

 同じように、蘇軾筆『行書李白仙詩巻』も、これは本体を楽しむとともに、跋文が別巻になっており(ともに大阪市立美術館蔵)、長尾雨山、内藤湖南による長文の跋も見もの。むかしは日本の文人も美しい漢字を書いたものだ。

 蔡襄、蘇軾とともに北宋の四大家と呼ばれる黄庭堅、米芾(べいふつ)の書もむろんある。私は、やっぱり米芾が一番好きかな…。連携企画『尚意競艶』公式サイトの四人の紹介が面白い。しかし、一番印象的だったのは、徽宗皇帝の『行書神霄玉清万寿宮碑』(拓本)だ。誇り高い美しさにゾクゾクする。痩金体は、私には絶対書けない書体だと思う。

 「宋時代の書」ではないが、書聖・王羲之の「蘭亭序」の拓本3件も展示されていた。南宋の丞相・游似は、百種の蘭亭序を蒐集していたと言われ、そのコレクションに由来するもの。香港中文大学から出陳(展示替を含め全7件)。ふーん、微妙に違うものだなあ、と見比べて楽しむ。

 なお、この展覧会では、音声ガイドの無料貸出を行っている。やっぱり、素人が書を見るには、何か解説があったほうがいいし、小さなキャプションボードより、ずっと情報量が多くて親切。ただし、前掲の游似旧蔵・蘭亭序コレクションのところなど、ちょっと説明不足に感じられるところもあった。あと、地名も人名も資料名も、耳で聞くだけだと、なかなか漢字に結びつかなくて、ストレスを感じるときがある。でもありがたい試みなので、今後も続けてほしい。
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中国の近代始まる/中国絵画 住友コレクションの白眉(泉屋博古館分館)

2012-10-16 00:17:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
泉屋博古館分館 開館10周年記念展 PART IV 特別展『中国絵画-住友コレクションの白眉-』(2012年10月13日~12月16日)

 展覧会のタイトルとは別に「八大山人・石濤-君はその名画を見たか-」というキャッチコピーが付いていて、思わず、うふふと笑ってしまった。ずいぶん大仰なコピーだな、と思う気持ちと、いやそのくらいの価値はあるよな、とうなずく気持ちが入り混じって。

 京都の泉屋博古館には、足繁く通っている。日本の書画、茶道具、金銅仏など、さまざまな企画展を見てきたが、群を抜いて好きなのは、やっぱり中国絵画コレクションだ。チラシには「東京では開館以来まとまった公開の機会のなかった当館の中国絵画を一堂に展観」とある。そうか、言われてみれば、まだ東京の分館で、中国絵画展を見たことはなかったっけ。

 同館はエントランスホールを挟んで、左右に展示室が分かれる。右の第1室に入ると、正面の小さなケースに単独展示の画冊。八大山人の『安晩帖』だ!と気づいて、いそいそと駆け寄る。第1図の「水仙図」が開いていた。先端に蕾をつけた細い茎と、四、五枚の葉が、土臭く身をよじっている。おや?と思ったのは、全体に薄い水色の彩色が施されていたこと。私は、これで同画帖の6面を実見したことになるが、今までずっと全面モノクロだと思っていた。ホールに置かれていた図録見本を確かめたら、「水仙図」と「菊鶉図」「芙蓉図」は、一部に淡彩が使われていた。へえ、めずらしい画面を見ることができてよかった。

 私が初めて『安晩帖』を知ったのは、2007年の『文人の世界』展である。文房四宝を中心とした展覧会で、絵画は幾分、添えもの的だった。そこで『安晩帖』を見出した感激は、今も忘れられない。その点では、最近、この作品の名声が高くなって、チラシやポスターになるわ、全ページをめくり替えて展示してくれるわの特別扱いは、嬉しいような残念なような気持である。

 ふと左の壁際を見ると、八大山人がもう1品『書画合壁巻』。これは久しぶりではないかしら。書と画(しかも愛らしい鳥図+遠景に山水図)を同時に楽しめる。

 奥の壁には、石濤筆『廬山観瀑図』。これもおなじみの作品だが、今回の対面は、ひときわ味わい深い。何しろこの夏は私も廬山に行って、滝(三畳泉)を見てきたのだから! しかし現地の記憶と照らし合わせると、この作品は写実に基づいたものではなく、記憶に残る印象を自由に楽しく再構成したもの、いわばシャガールの「幻想絵画」みたいなものだと感じた。遠景にかすむ小さな五つの峯は五老峯なのかな? 石濤の『黄山八勝画冊』『山精品冊』も全図めくり替えあり。ええ~「友の会」割引とか作ってほしい…。それでも連日午後4時30分閉館って、許せないなあ。

