見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

治水の神話と歴史/中国の水の物語(蜂屋邦夫)

2023-07-15 00:28:12 | 読んだもの(書籍)

〇蜂屋邦夫『中国の水の物語:神話と歴史』 法蔵館 2022.5

 昨年、とても面白く見た中国ドラマ『天下長河』が、いまWOWOWで『康熙帝~大河を統べる王~』のタイトルで放映中だ。清・康熙時代の黄河治水を描いたドラマである。SNSの感想を覗きに行ったら、ドラマに登場する陳潢と靳輔に関する記述が、この本にあると書いている人がいたので読んでみた。本書は、中国の洪水や治水の神話をはじめとして、水利史や古代都市の防洪・排水問題、黄河や長江の流態など、現実の歴史に即した問題も一書にまとめたものである。著者は文学博士で、専門は老荘思想・道教とのこと。

 はじめに神話。中国の神話は、帝王・伏羲から始まると思っていたが、『韓非子』には、木の上に巣をつくることを教えた有巣氏、火を使うことを教えた燧人氏の伝承があるのだな。伏羲兄妹(妹は女媧)がひょうたんに入って洪水から助かる話はいかにも神話的だ。『史記』「三皇本紀」には共工という水神が登場する。共工は人面蛇身の悪神だが、もとは苦心して洪水を治めた者だという記憶がかすかに残されており、おそらく「洪水を防ごうと奮闘して失敗した者」ではないかと著者は考える。堯帝の時代に治水事業を担当して失敗した鯀(こん)も同じ。失敗した共工や鯀の治水は「堙(いん)」(埋め立て)方式であり、成功者として知られる禹の治水は「疏」(水路を切り拓いて海や長江に流し込む)方式だった。中国の治水方式は「堙」から「疏」へ発展してきたとも言える。

 続いて遺物や歴史に基づいて考える。私は中国の歴史が大好きだが、太古の時代(新石器時代)については詳しく学んでこなかったので、仰韶時代、龍山時代の暮らしぶりなど、興味深く読んだ。太古の時代、人々は集落のまわりを空壕(からぼり)や濠で囲んだ「環壕集落」に住んだ。これは軍事上の防衛というより、野獣の侵入や家畜の逃亡を防ぐためだったと考えられる。本書には、ぼんやりした円形を描く城壁と壕溝に囲まれた城頭山古城(湖南省)の空撮写真が掲載されているが、古典的な中国の古城のイメージとは全く違っていておもしろい。城内にはパッチワークのように水田が広がっている。さらに湖北の馬家院古城、河南の平糧台古城と殷・偃師古城、山東の斉・臨淄古城も紹介されているが、城壁の目的のひとつが「防洪」であったというのは、目からウロコのように思った。もちろん同時に排水・進水施設も重要だった。古代の水利施設で最も名高いのが、長江流域にある都江堰(四川省)と霊渠(広西省)である。都江堰には、むかし一度足を運んだはずだが、記憶が薄い。

 次に大きく時代を跳んで、明の潘季馴と清の陳潢による黄河治水を紹介する。16世紀中頃、黄河の下流は東南方向に向かい、淮陰(いまの江蘇省淮安市)で淮河と合流し海に注いでいた(にわかに信じられない!)。南北を結ぶ大運河も淮陰のあたりを通るので、黄河が氾濫すると漕運に影響が及ぶため、歴代の治水担当者は黄河をいくつにも分流させ、洪水の脅威を軽減しようとした。潘季馴は、この方式を抜本的に転換し、堅牢な堤防を築いて水流をまとめ、水流の力で、川床に堆積した泥砂を排除しようとした。さらに治水上重要な地点には減水ばい[土貝](あふれた水を再び本流に戻す施設)を設けた。陳潢は潘季馴の方式を継承するとともに、流量の計算方法を発明するなど、進化させた。

 さらに話題は現代へ。黄河は1950年代から90年代まで、しばしば「断流」を起こしていた。そういえば、90年代には聞いたことがある。流水量の減少に対して、用水量の増加、水の浪費も原因だったようだ。しかし、水資源の利用が総量規制されるようになり、制度化、規範化が進められた結果、1999年以降、断流は起きていないという。よかった。中国も捨てたものじゃない。

