見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

呪いにかえて、敬意を/呪いの時代(内田樹)

2012-10-08 23:57:37 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『呪いの時代』 新潮社 2011.11

 「この本の中で私は別に目新しい知見を語っているわけではない」というのは、著者の「あとがき」の一文である。「あいつはダメだ」「こいつはくだらない」という嫉妬や憎悪、呪詛の言葉は何も作り出さない。だから、私たちの意識を、呪詛から祝福へ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け入れることへシフトさせよう、と著者は語りかける。

 実際、何も新しくない。これまでの著作で、著者は何度も同じことを語っている。でも何度でも同じ言葉が聞きたくて、私は内田さんの本を読む。そして、内田さんの本がそれなりに売れていることに、まだ日本の社会に絶望しなくてもよさそうだ、という希望を感じるのである。

 著者の主張は、長い年月、人々が語り伝えてきた智慧に根ざしている。だから著者は、しばしば古典を引用する。たとえば、能(謡曲)の『鉢の木』。主人公の佐野源左衛門は、社会的なアンフェアによって全財産を失っている。しかし「こんな社会システムである限り、自分は浮かばれない」と呪うのでなく、どんなアンフェアな社会でも「局所的にフェアネスは生き延びている」ことを信じ、不遇と極貧の中でも身銭を切って他者を歓待し、幕府への忠誠心を失わなかった、そのことによって、社会的なフェアネスは息を吹き返した、と著者はこの物語を読む。いいなーこの解釈。本書の後半に出てくる能『安宅』の解釈も好きだ。古典を読むことの本義は、自然とこういう智慧を身につけることではないかと思う。

 私が本書でいちばん心に残ったのは、他人に届く言葉の発しかたである。冒頭で著者は「情理を尽くして語る」という成語を引用する。懐かしいなあ、この表現自体、耳にしなくなって久しいような気がする。人が冷静に、相手の立場を気遣いながら、妥協点を手探りするディベートを一度も「生で」見たことがない子どもは、この言葉の意味が分からないだろう。それは彼らの罪ではない。確かに、それは先行世代の責任だ。

 別の箇所では「リーダビリティ(readability)」という術語が用いられている。リーダビリティを構成する条件は、表現者の受信者に対する敬意である。しかもパーソナルな敬意こそ最強だ。人はどれほど分かりにくいメッセージであっても、そこに込められた「自分に対する敬意」だけは見落とさず、必死に耳を傾けようとする。このことを著者は、旧約聖書にのっとって、ユダヤ=キリスト教の太古の智慧から証明しようとする。また中学生や高校生が太宰治を耽読する理由も、この読み手の知力に対する敬意、それゆえ生まれる「切迫感」にあるという。

 いまの社会は、いかに鮮やかに相手を叩きのめすかを競い合う「呪い」が蔓延する一方で、そうした現実の裏返しなのか、学校でも企業でも、コミュニケーション能力を人材条件とするところが多い。しかし、そこで期待されるコミュニケーション能力とは、受け手のレベルに合わせて、読みやすい、分かり易い情報を発信することであって、「敬意」の有無まで掘り下げた議論は、たぶん、ほとんど聞いたことがない。

 本当にその人の知的な枠組みを根底から作り替えようと望むのなら、その人の知性を信頼するしかない、というのは、美しくて重い言葉である。それが常識に登録されるまで「僕は執拗に語り続けるつもりです」という著者の覚悟も重い。私はそこまで他人への信頼を持ち続け、発話し続ける自信がないが、せめて無駄な物言いをつつしみたいと思った。

 また、全然論点の異なる話題だが、日本人の英語が一向にうまくならないのは、心の底に「攘夷」マインドが生きているためではないかという指摘も非常に面白かった。個人的には納得できる。でも、あと一世代くらいで、いよいよ劇的に変わるかもしれない、という予感もしている。
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明治文壇「炎上」/文豪たちの大喧嘩(谷沢永一)