 図巻は原則として一気に全面公開。これは嬉しかった! 京都では、龔賢『山水長巻』、漸江『竹岸蘆浦図巻』など、少なくとも毎回全面展示ではなかったように思う。この第1室「明末清初」の透明な空気を呼吸していると、肺腑の中から俗世間の塵が抜けて、細胞から生き返るような気がした。

 第2室は、人物画・山水画・花鳥画のパートに分けて、名品を公開。後期(11/14~)から一部展示替え。おなじみの作品が多いが、入れもの(展示室)が違い、壁に吊るす高さや順序が違うと、なんとなく印象が違って見える。あまり記憶にない作品もあって、面白かった。さて、これで東京にも明清絵画ファンが一気に増殖するのだろうか。
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穴場の紅葉狩り/おひとり京都の秋(柏井壽)

2012-10-14 12:21:38 | 読んだもの(書籍)
○柏井壽『おひとり京都の秋』(光文社新書) 光文社 2010.9

 夏→秋→冬→春と続く京都案内シリーズの第2作目。私にとっては、3冊目になる。冬→春と読んできて、面白かったので、残りも読もうと思っていたのだが、最近、東京の書店では在庫を見かけなかった。先日、関西に出かけて、京都駅構内の書店に入ったら、さすが地元には揃えてあったので、折りもよし「秋」を読むことにした。

 観光客・修学旅行客であふれかえる「秋」は、「おひとり」がいちばん似つかわしくない季節のような気がする。そのせいか、ほかの季節に比べると、なるほどと膝を打つような穴場の紹介は少ない。月を思うなら桂離宮に銀閣寺、萩の名所は梨木神社。季節を代表する行事は時代祭と鞍馬の火祭。…しごく順当なラインナップだと思う。

 「穴場で紅葉狩り」に挙げられていた「八神社」(銀閣寺町)、洛北の「鷺森神社」(修学院宮ノ脇町)「八大神社」(一乗寺松原町)は知らなかった。ひとくちに神社仏閣というけれど、私は仏像拝観を楽しめるお寺のほうが好きで、神社の参詣を楽しめるようになったのは、つい最近なのだ。「達磨寺(法輪寺)」(上京区)は、名前だけ聞いたことはあったが、あまり訪ねることの少ないエリアなので、行ったことがなかった。

 記憶にとどめておこうと思った情報のひとつは、路線バスに乗って楽しむ紅葉。著者のおすすめは京都市バスの37号系統だという。三条京阪から西賀茂に至る路線だ。紅葉だけでなく銀杏(紫明通)も楽しめるというのに惹かれる。晴れた日の夕暮れが絶好というが、いつかそんなシチュエーションにめぐりあえるだろうか。賀茂街道を北に進むとき、賀茂川は右手に見えるので、右側の座席に座ること、というのも忘れずに。あと、下鴨神社の流鏑馬が行われる馬場の紅葉がすばらしい、というのも納得。緑の季節にしか行ったことがないが、想像はできる。

 美味いもの紹介は充実していると思ったが、価格的に私の感覚と合わないので、さらりと読み流した。大人のひとりランチは2千円くらいを「リーズナブル」ととらえるものか…。

 例によって、近江(滋賀県)の観光スポット紹介にもページが割かれている。そりゃあ、やっぱり秋は、永源寺~湖東三山~多賀大社だろう。永源寺のそばにあるという日登美美術館は知らなかった。バスで行けることになっているが、どのくらい便があるのかなあ…。

 実は、先週末の三連休旅行は、京都にも大津にも宿がとれず、少し離れた「草津」に初めて泊まったのだが、思いのほか、駅前が繁華で、暮らしやすそうだった。本書の著者は、週末を草津で生活するようになって半年あまりという。以前読んだ2冊にも、そのことは触れられていたのだが、すっかり忘れていた。本書には、草津駅前の美食の店がいくつか紹介されていて、ああ、この店あったあった、とすぐに思い浮かんだ。滋味康月、坐空、金燕の家。次の機会のためにここにメモしおく。
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西武沿線の思想史/レッドアローとスターハウス(原武史)