 長江の三峡ダムが着工したのも90年代で2009年に全体工事が完成し、2012年には発電所が稼働しているという。三峡下りには結局、まだ行けていない。一度行ってみたいものだ。なお、長江流域に黄河文明に匹敵する文明が生まれなかったのはなぜか。豊富な水をコントロールすることが原始人類の能力を超えていたこと、湿潤な風土ゆえに風土病の発声しやすい土地だったことを著者は挙げている。

 最後にもうひとつ、本書で知ったこととして、抗日戦争時代の1938年、国民党軍が日本軍の前進を阻むため、黄河の南堤を人為的に切って、大洪水を起こしたという話を書き留めておく。まるで古代か中世のような戦いが繰り広げられていたことに驚いた。

※7/16追記:本書には、中国北部の水不足を解消するため、長江の水を黄河上流に引く「南水北調」計画(1989年の朝日新聞の記事)が紹介されている。まさかこんな夢物語の計画、と思っていたら、本日付けで以下のような報道がネットに流れていた。

CRI(China Radio International)日本語:「長江の水を黄河へ 「引漢済渭」プロジェクトが西安へ送水開始」(2023/07/16)

すごいなあ。現代の陳潢と靳輔みたいな人が関わっているのだろうか、と想像した。

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図譜から抽象画まで/植物と歩く(練馬区立美術館)

2023-07-12 22:42:48 | 行ったもの(美術館・見仏)

練馬区立美術館 コレクション+『植物と歩く』(2023年7月2日~8月25日)

 同館のコレクションを中心に植物がどのように作家を触発してきたかを探る。いま、朝ドラ『らんまん』を面白く見ているので、牧野富太郎の植物図も出ていると聞いて、さっそく見てきた。

 冒頭には、東京帝国大学理科大学植物学編纂の『大日本植物志』第1巻第2集(明治35/1902年)。とても大きな版型だ。青い表紙で、タイトルや著者・出版者表記は全て英語。周囲をさまざまな植物、アジサイ、フジ、ユリ、アヤメなどの線画が囲んでいる。もちろん石版印刷。それから全部で6枚、この『大日本植物志』所収の図版が個別に展示されていた。私は目が悪いこともあって、花びらの湾曲した内側とか、尖った葉先とか、一瞬、墨のぼかしを使っているように見えたのだが、よく近づいてみると、細い線を密にに重ねて影の濃淡を表現していることが分かった。マンガでいう網掛けの技法と同じである。これらは「個人蔵」の注記がついていたが、いったいどなたの持ち物なんだろう。

 それから東京大学総合研究博物館が所蔵する植物標本も10点ほど出ていた。だいたいA3サイズの台紙に植物が貼り付けられている。「ホウキギ」の場合、元来の手書きの東京大学(帝国大学だったかもしれない)のラベルのほかに「Herbarium Universitatis Tokyoensis」(東京大学標本のラテン語?)と書かれたバーコードラベルが貼られていた。さらに「Brooklyn Botanic Garden」のラベルがあり「det. Steven Clemants, 1996」と読めた。調べたら、Steven Earl Clemants は、アメリカの著名な植物学者だった。「det.」は「Determinated by」で種名を同定したの意味(※植物標本のつくり方)。これは牧野博士の採集ではないが、イトザクラやヘビイチゴなど、牧野博士が採集したものもあった。「Coll.」は「Collector」の意味。「leg.」は難解だったが、ラテン語の「legit」を略したもので、英語の「collected by」と同じだという。

 「クサイ(草藺)」の標本は「Leg. T. Makino」で、採集地が「東京大学本郷構内」なのが可笑しかった。「バショウ」の採集地は「土佐高知」。「タカサゴユリ」は1896年、採集地は「台湾」である。牧野博士は台湾に外遊したのか、と思って調べてみたら、「台湾で『愛玉』オーギョーチーを見つけた日本の植物の父・牧野富太郎と、彼を描いた池波正太郎」(サライ、2020/10/8)という気になる記事を見つけたので、ここに記録しておく。