2012-10-08 19:56:01 | 読んだもの(書籍)
○谷沢永一『文豪たちの大喧嘩:鴎外・逍遥・樗牛』(ちくま文庫) 筑摩書房 2012.8

 高校時代に聴いた文学史だったか、大学時代の文学史講義だったか、もはや記憶が曖昧なのだが、明治の一時期を「論争の時代」と習った記憶がある。いまネットで確かめてみようとしたら、ぴったりする学説があるわけではないようなので、たまたま私が教えを受けた教師が、そう名付けて整理しただけなのかもしれない。きっと、さぞかし高尚な、文化と学術の進歩に寄与する内容の議論が行われたのだろうと、30年以上信じてきた。それがまあ…というのが本書である。取り上げられている主な論争は以下の通り。

 (1)鴎外-芝廼園(しばのその)の水掛論争
 (2)鴎外-忍月の醜美論争
 (3)鴎外-忍月の舞姫論争
 (4)鴎外-逍遥の没理想論争
 (5)鴎外-楽堂の傍観機関論争
 (6)鴎外-樗牛の情劇論争
 (7)鴎外-樗牛のハルトマン論争
 (8)鴎外-樗牛の審美綱領論争
 (9)樗牛-逍遥の史劇論争
 (10)樗牛-逍遥の歴史画論争
 
 (5)は医学・医政をめぐる論争で、楽堂とは雑誌『医事時報』の主筆・山谷徳治郎である。あとの登場人物は、広義には文学者、ただし多くの論争のテーマは、文学というより、審美学もしくは哲学の範疇に属すると思う。

 何しろ「論争」というものが、まだ日本の社会に根付いていなかった時代のことである。健全な論争を成立させるための最低限のルールや定型的なかけひきの応酬を、論争の当事者も観衆(読者)もよく分かっていない。いや、当事者たちは、いずれも当時の大知識人なのだから、海外の論争事情を理解していてもよさそうなものだが…そもそも先進文明国の論争事情もこんなものだったのかな。私はよく知らないのだが。

 そして、著者が、当時の論争を「面白く」紹介することに努めている所為もあるのだろうが、読み始めて「なんだこれは」と呆気に取られてしまった。これと睨んだ人物(文章)に噛みつき、片言隻句を(誤字の類まで)取り上げて、ねちねちと難癖をつけ、反撃を食らえば、さりげなく論点をずらし、木で鼻をくくったポーズであしらう。舶来の理論を完全無欠・絶対無謬の根拠として崇めたてまつり、それに対する説明責任は決して引き受けない(鴎外におけるハルトマン)。時には、自分の立場(帝国大学教授の看板)やメディア(編集主幹をつとめる同人雑誌等)を利用して、アドバンテージを作り出すことも辞さない。

 いまどきのSNS「炎上」の構造と変わらないじゃないか、と思ってしまった。特に嫌らしく、執念深い論争家として描かれているのが文豪・森鴎外である。悪辣すぎて、逆に滑稽で微笑ましいくらいだ。しかし、上記の論争において、文豪・森鴎外につぶされた人々、石橋忍月や高山樗牛に対し、私は二流の文学者・知識人というイメージを抱いてきた。本書を読んで(小説作品の出来はともかく)忍月や樗牛のほうが、主張はずっと真っ当で近代的じゃないか、と再評価することになった。

 他人と争うことの嫌いな坪内逍遥は、鴎外の『小説神髄』批判に対し、へりくだって礼を尽くそうとしたため、明治大正期を通じて『神髄』読むに足らず、という不当な低評価に甘んじることになった。『神髄』の真価が見出されたのは、大正末期、評論家・木村毅の努力によるという。論争あなどるべからず。どんな手段を使っても、とりあえず勝てば(負けさえ認めなければ)官軍なのだ。

 その逍遥も、後年、樗牛相手にはかなり無茶苦茶な批判記事を書いている。樗牛をニーチェ主義者と決めつけ(このことは逍遥の誤解)、戯作調ではあるが、いやそれだからこそ、相手の身体に針を刺すような酷い攻撃文である。つけ加えれば、さらに後年、逍遥はこの文章を「逍遥選集」に採らなかったという。著者は逍遥について「日本人は外交と喧嘩戦争が下手だとよく言われるが、なるほど逍遥は生粋の日本人である」と評している。