2012-10-14 00:31:43 | 読んだもの(書籍)
○原武史『レッドアローとスターハウス:もうひとつの戦後思想史』 新潮社 2012.9

 鉄道論から天皇論まで、原先生の著作は、ずっと追いかけてきたが、少年時代の実体験と戦後思想史を重ね合わせた『滝山コミューン1974』は衝撃的だった。ほぼ同じ時代を同じ東京で過ごした私には、無条件に「よく分かる」部分もあれば、全く「分からない」部分もあった。前者は、私もまた、戦後思想史の中で成長してきたのだ、ということを再発見させてくれたし、後者は、東京西部の団地育ちの著者と、下町の(狭いながらも)一軒家育ちの自分の文化的差異を認識させてくれた。

 本書は、いわば「滝山コミューン前史」である。記述は、1915(大正4)年、西武池袋線の前身である武蔵野鉄道の池袋-飯能間が開業した当時まで遡る。武蔵野鉄道は1935年に破産し、西武の総帥となる堤康次郎が経営再建に乗り出す。1930年代から40年代にかけて、この地域(清瀬市~東村山市)には、ハンセン病患者や結核病患者の療養所が次々に建てられ、西武の各駅は患者や見舞客に利用された。

 戦後は、西武の「天皇」と呼ばれた堤康次郎によって、沿線の開発が進められた。猪瀬直樹の『ミカドの肖像』を読んだのはずいぶん前だが、団地の話は出てきたかなあ。本書によれば、50年代から70年代にかけて、西武沿線には公団や都営の大型団地が次々に建てられ、「団地を主体とした西武的郊外」が現れる。これは、堤のライバル・五島慶太が東急沿線に、時間をかけて一戸建て主体の郊外を作ろうとした戦略とは大きく異なっていた。

 興味深いのは、その意図せざる結果である。集合住宅の設計は、1920年前後にオランダやドイツで始まったが、量産住宅(マスハウジング)の工法は、主に社会主義諸国で普及していく。日本でも、初期の団地にはスターハウスやテラスハウスなど個性的な設計が見られたが、やがて「団地サイズ」に規格化していく。その結果、堤康次郎が徹底した「親米反共」主義者であったにもかかわらず、西武沿線の風景は、限りなくモスクワに近づいていった。確かに、著者が撮影したモスクワの集合住宅の写真を見ると、キャプションがなかったら、見慣れた日本の団地風景にしか見えない。

 さらに、団地周辺の不十分な社会インフラは、入居者の問題意識、政治意識を目覚めさせた。活動の中心となったのは主婦であった。また、この頃、多くの共産党員や共産党支持者が、西武沿線の団地に入居している。

 1968年、滝山団地の分譲が始まり、著者の一家も69年に移り住む。久留米町(当時)の町長は、団地の代名詞ともなったひばりが丘が全戸賃貸であったため、住民意識が育たないこと、共産党の地盤になりやすいことを案じて、分譲タイプの団地を希望した。しかし、滝山団地の自治会は、事実上共産党によってつくられた、と著者は指摘している。彼らが、ひばりが丘団地自治会から継承した問題意識は、西武鉄道の通勤ラッシュに対する無策・放置だった。

 にもかかわらず、西武はラッシュ緩和よりも観光開発を優先した。69年、秩父線が開通し、特急レッドアロー号が走り始めた。団地自治会の反応は冷ややかだったが、西武のイメージを大きく変えることになる。これにはリアルタイムの記憶があって、70年代はじめ、東京下町の私の一家は秩父に一泊旅行に出かけた。たぶん(高級感のある)レッドアロー号が走っていなかったら、わざわざ出かけなかっただろうと思う。

 著者がレッドアロー号の開通をもって、主な記述を留めているのは、1970年が戦後史の転換点とみなされているためだろう。あとは駆け足で、70年代以降、より大規模な「ニュータウン」の時代に入っていくこと、80~90年代には、団地住民の高齢化と人口減少が進み、一戸建て主体の開発を進めてきた東急沿線の「成功」との対照が際立つようになったことが語られる。

 このように、西武沿線、中央線沿線、東急沿線では、鉄道インフラの性格の違いが、沿線住民の生活を規定し、それぞれ異なる政治意識を生み出す母体となった。それゆえ著者は「戦後思想史を一国レベルで語ることの危うさ」を指摘する。ナショナル・ヒストリーの克服には、海域アジアのような、より大きなエリアで人・物の流れを考える方法もあるが、本書のようにローカリティにこだわるのも、ひとつの方法であると思う。
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大津祭2012・宵宮