 牧野以外にも写実的な「図譜」寄りの植物画を残した画家として、岩崎常正(灌園)の『本草図譜』(大正版)や竹原嘲風の作品が紹介されていた。倉科光子は「tsunami plants」と題して、東日本大地震の津波浸水域に生えた植物を描き続けている。津波の後、それまでなかった植物が芽生え、一時的に繁茂して、また消えてしまう場合もあり、環境に適応して成長を続ける場合もあるという。災害と生命の関係について、いろいろ考えさせられる。

 2階の展示室には、何らかの意味で植物を描いたさまざまな作品が展示されていた。知らない画家が多かったが、とても楽しかった。本展のキービジュアルになっている、緑の茂みの中に1羽ずつ取り残された2羽のウズラ(たぶん)を描いた佐田勝の『野霧』はとても好き。よく見ると深い緑の中で目立たない花をつけている野草の姿がある。早川芳彦は、桃山の風俗画みたいな屏風絵あり、洋風の美人画あり、どちらもよい。佐藤多特は、1949年に尾瀬沼で水芭蕉を見て以来、40年以上水芭蕉を描き続けた。ただし、黒を背景にした同心円の円弧が小さな赤い玉でつながれている『水芭蕉曼荼羅(黄104)』など、極端に抽象化した姿である。このひとの作品がもっと見たい、と感じるものが多かった。

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中国鏡と倭鏡/めでたい鏡の世界(五島美術館)

2023-07-11 22:04:11 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 館蔵・古鏡展『めでたい鏡の世界』(2023年6月24日~7月30日)

 館蔵品から中国や古墳時代の古鏡約60面を展観する。軽い気持ちで見に行ったら、解説が充実していて、想像よりも面白かった。同館が古鏡の展覧会を開催したことがあっただろうか?と考えたが、思い当たるものがない。調べたら(「観仏三昧」のアーカイブによれば)2003年に『中国の古鏡展』を開催しているようだ。

 中国では「かがみ」は古くは「鑑」と書いたが、戦国時代から「鏡」を使うようになった。漢代の鏡は種類が豊富で、化粧道具として流布したほか、吉祥、魔除け、贈答品としても用いられた。冒頭に展示されていた『草葉紋鏡』(前漢時代・紀元前2世紀)の文様は、天に向かって伸びる宇宙樹を現わしたものだというが、簡略化されたデザインはアールデコふう。周縁を囲む連弧文は漢代の終わりまで用いられた。銘文には「見日光、天下大陽、服者君卿、延年益寿、敬毌相忘、幸至未央」とあり、おめでたそうな文字が並ぶ。本展のキャプションは、全て銘文を活字に起こして付けてあり、大変ありがたかった。

 漢代の鏡の「鏡式(きょうしき)」には、このほか「螭龍紋鏡(ちりゅうもんきょう)」「虺竜文鏡(きりゅうもんきょう)」「八禽鏡」「獣帯鏡」などがある。広い地域で長い期間用いられた鏡式もあれば、一定の場所や時期と結びついたものもある。「連弧紋鏡」は黄河より北に分布し、倭人に好まれ、倭鏡では「内行花紋鏡」と呼ばれている。「三段式神仙鏡」は五斗米道の展開と軌を一にして広まり、その終焉とともに制作されなくなったという。おもしろい。

 後漢時代の「浮彫式獣帯鏡」に「李氏作…」という銘文があり、もと官営工房の「尚方」に属していた鏡師の李氏で、図様には仙薬をつく兎、仙人など、新しい要素が多数見られるという。ほかにも「侯氏作」「石氏作」など鏡師の名を記すものはいくつかあった。

 三国時代の鏡は、だいたい漢代の鏡式を復活再生させたものだという。隋唐の鏡は華麗なこと、繊細なこと、この上ない。ロココの美学にも通じる。正倉院展で見るのもこの系統だ。でも、どこか呪術的な漢の鏡に私は惹かれる。

 日本では、紀元前4世紀頃から大陸の鏡が日本に将来されるようになった(はじめは北九州)。2世紀中葉から3世紀前半には機内が中心となる。3世紀中葉から4世紀には、大量の中国鏡(三角縁神獣鏡)がヤマト王権によって分配された。中国鏡が不足したため、機内では倭鏡の制作が始まったが、5世紀には下火になり、倭の五王が南朝の宋へ使者を送ったことで、再び中国鏡が流入した。威信財としての中国鏡は面数が重視されたが、倭鏡は大きさが価値を決めたというのもおもしろい。6世紀、前方後円墳が作られなくなると、倭鏡の制作も終焉した(展示解説から、ざっとメモ)。