 最後にもうひとつ、巻末の〆めの言葉も引用しておこう。「論争史に登場したひとびとは、みんな揃って野暮であった」。全くだね。
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忘れ去られた思想家/メディアと知識人(竹内洋)

2012-10-05 02:03:18 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『メディアと知識人:清水幾太郎の覇権と忘却』 中央公論新社 2012.7

 清水幾太郎(しみずいくたろう、1907-1988)の印象は、世代によって大きく異なるようだ。著者いわく「清水逝去は、わたしがそうであったように、40歳第後半以上のインテリには、巨匠逝くの感があった」という。これは、2012年の現在なら、60歳代後半(1940年代生まれ)の感覚だろう。清水の『社会学講義』(1950年刊)がむさぼり読まれた状況を、さすがに私は知らない。雑誌「世界」の創刊や平和問題談話会にかかわり、米軍基地反対運動や安保闘争において(揶揄でなく)進歩的文化人の代表と看做されていた、華々しい活躍の時代を知らない。

 私にとって清水の印象は、ひとことでいうなら、著者が、40歳代はじめの編集者に清水のことを話したときに返された答え「ああ、『論文の書き方』の著者ですね」と一致する。岩波新書『論文の書き方』(1959年刊)は、教科書や受験問題を通じて(著者は「昭和30年代半ばころまで」というが、私の実感ではもっと長く)読み継がれた。1960年代生まれの私は、右か左かという思想的なポジションとは全く無関係に、テクニカルな定番図書の著者として、清水幾太郎の名前を覚えた。

 しかし、清水幾太郎は、1999年には「忘れられつつある思想家」と言われ、もはや「忘れ去られた思想家」なのではないかという。ちょっとびっくりだが、10歳ほど下の同僚が「清水幾太郎」の名前を読めなかったことを思うと、誇張はないのかもしれない。

 むかし、明治や大正のことを調べてみると、今日では忘れられた言論人や知識人が華々しい活躍をしていて、同時代の影響力と後世の評価って、一致しないものなんだなあ、と感慨深く思ったことがあるが、どうやら清水もそのひとり、いや、著者の問題意識に従えば、清水は「代表的メディア知識人」であり、今日、活字やテレビで活躍するメディア知識人の原型であるという。しかも、清水は「メディア知識人」という役回りを、かなり自覚的に引き受けていたフシがある。何しろ「私は、芸人という言葉の持つ悲しい響きを大切にしたいと思います」とまで書いているのだ。

 著者は、清水の「メディア知識人」的生き方の由来を、彼の生い立ちに求める。清水は、山の手のインテリ家庭でなく下町の商家に生まれ、インテリに憧れ、正系学歴軌道に乗り込んで行く。しかし、師弟関係の軋轢から、東大教授への道を断たれ、いくぶん大げさな表現だが「街頭に放り出され」てしまう。そこから「私は文章を書いて生きていかねばならない」という覚悟が生まれる。のちに清水は「転向」を取り沙汰されるが、それも、世間とは少しズレたことを言って「読者を唸らせたい」という、メディア知識人の「業(ごう)」から生まれたものでなかったか、と著者は読み解く。

 面白うて、やがて哀しき、という感じがする。清水との対比で、正系(メディア的でない)知識人の丸山眞男、福田恆存らが登場する。でも彼らも、清水との差は「程度」であって、多かれ少なかれ、メディア知識人的要素はあったはずだ。では、何故、丸山眞男は忘れられず、清水幾太郎は忘れられたのか。清水の戦略が間違っていたのか。そして、現在のテレビ、活字、そしてネットメディアを飾る知識人・言論人たちの評価は、50年後、100年後にはどうなっているのだろう…。というようなことも考えさせられた。
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雅楽公演・伝統音楽の美(国立劇場)