2012-10-13 19:33:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
昨年(2011年)に続き、二度目の大津祭に来てしまった。縁ができるとこんなものかな。

京都の祇園祭に比べると、ずっとのんびりしていて、全体に街が暗いので、提灯(もちろん電灯だけど)の明かりが際立って、懐かしい感じがする。



宵宮の楽しさは、曳山(町内)によって異なるお囃子を聴き比べて歩くところ。



子どもたちが叩いているのは「鉦」。博物館の展示ケースでしか見たことがなかったこの楽器の音色が耳に、というより体に沁み通っていく。



祇園祭ほどではないが、ときどき、こんなしつらえをしている旧家も見かける。



同じ家の一階。昨年のアルバムを見たら、昨年はこの人物画屏風がニ階に飾られていた。



ひととおり曳山を見てまわり、最後に到着したのが西行桜狸山。ところが、からくり(人形)だけで、昨年、印象的だった「狸面」がない。あれ?どうして?と思い、聞いてみようと思っているところに、サアッと雨が落ちてきたので、あきらめて、駅に急いだ。あとで昨年のアルバムを確かめたら、からくりと狸面は、別の家に飾られていたようだ。

翌日の本祭は見られなかったけど、ちま吉ウェブサイトによれば、よく晴れたみたい。よかったね。縁があったら、また来年。
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2012秋@関西:飛騨・美濃の信仰と造形(岐阜県博物館)

2012-10-11 23:33:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
岐阜県博物館 特別展『飛騨・美濃の信仰と造形-古代・中世の遺産-』(2012年9月21日~10月28日)

 岐阜県を「関西」に入れては叱られるかもしれないが、東京人から見れば、大雑把に「西のかた」なので、お許しを。この展覧会の噂を聞いて、岐阜県博物館って、一体どこにあるんだ?と探すことから始まった。同館のホームページでアクセス方法を調べたら、JR岐阜駅からバスで約40分(日中は1時間に2、3本)。さらにバス停から20分ほど歩くという。うーむ。でも、前泊の草津(滋賀県)から(新快速)→米原→(特別快速)→岐阜の乗り継ぎが意外とよかったので、行ってみることにした。

 バス停「小屋名」で下りたときは、見晴らしのいい田野が広がっているばかりで呆然としたが、携帯の地図情報をたよりに、なんとか岐阜百年公園にたどりつき、博物館を見つけた。恐竜・動植物など理科系の展示と人文歴史系の展示が併設されている。


※反対車線のバス停。田圃の先に見える(?)青い橋を渡った先が岐阜百年公園。

 特別展は、広めの1室を使い、展示替えを含め、約50件が出品されている。「信仰と造形」という、かなり大括りなテーマで、仏像・神像・絵画・工芸・文書資料など、ゴッタ煮の感に少しとまどう一方、多様な文化財を一度に見ることができる、お得感もあった。

 いちばん印象に残ったのは、金銀獅子唐草文鉢(奈良時代・護国之寺)。線刻の獅子の躍動感が素晴らしい、と現場で思ったのだが、あとで図録写真を見たら、もっと複雑な文様で全面的に覆われていることが分かった。「唐の製品を日本で模した作品とする考えもある」そうだが、契丹伝来だったりしないかしら。

 仏像は鎌倉ものが多かったが、横蔵寺の小さな金銅仏・薬師如来立像(奈良~平安時代)が気に入った。小さなおみ足が抜群に可愛い。右手で偏衫の端を握っており、この形式の薬師如来は「他に滋賀県・聖衆来迎寺像がある」と解説にいう。先だって三井記念美術館の『琵琶湖をめぐる近江路の神と仏 名宝展』で拝見したばかりだ。大小2件の狛犬にも惹かれた。どちらも美濃の山中を狩人とともに暮らした猟犬の姿を彷彿とさせた。

 神像が10件。顔をよく見ると、いずれも眉を高く彫り残し、まぶたを盛り上げ、半開きの眼球は下を向く。ところが、後代になると、まぶたと眼球の境が不明瞭になって、カッと見開いた目に改修されてしまう…ような気がした。高山市・阿多由太神社の随身像2体は、本当に平安時代の彫刻?と疑うような造型。昭和のマンガに出てくるロボットみたいだった。展示替の関係で、永保寺の南宋画『千手観音像』(10/10~展示)が見られなかったのは残念。東博の『中国書画精華』で見たのは2011年だったか。もうずいぶん前のような気がしていたのに。