 古墳時代(3~6世紀)に制作された倭鏡も多数出ていた。漢代の鏡に憧れ、必死にそれを模倣しているが、やっぱり技術的に追いついていない。文字を知らない工人が制作していたのか、文字の体をなさない「偽銘」が刻まれているものも多い。江戸時代、西洋絵画に憧れて横文字を真似てみた絵師たちのことを思い出した。このほか「鏡を愛でた人々」と題して、楊守敬や羅振玉、宇野雪村などの旧蔵品も展示。また、水禽埴輪や新羅時代の金銅馬具類が、古代への雰囲気を盛り立てていた。

 展示室2では大東急記念文庫の「書き入れ本と自筆資料」を展示。藤原頼長の識語のある『因明論疏』を久しぶりに見た。あやしい説話を含む『酉陽雑俎』に、謹厳なイメージのある林羅山が識語を残しているのも興味深い。すごいなあ。古鏡と書き入れ本、圧倒的に楽しかった。

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美しい爆撃機の記憶/B-29の昭和史(若林宣)

2023-07-10 00:28:23 | 読んだもの(書籍)

〇若林宣『B-29の昭和史:爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代』(ちくま新書) 筑摩書房 2023.6

 太平洋戦争(あるいは大東亜戦争、アジア太平洋戦争)について、今なお多くの日本人が、戦争末期の数か月間に行われた日本本土空襲を記憶している。本書は、太平洋戦争を象徴する存在となった爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスと日本人の歴史をひもとくものである。

 私は昔から「飛行機」と「空爆」の歴史に関心があって、この分野の既刊書をかなり読んできたが、新しく気づかされたこともいろいろあった。ひとつは、第一次世界大戦は人々が戦闘機どうしの空中戦を空の一騎打ちのように見なし始めた戦いであったが、戦略家は航空隊の圧倒的な優位性(前線を飛び越えて敵の補給路やはるか後方の生産施設を攻撃できる)に気づいていたという記述。「一騎打ち」とか「撃墜王」の清々しさは神話でしかないのだ。

 アメリカでB-29開発につながる動きが始まったのは1940年初頭である。このときアメリカはまだ参戦しておらず、最初から対日戦のために考え出されたものではないという。全長30メートル、全幅43メートル、自重30トンという巨体で、ジュラルミン合金を用いた全金属のセミモノコック構造。第一次世界大戦で用いられた飛行機がまだ「木製モノコック」でヨーロッパの家具製作の技術に倣ったものだったというのにもちょっと驚いた。本書にはB-29の全体像の図版(絵画?)が掲載されているが、四発プロペラエンジンが力強く、美しい。

 B-29の機体が「うつくしかった」というのは、当時の人々がしばしば語る印象である。本書は、こうした証言を丹念に収集していて興味深い。谷崎潤一郎が、機体の「スッキリしてゐて美しきこと云はん方なし」に加えて、プロペラ音に着目して「日本機のガラガラ云ふ音と異なりて、プルンプルンと云ふ如き振動音を伴ひたる柔らかき音なり」と書いていることも初めて知った。

 そもそも米軍は中国の奥地から日本本土を攻撃することを計画していた(目標は九州方面に限定された)が、1944年6月、サイパン島の陥落によって、太平洋方面からの本土爆撃が可能となった。1944年11月1日には偵察用に改造されたB-29が東京上空に初めて姿を現し、11月24日には中島飛行機武蔵製作所をねらった爆撃が行われた。以後、日本は無差別爆撃に徹底的に苦しめられるわけだが、その経験はわずか数か月間に過ぎないことをあらためて認識した。これでは「喉元過ぎれば熱さを忘れ」ても仕方ないかなあ、とも思った。