2012-10-02 23:20:28 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 平成24年度(第67回)文化庁芸術祭オープニング・国際音楽の日『伝統音楽の美-雅楽-』(2012年10月1日、19:00~)

 本当は『伝統音楽の美-日中伝統の音を聴く』と題して行われるはずの公演だった。当初、企画されていたプログラムをここに記録しておこう。

・福建南音「四時景」「四宝独奏」「梅花操」「走馬」(福建省泉州南音楽団)
・雅楽 管弦「平調音取」「老君子」「陪臚」(宮内庁式部職楽部)
・舞楽 「萬歳楽」「抜頭」(宮内庁式部職楽部)
・梨園戯「玉真行」「賞花」「大悶」(福建省梨園戯実験劇団)

 まさに夏の中国旅行に出かける当日が「あぜくら会」のチケット売り出し日で、自宅のパソコンからチケット予約をかけて、空港に向かった記憶がある。ところが、その後、日中関係がもつれにモツレて、先週、「諸般の事情により、出演を予定しておりました福建省泉州南音楽団及び福建省梨園戯実験劇団が来日を取りやめ」ることになってしまった。あーあ。予想はしてたけど、ガッカリ。

 チケット代は全額返金。しかし、日本側の管弦・舞楽公演は行うという(観覧無料)。ある意味、お得になったと言えなくもない。そもそも中国の楽団・劇団目当てで誘った友人たち(いつもの中国旅行仲間)も来てくれるというので、予定どおり、出かけた。

 はじめの管弦は「老君子」の次に「五常楽 急」がプラスされた。「老君子」「五常楽 急」「陪臚」いずれも唐楽である。というか、パンフレット(これも無料)によれば、管弦で高麗楽はほとんど演奏されないのだそうだ。「陪臚」がいちばん勇壮な感じがした。空気を震わす太鼓の音が耳に残る。これは林邑八楽(※天平8年、天竺僧の菩提僊那と林邑僧の仏哲が我が国に伝えた曲目)の一で、五破陣楽の一にも数えられる。

 天平年間の伝来というけど、どのくらい古体を残しているのか。実は江戸時代の「復興」要素が強いんじゃないかな―などと言い合いながら聴いた。

 休憩時間のあと、幕が上がると、舞台の奥に控える楽人たちは、キラキラの「舞楽」装束に着替えていた。さっきまでが地味な直垂姿だったので、その落差が眩しい。舞楽「萬歳楽」が始まる。唐楽、左方の四人舞。唐の賢王の世を寿いで飛来した鳳凰の姿を現す。めでたくて、優美で、いかにも雅楽らしい舞だと思う。イケメン男子の舞人だったら、もっとイイだろうな…。宮内庁式部の高い芸術性にケチをつけるわけではないが。

 続いて「抜頭」。唐楽、林邑八楽の一つ。どことなく西アジアふうな、エキゾチックで、勇壮だけど寂しげな曲調。眉をつりあげ、金色の目を剥き、天狗のような赤ら顔のお面を付けた舞人が、ずんずんと大股で登場する。たぶんかなり大柄な舞人で、大柄なほうが似合う曲目である。「唐の妃が嫉妬して鬼になり楼(たかどの)を破り出て舞う姿」とか「胡人の子が親の仇である猛獣を殺して喜ぶ姿」とか、諸説あるが、エキセントリックな情念の表現であることは確かだ。何度も両腕を高く差し伸べ、髪を振り乱して、懊悩するように天を仰ぐ。

 いや面白かった。余談だが、二階席の最前列に皇太子夫妻がお見えで、二階席は全て赤いリボンをつけた関係者らしかった。そういえば、開演前に外のベンチで友人を待っていたとき「お待ち合わせですか? お入りのときだけ(←誰が、と言わない)ちょっとお立ちいただいてもいいですか?」と、慇懃に声をかけられたのはそういうことであったのか。

※抜頭面(しろくま堂オンラインストア)…怖い。
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