 なお、ついでのつもりで入った別室の特別展『岐阜、染と織の匠たち 人間国宝三人展』(2012年9月21日~11月4日)もよかった。三人の染織家、山田貢、宗廣力三、土屋順紀の作品を展示。どれも実際に手を通したくなるような魅力があった。東京の世田谷美術館や近代美術館の所蔵品に、こんなところで感銘を受けるとは。

(10/13写真追加)
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2012秋@関西:小浜「みほとけの里 若狭の秘仏」再訪

2012-10-10 23:21:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○「みほとけの里 若狭の秘仏:平成24年度秋の文化財特別公開」小浜西組(正法寺、常高寺など)~加茂神社~圓照寺~妙楽寺

 先々週に続き、再び東京から小浜を訪ねたのは、この「みほとけの里 若狭の秘仏」企画を成功させて、ぜひ来年度も実施してもらうためである。せちがらいようだけど、このごろ、大人の応援は、口だけでなく、自らお金(と時間)を使うことだと考えるようになった。

 もっとも、10月7日午後の秘仏めぐりツアー「D1:千手観音菩薩と北陸随一の日大如来をめぐる」は、私が最後の21人目で、ツアーに参加できなかったご家族が、自家用車で同じルートをついてまわっていたほどの盛況だったので、要らぬ気遣いだったかもしれない。

 先々週、教わったばかりのJRバス若江線を利用。10:30頃に小浜駅に到着し、午前中は駅周辺を歩いて観光することにした。小浜に到着する直前から雨が降り出してきたので、駅の売店でビニール傘を買い、「小浜西組」と呼ばれる重要伝統的建造物保存地区を散歩する。街並みには風情があるが、ほとんど人の姿がなくて寂しい。同地区には、今回の「特別公開」の対象となった誓願寺・極楽寺・高成寺などがあるが、いずれもこの日はひっそりと扉を閉ざしていた。栖雲寺は、おや本堂に灯りがついている、と思ったのだが、どうやら法事らしかったので、近づいて中を覗くことはやめにした。



 この日「特別公開」をしていたのは正法寺1ヶ所だけ。寺務所に人の姿があったので、声をかけてみると、おばあちゃんの尼さんが「いま団体さんが帰って(法衣を)脱いだところやわー」と笑いながら、法衣をつけて、本堂に来てくれた。中年のご夫婦が、内陣の明かりをつけようとして「つく?」「つかん」と話している。暗くて、ご本尊が全然見えないのでガッカリしかけたが、「こっちへいらっしゃい」とお厨子の真正面に案内いただき、お嫁さん(?)が懐中電灯で照らしてくれた。50センチくらいの金銅製の半跏思惟像が浮かび上がった。

 あとで解説を読んだら「鎌倉時代後期の復古金銅像」だという。おばあちゃんの話では、海の中からあがったという言い伝えがあるそうだ。「どこから来たの?」と聞かれて「東京からです」と答えたら驚かれた。ちょうど雨が激しくなったので「遠くから来ていただいて、観音さんの嬉し涙やわ」と言われて恐縮した。こうしてご家族だけで文化財を守っていくのは、いろいろご苦労のあることだと思う。今回の特別公開について「来年もやるという話を聞いていますが…」と水を向けたが、お嫁さんは「いやあ、うちはもう勘弁してほしいわあ」と及び腰でいらした。

 ご朱印をいただきながら、拝観料を求められていなかったことに気付いて、お釣りだけお納めしてきたけど、ほんとはもう少しお包みすべきだったんだろうか。悩む。先々週のご朱印を見ながら「○○寺はご住職の字やね」など話がはずんだ。立ち上がったときは、また雨が小降りになっていて「心がけがいいね」と誉められた。機会があったら、また来年も立ち寄りたいお寺である。もう1ヶ所、常高院(お初)の墓所のある常高寺も拝観。


↑正法寺さん

■加茂神社(為星寺)

 午後はツアーバスに乗車。雨はあがって、雲が切れてきた。先々週と同じガイドさんだったが、バスはひとまわり小さい。山道や集落内の細道を行くので、申し込み者が増えても、21人乗り以上のバスは出せないのだそうだ。
 