 1944年6月の北九州初空襲の後、大本営陸軍本部はB-29邀撃に関する戦訓を作成しており、そこには「最後には体当たりを以て撃墜するの断乎たる決意」という一節が見られる。そして、実際、8月の北九州爆撃では、体当たりによるB-29撃墜の例があり、盛んに報道・宣伝された。B-29に対する「特攻」が軍において組織的に企画・実行されるのは1944年11月からだが、それ以前から、一般大衆も帝国議会の議員も「体当たり」を称揚していたのである。

 1945年1月以降、激しさを増す空襲に苦しむ東京の様子は、警視庁カメラマンの石川光陽の『グラフィックレポート 東京大空襲の全記録』の引用で紹介されている。吉見俊哉氏の『空爆論』にも出てきた名前だ。伊藤整、山田風太郎、徳川夢声なども同時代の証言を残している。

 さて戦後である。徳川夢声は「娘たちは意識するとしないとに拘らず、B29を透して、戦勝国アメリカの男性に憧がれているのである」と日記に記した。しかし著者もいうとおり、B-29の向こうに「アメリカの男性」を見て、(自分のものであるはずの)日本の女性を取られる敗北感に歯噛みしているのは徳川夢声自身であろう。なかなかグロテスクな告白だと思う。

 1950年代にはB-29の性能ひいてはアメリカの科学力を讃嘆する論調が多く見られたが、無差別爆撃そのものの批判や反省にはつながらなかった。機能性(流線形)は美しい。しかし無差別爆撃に使用され、多くの命を奪ったB-29は本当に美しかったのか?という著者の問題提起は大事だと思う。そして『火垂るの墓』の著者である野坂昭如が、1978年、米国テキサスへ飛行可能なB-29に会いに行き、「俺は何をやっているんだ」という混乱した思いを書き残したエッセイ「慟哭のB29再会記」を知ることができたのもよかった。たぶん戦争の記憶は、きれいに整理するほど嘘になるので、さまざまな矛盾や混乱を含んだまま、受け止めるしかないのだと思う。

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2023扇風機買い替え

2023-07-08 22:13:32 | 日常生活

 家電製品は、壊れるまで使う習慣なのだが、扇風機を壊してしまった。稼働させた状態で場所を動かそうとしたら、ガードの隙間に椅子のレバーが挟まって羽根が欠けてしまった。欠けたのはわずかだが、羽根のバランスが崩れてしまったので、スイッチを入れると、ガタガタ不穏な音がする。これは駄目だなと観念して、翌日、近所のホームセンターで、安い「お座敷扇風機」を買ってきた。

 右が新しい機種で、重量が格段に軽いことにびっくりした。かつて実家から貰ってきた古い扇風機を、左の扇風機に買い換えたときも、ずいぶん小型軽量化したと思ったのに。

 左の壊れた扇風機は、表示を見たら「2010年製」だった。そうか、埼玉から東京に戻ってきた頃に購入し、そのあと、札幌→つくば→東京と使ってきたのだった。これからホームセンターに持っていって処分してもらうのだが、記念に写真を残しておく。お世話になりました。

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おうこくさんに出会う/木島櫻谷(泉屋博古館東京)

2023-07-05 22:04:56 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館東京 特別展『木島櫻谷-山水夢中』(2023年6月3日~7月23日)

  近年再評価がすすむ日本画家・木島櫻谷(このしま おうこく、1877-1938)の多彩な山水画を展観する。あわせて写生帖や収蔵品の古典絵画や水石も紹介し、櫻谷の根底にあり続けた心の風景を探る。

 私が櫻谷の名前を覚えたのは、この10年くらいの間だと思う。京都方面への旅行の計画があって、イベント情報をチェックすると、櫻谷に関する展覧会を見かけることがあった。いま調べたら、京都の泉屋博古館では、2013年、2017年、2021年にも櫻谷の展覧会を開催している。しかし、特に興味がなかったので、一度も見に行ったことはなかった。今回も、正直なところ、あまり期待はしていなかったのだが、行ってみたら、なかなか良かった。

 入館すると、いつもはガランとしたエントランスホールに大きな仮設の展示ケースが備え付けてあった。上から覗き込むタイプの平たいケースで、櫻谷が明治~大正時代に描き続けた、膨大な写生帖などが展示されていたが、後回しにして、展示室の作品から見ていく。第1室は、墨画や淡彩による伝統的な山水図が中心。6曲1双の大きな山水図屏風が4件(たぶん)並んでいて、本物の山水に包まれたような、ゆったりした気持ちで鑑賞することができた。