 加茂神社の(正確には、加茂神社が管理している為生寺本堂の)本尊・千手観音菩薩立像は平安時代の作。腰が細く、顔立ちも美しい。今年は33年に1度の本開帳にあたり、9/15~9/17は大勢の参詣者で賑わったという。このほか、9/30、10/6、10/7は文化財めぐりツアーのために公開されたが「たぶん皆さんが最後のお客さんです」という。「午前のツアーで、今日は本開帳最後の日なので、特別にひとり1枚だけ写真を撮ることを許可していただきました」とガイドさん。うわー感激。

 扉の横に立っていたおじさん(地区長さん?)に「また33年間は開けないんですか」と聞いたら「いや、たぶん来年も…。本開帳の前後はね」とおっしゃっていた。実際は17年目に中開帳もするらしい。正法寺さんも33年に1回が正式だが、17年に1回は開けないと次に伝わらないから、とおっしゃっていた気がする。


↑控えめの画像で載せておきます。(※小浜観光協会サイトに写真あり

 拝観のあと、なぜか駐車場でバスを乗り換える。最初のバスの調子がよくなかったらしい。ひとまわり小型の車両だが席数は変わらず(やや多め?)。ただしマイク設備がないので、ガイドさんは地声で喋る羽目に…。もう何でもありだなあ。



■圓照寺(円照寺)

 2.5メートルを超す大きな大日如来坐像を安置。江戸時代に金箔を施されてしまったが、よく見ると、定朝様式の面影の感じられる優品。物知りな住職さんの話が面白かった。このご本尊、某先生は10世紀の作というが、別の文化庁の技官さんは12世紀の作と言っており、200年の開きがあるとか。

 また、昭和30年代、のちに奈良国立博物館長をつとめる倉田文作先生が「秘仏展」開催準備のため、小浜の仏像を調査に見えた。そのとき注目されたのが、羽賀寺の十一面観音と多田寺の薬師如来で、前者は33年に1度ご開帳の秘仏だったのが、以後、公開されるようになった。後者、多田寺の薬師如来は、田舎風の顔立ちで「地方の駄仏」だと思われていたが、「顔から下」のシャープな衣文は神護寺の薬師如来に匹敵すると評価され、一躍、名をあげた。…なので、みなさんの中にも、うちの仏さまを評価してくれる方がいらっしゃらないかと思うのですが、というのが話のオチである。

■妙楽寺

 鎌倉時代初期建立の本堂は、若狭における最古の建造物。湿り気を含んだ桧皮葺が美しかった。本尊は、顔の左右の菩薩面をあわせて24面、大小あわせて実際に千本の手を持つ異相の観音さま。平安中期作。背後の別室に彩色塑像の二十八部衆が祀られているのを見て、ここ、むかし来たことがある!と20年以上前の記憶がよみがえった。ガイドさんの話でも、ここは「国宝めぐり」バスツアーの定番コースであったらしい。地蔵堂のお地蔵さん、薬師堂のお薬師さんもいいなあ。朱印所でみうらじゅんのサイン色紙を発見。


 
 以上でツアー終了。ガイドさんの話では、以前の「国宝めぐり」ツアーと違って、今回は、観光客の受け入れに慣れていないお寺さんも組み込んだので、「正直、九月中は大変でした」とのこと。ようやく慣れてきたところで、この企画が終わってしまうのは残念だが、「どうやら来年度も実施にむけて動き始めたようです」とおっしゃっていた。万々歳。来年もぜひまた来たいと思う。次回こそは小浜泊まりでお金を落とします。

(10/13写真追加)
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2012秋@関西:石山寺縁起絵巻の全貌(滋賀県立近代美術館)

2012-10-09 23:57:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
滋賀県立近代美術館 企画展『石山寺縁起絵巻の全貌~重要文化財七巻一挙大公開~』(2012年10月6日~11月25日※)

 この旅行は、先々週の突発的関西行きより先に決まっていたのだが、同行予定だった友人が体調を崩して取りやめたこともあり、週末、東京にもいろいろ魅力的なイベントがあったので、かなり迷った。けれども、結局、一期一会の確率が高いほうを選ぶことにして、ひとりで西に向かった。

 初日の目的は、まずこれ。石山寺が所蔵する重要文化財本全7巻を一挙公開する初の試みである。これは不思議な成立の経緯を持つ絵巻物であったはず、と解説パネルで確認(以下は図録から)。