 第2室はエントランスホールの裏側の狭いスペースだが、本展の見ものが揃う。私が見たとき(前期)は『寒月』『駅路之春(うまやじのはる)』『天高く山粧う』の着色の6曲1双屏風3件。いずれも大正年間の作品である。『寒月』は竹林(常緑の広葉樹が少し混じる)の雪原をトボトボと歩き行く一匹のキツネ。灰緑色の空には低く上弦の月が掛かっている。白と深緑を基調にした色彩には、洋画の影響が感じられる。

 『駅路之春』は明るく華やかな色彩で描かれた楽しい作品。街道筋の茶店なのだろう、右隻には腹掛けをした二頭の馬。その横でこちらに背を向けて地面に腰を下ろしているのは駕籠かきだろうか。奥に空の籠も見える。茶店の縁台には、老若男女さまざまな人々が休んでいて、朱色の羽織(男性)や扇文様の華やかな振袖も見える。しかし人々の顔は笠や幔幕に隠されてあまりよく分からない。手前の木々は柳と桜だろう。桜の花は見えないが、細かい花びらが舞っている。この2作品で、私はすっかり櫻谷さんのファンになってしまった。

 第3室は大正から昭和、晩年の多様な作品を集める。山水画だけでなく、大きな画板(?)を立てかけて、創作に励む老境の自画像もあって、微笑ましかった。人物画や動物画ももっと見たくなった。それから、京都の旧家の主人である大橋松次郎宛ての絵葉書帖が出ていた。これは2020年に京都文化博物館の展示でも見たものだった。

 最後にエントランスホールに戻って多数の写生帖を眺める。いずれも櫻谷文庫所蔵。櫻谷文庫は、櫻谷の旧居、遺作品、法帖、書画、典籍、当時の生活道具類等を整備・保存・公開等することを目的とする公益財団法人である。こうやって遺品全般が適切に管理されているのは、非常に幸せな例だと思う。写生帖には、友人たちの似顔絵もあり、京都洛北や富士山、濃尾飛騨、耶馬渓などへの写生旅行の記録もある(この時代の人たちは耶馬渓が好きだなあ)。櫻谷は京都府商業学校予科に通ったが、簿記や数学に興味が持てず、唯一楽しんだのが図画だった。教員の平清水亮太郎は、京都府画学校で田村宗立に西洋絵画を学んだ画家だったという。よかったねえ、いい教員に会えて。と思って、ちょっと調べたら、平清水は、画家としては特別な仕事を残さなかったが、同じく商業学校で安井曽太郎(1888-1955)のことも教えていた。縁というのは面白い。

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新版画の多様性/ポール・ジャクレー(太田記念美術館)

2023-07-02 23:51:49 | 行ったもの(美術館・見仏)

太田記念美術館 『ポール・ジャクレー:フランス人が挑んだ新版画』(2023年6月3日~7月26日)

 今年のはじめから同館のtwitterアカウントが、本展開催に向けて、時々、ジャクレーを紹介してくれていたので、絶対行こう!と決めていた。ポール・ジャクレー(Paul Jacoulet、1896-1960)は、パリに生まれ、3歳の時に来日し、64歳で亡くなるまで日本で暮らした版画家で、昭和前期に流行した「新版画」の絵師のひとりと考えられているようだ。「新版画」といえば、最近、川瀬巴水、吉田博、笠松紫浪などにあらためて注目が集まっているが、ジャクレーの名前は、私は全く知らなかった。

 なのでtwitterで見たジャクレー作品は衝撃的だった。たぶん最初に見たのは、本展のポスター・チラシにもなっている『満州宮廷の王女たち』連作の1枚「打ち明け話の相手」だろう。中国ドラマでもおなじみ、髪を高く結い上げ(両把頭)、多くの髪飾りや装身具をつけ、旗袍をまとった満州族の高貴な女性二人が描かれてる。上品な淡い色彩、精緻な描写が作り出す、甘く華やかな装飾美とエキゾチシズム。この1枚で完全にノックアウトされたと思ったのに、ジャクレーには、ほぼ裸体の南洋の男女、朝鮮やアイヌの風俗を描いた作品もあると分かって、さらに興味が深まった(太田記念美術館さん、ほんとtwitterでの煽り、いや紹介が巧い)。