・巻1~3:絵は高階隆兼派(鎌倉時代末期)、詞書は洞院杲守(南北朝時代後半)。
・巻4:絵は土佐光信(室町時代)、詞書は三条西実隆(室町時代)
・巻5:絵は絵師不明(南北朝時代)、詞書は冷泉為重(南北朝時代)
・巻6~7:絵は谷文晁(江戸時代19C初)、詞書は飛鳥井雅章(江戸時代17C中葉)

 過去の記録を調べたら、私は東博で巻7を、京博で巻3を見ているらしい。記憶に新しいのは、2009年、そごう美術館の『石山寺の美』展で、江戸時代の模本をいくつか見ながら、いつか本物を見たいなあと願ったことをよく覚えている。以下に梗概と私の注目ポイントを記しておくと、

・巻1:石山寺創建の由来と、その後の(平安初期の)霊験譚。導入部の背景の山並みがものすごく綺麗。緑と青、わずかな黄の作り出す様式美。水クラゲが立ち上がったような樹林の表現。琳派だ~と思った。続いて、大工、楽人、僧侶、御幸に従う貴族たちなど、さまざまな身分の人々が、ストーリーに関係なく、自由な表情を垣間見せる。

・巻2:引き続き、さまざまな霊験譚。道綱母も登場。後半の、歴海和尚が寺内の古池(龍穴)で龍たちの点呼を取る図がかわいい。いろんな龍がいるものだ。紺碧の池に桜吹雪の散りしく深山の風景も美しい。

・巻3:東三条院の石山寺参詣の図が冒頭から大半を占める。巻末に春日権現絵巻を思わせる雪景色あり。

・巻4:冒頭に紫式部。この絵巻は女性の登場が多い。あと、夢告譚も目立って多い。承暦年間に石山寺が火災に遭い、本尊観世音菩薩が火中から飛び出して、池の中島の柳の枝にかかってきらきら輝いた霊験譚を記す。いまの石山寺のあの池だ、と分かるところがすごい。

・巻5:この巻も夢告譚から。中ほどに登場する巨体の牛がインパクトあり。井戸のそばの小童が洋猫みたいな顔立ちの猫を抱いている。鳥羽院、藤原忠実など、登場人物は平安末期。

・巻6:頼朝の乳母・亀谷禅尼の信仰あつく、石山寺は関東御願寺となる。それにしても、谷文晁の画力というか、古典の模倣力はすごい。特にこの巻では、たぶん『平治物語絵巻・三条殿夜討巻』を参考にしているんだろうけど、猛火の表現がすごい。

・巻7:これは私のいちばん好きな巻。巻6の猛火に対して、こちらは、黒雲の下、逆巻く波濤のすさまじさを表現する。巻6の猛火はお手本があるが、こっちは文晁のオリジナルだろう。よく見ると、暗い波間に沈んでいる男たちが亡霊のように描かれており、応挙の『七難七福図巻』の水難図を思わせる。

 眼福~。模本や関連資料も多数出ており、特に興味深かったのは、京博が所蔵する『石山寺縁起絵詞』(南北朝時代)。重要文化財本全7巻の詞書とほぼ同一のテキストだけを筆写しており、絵の入るべきところには「絵」と記されている。当初から7巻33段の構想があったことを示す資料と言える。なるほど、絵巻って、こうやって作られていくのか…というのが、生々しく感じられた。でも図録の解説を読むと、現存絵巻のテキストとの微妙な差異が、また重要らしい。

※なお、上記会期のうち、重要文化財本7巻が全て見られるのは、10月6日~14日と11月13日~25日のみ。でも短期間でも、一度で全部見られる期間を設けてくれたのは、遠くから行く者にとって、たいへんありがたく、良心的だと思う。

 このあとは、京都・東寺にまわって『弘法大師行状絵巻』12年ぶり全巻展示(前後期入れ替えあり)も見ていこうと思っていた。ところが、宝物館は、てっきり17時閉館(16時半入館終了)だと思っていたら、16時半閉館(16時入館終了)だった。私が宝物館に到着したのは、16時10分過ぎくらい。「ダメですか?」と、一度はすがったのだが「もうレジ閉めちゃったんで…」と受付のお兄さんに言われて諦めた。ビジネスライクだなあ、東寺。寺としては、ちょっとガッカリだが、これだけシステマティックに経営をしている状況では仕方あるまい。

 少し早いが、大津の街へ。昨年に続き、大津祭の宵宮を楽しむ。今年の写真は後ほど。
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