 本展はジャクレー作品162点(全て個人蔵)を展示。前後期で完全入れ替えなので、始まってすぐ前期を訪ね、もちろん後期も見て来た。いやあ面白かった。日本の「版画」芸術にこんな一面があるなんて、思ってもみなかった。

 私が一番印象深く思ったのは南洋に取材した作品群である(数も多かったように思う)。病弱だったジャクレーは、静養を兼ねて1929~1932年の間にサイパン島、ヤップ島などミクロネシアの島々に数か月から半年間、毎年滞在した。当時、ミクロネシアは日本の委任統治領だった(思わず、気になって調べてみたが、中島敦のパラオ赴任は1941年なので重なっていない。土方久功は1929年にパラオに渡り、1931年からヤップ島に滞在しているので出会っているかもしれないな)。

 ジャクレーが描いた南洋の男性たち(青年、少年)は、ほぼ裸体で、褐色の肌と美しい身体の線を惜し気もなくさらしている。晩年に回想によって描かれた「オウム貝、ヤップ島」は、理想化された肉体が、背景の美しさと相まって、パラダイスの風景を思わせる。女性像は腰巻をまとっただけの姿もあるが、連作『チャモロの女』は、おしゃれなブラウスとスカートに身を包んでいる。また、晩年の作品「太平洋の神秘、南洋」は、腰から下が魚(?)になっている女性、たぶん人魚を描いたものだと思う。いま映画『リトル・マーメイド』が主役に有色人種を起用したことで議論を呼んでいるらしいが、これを見ると、褐色の肌の人魚姫は十分ありだなあ、と思った。

 中国、満州、朝鮮を描いた作品もそれぞれ面白かったが、私が強く惹かれたのは、モンゴルの男女を描いたもの。「新版画」に受け継がれた「浮世絵」の射程がここまで伸びているのか!と感慨深かった。独特の髪型で知られるハルハ族の女性や鷹狩に興ずる男性、ラマ僧を描いたものもある。ジャクレーの版画は、珍しい風俗や華やかな民族衣装に目を奪われがちだけど、ちょっとした仕草や視線に人物の心情が現れている。その点で好きなのが「恋文、モンゴル女性」。

 商業版画は美しい女性を描くことを求められるけれど、ジャクレーは「老若男女」を描くことにこだわったという。確かに、日本のおばあちゃんがコタツに入っているところや、孫と一緒の朝鮮のおじいちゃんを描いた作品もある。アイヌの老人、老女を描いたものもある。

 購入した図録(図版は40点のみ)の解説によれば、80~90年代には何度か展覧会が開かれており、2003年には横浜美術館でジャクレー展が開催されている。全然知らなかった! この展覧会をきっかけに、ジャクレーの作品を見られる機会が増えるとうれしい。

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アイスショー"Fantasy on Ice 2023 神戸千秋楽"ライブビューイング

2023-07-01 23:16:39 | 行ったもの2(講演・公演)

Fantasy on Ice 2023ライブビューイング(神戸:2023年6月25日、13:00~)

 私の一番好きなアイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)。今年は宮城公演1回と新潟公演2回を現地で見ることができた。最後の神戸公演は、金曜だけチケットが取れたのだが、仕事を休むことができず、泣く泣くリセールに出した(瞬殺で買い手が付いた)。日曜はライブビューイングがあることが分かっていたので、我が家から近い下町の映画館のチケットを確保した。前日にコンビニで発券したら、最前列の席で笑ってしまったが、このアイスショーに関しては贅沢は言わないことにしている。

 この日はFaOI2023の大楽で、プロスケーターのジョニー・ウィアがこのツアーを最後に引退することを表明していたので、何かとんでもなく「特別」なことが起こるのではないかという予感はあった。まず冒頭の群舞「History Maker」から、出演者がみんな特別な気持ちで滑っている感じがした。ディーン・フジオカさんが、歌の間に何かシャウトしたのを私は聞き取れなかったが、「We love you, Johnny, You're the history maker!」と叫んでくれていたらしい。ディーンさん、フィギュアスケートと接点を持ったのはこのツアーが初めてだと思うのに、何の衒いもなく、観客と出演者の思いを表現できてしまう素直な人柄と才能に惚れた。後半のMCでは「終わってほしくないですねえ、終わりたくない」を繰り返していた。

 ジョニーの「Creep」は、ここまで孔雀のような華麗な衣裳が見どころだったが、最終日、照明が明るくなると、リンク上にいたのは、ノーメイクに練習着(くたびれたタンクトップとスパッツ)のジョニーだった。これは泣いた。後半の「clair de lune(月の光)」は最後を飾る純白の衣裳。万雷の拍手を浴び、何度も何度も客席に手を振って退場した。退場口で他のスケーターたちが「Thank you Johnny」の看板?垂れ幕?を持って待っていたのは、このときだったかしら。

 そのほかの見どころを書いておくと、ステファンは「Simple Song」。最後に手首から先にだけ照明が当たる演出が好き。宮原知子ちゃんの「Slave to the music」を見ることができたのは嬉しかった。ディーンさんと田中刑事くんの「Apple」も大画面のおかげで魅力マシマシ。

 大トリは、中島美嘉さんと羽生結弦くんの「GLAMOROUS SKY」。大ヒットした映画『NANA』(2005年)の主題曲であるが、私はマンガも映画も、この頃、あまり興味がなくて、記憶に残っていない。なので、新潟公演で初見のときは置いていかれた気持ちでいたが、だんだん好きになってきた。中島美嘉さんも羽生くんも、軽々とジェンダーを越境していく感じが気持ちいい。ショープログラムとしてはハードな構成で7回ジャンプを跳んで全て成功させた。最後に大きなハイドロを描いて、原点に戻っていくのも美しかった。

 そして演技が終わったとき、羽生くんはすでに泣いていたように思う。フィナーレの群舞「STARS」はなんとか笑顔で乗り切ったんだけど、羽生くん、大丈夫か?と心配しながら画面を見ていた。以下は私の記憶の誤りもあるかもしれないがご容赦を。いつもの周回から一芸大会になり、ジョニーとステファンが向かい合わせのクリムキンみたいなスタイルで一緒に滑る技を披露。そのあと、Tシャツ姿でリンクに戻ってきた羽生くんとジョニーが並んでズサー(仰向けに氷上に滑り込む)を披露。

 それから会場アナウンス(女性)に応えて、ジョニーがマイクを取って会場に挨拶。会場アナウンスが「ジョニー、私たちからのプレゼントがあるのよ(英語)」と呼びかけると、会場が暗転し、観客の皆さんがスマホの明かりを点けて、ペンライトのように振ってくれた、感極まって涙するジョニーを多くのスケーターたちが取り巻き、抱き着き、ぎゅうぎゅうの団子状態になってしまったところに、もう一度、王子様衣装に着替えて、大きな花束を抱えた羽生くんが登場。しばらく気づいてもらえなくて、呆然としていた(笑)。ようやく花束を渡すと、ひとり緊張した面持ちでリンクの中央へ去っていく羽生くん。音楽がかかり、ジョニーのレガシー・プログラム「Otonal」のクライマックスを滑る。ジョニーと他のスケーターたちは、ステージの端に腰を下ろして、それを見ていた。ライビュのカメラは、羽生くんのパフォーマンス越しにスケーターたちを捉えていて、とてもよかった。「Otonal(秋に寄せて)」は競技プロとして羽生くん自身も滑ったことがあるが、分かる人によれば、ジョニー版の完コピ演技だったという。

 再び周回。坂本花織ちゃんがスマホを持ってきて、自撮りスタイルでみんなと記念撮影してたのはこのときかな(ジョニーのインスタにそれらしい写真あり)。最後に羽生くんとジョニーは、声を揃えて「ありがとうございました」を言って退場口に消えて行った。

 FaOIは、毎年、忘れられない思い出を残してくれるのだが、とりわけ今年は歴史の目撃者になった気がした。人は出会い、別れても、歴史は続いていく。来年はどんなショーになるだろう。

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