平野啓一郎 2012年 講談社文庫版
こないだ『空白を満たしなさい』を読んで、気になってたんで、読んでみた平野啓一郎の小説。
『空白を~』でいきなり出てきて面食らった「分人」、ひとつにまとまった個人ぢゃなくて、その相手ごとに使いわけるような分人という概念について詳しく書いてある。
(やっぱ時系列で読まないとダメなのかな、同時代の小説って?)
たとえば、源氏物語を例にとって、
>主人公の光源氏は、究極のプレイボーイで、複数の女性のための分人dividualを内に抱え込んでいる。個人individualが対人関係ごとに完全に分化divideしていますが、これは、現代の日本人にも特徴的です。誰と一緒にいるかで、彼らは人格がコロコロ変わります。
とか、登場人物の夫婦間の会話という形を借りて、
>〈分人〉って言ってるそのdividualは、〈個人〉individualも、対人関係ごとに、あるいは、居場所ごとに、もっとこまかく『分けることができる』っていう発想なんだよ。(略)…相手とうまくやろうと思えば、どうしても変わってこざるを得ない。その現象を、個人indivisualが、分人化dividualizeされるって言うんだ。で、そのそれぞれの僕が分人dividual。個人は、だから、分人の集合なんだよ。
とかって、わかりやすく(?)説明している。
物語のほうは、2030年代が舞台の、いわばSF。
人類史上初めて火星の地に降り立った日本人宇宙飛行士が、主要登場人物のひとり。
(ちなみに本作が発表されたのは2009年だけど、舞台のなかの日本は“東京大震災”のあとって設定。)
それと、アメリカ大統領選挙をめぐる情報戦(よく日本人にこんなことが書けたもんだ)とか、いろんなテクノロジーを駆使したテロの陰謀とかが盛りだくさんの、スケールでかい感じ。
謎めいた人物の暗躍するさま、正体は一体何者だかわかんなかったりする仕掛けは、ちょっと「お、フィリップ・K・ディックみたい」なんて思いながら読んでた。
いずれにせよ、ハードもソフトも進歩したせいで、瞬時にさまざまな情報がかけめぐる近未来像は、けっこうクラクラする。
そうなると、人なんて存在は弱くて、
>そもそも記憶などというものは、個体が、ただ自らの生存のために発達させた機能であって、他者と共有するということ自体に、最初から無理があるのだった。だからこそ、記録メディアが発展したんじゃないのか?
なんて一節にあるように、主観はあてになんないというか確実かどうか不安なもので、映像とかネット上の情報として確かめられなきゃ本当のことぢゃない、って感じなんだけど、それは今でもそういう風潮あるよねえ、なんて思うわけだ。
終盤のほうで、
>あなたは、情報の過剰摂取で身動きが取れなくなっている。ダイエットしましょう(略)良い思想を摂取し、体を動かしましょう!行動して、摂取した情報を消費することです。
ってセリフがあるんだけど、ここ読んだときは、ちょっと救われた感じがした。
こないだ『空白を満たしなさい』を読んで、気になってたんで、読んでみた平野啓一郎の小説。
『空白を~』でいきなり出てきて面食らった「分人」、ひとつにまとまった個人ぢゃなくて、その相手ごとに使いわけるような分人という概念について詳しく書いてある。
(やっぱ時系列で読まないとダメなのかな、同時代の小説って?)
たとえば、源氏物語を例にとって、
>主人公の光源氏は、究極のプレイボーイで、複数の女性のための分人dividualを内に抱え込んでいる。個人individualが対人関係ごとに完全に分化divideしていますが、これは、現代の日本人にも特徴的です。誰と一緒にいるかで、彼らは人格がコロコロ変わります。
とか、登場人物の夫婦間の会話という形を借りて、
>〈分人〉って言ってるそのdividualは、〈個人〉individualも、対人関係ごとに、あるいは、居場所ごとに、もっとこまかく『分けることができる』っていう発想なんだよ。(略)…相手とうまくやろうと思えば、どうしても変わってこざるを得ない。その現象を、個人indivisualが、分人化dividualizeされるって言うんだ。で、そのそれぞれの僕が分人dividual。個人は、だから、分人の集合なんだよ。
とかって、わかりやすく(?)説明している。
物語のほうは、2030年代が舞台の、いわばSF。
人類史上初めて火星の地に降り立った日本人宇宙飛行士が、主要登場人物のひとり。
(ちなみに本作が発表されたのは2009年だけど、舞台のなかの日本は“東京大震災”のあとって設定。)
それと、アメリカ大統領選挙をめぐる情報戦(よく日本人にこんなことが書けたもんだ)とか、いろんなテクノロジーを駆使したテロの陰謀とかが盛りだくさんの、スケールでかい感じ。
謎めいた人物の暗躍するさま、正体は一体何者だかわかんなかったりする仕掛けは、ちょっと「お、フィリップ・K・ディックみたい」なんて思いながら読んでた。
いずれにせよ、ハードもソフトも進歩したせいで、瞬時にさまざまな情報がかけめぐる近未来像は、けっこうクラクラする。
そうなると、人なんて存在は弱くて、
>そもそも記憶などというものは、個体が、ただ自らの生存のために発達させた機能であって、他者と共有するということ自体に、最初から無理があるのだった。だからこそ、記録メディアが発展したんじゃないのか?
なんて一節にあるように、主観はあてになんないというか確実かどうか不安なもので、映像とかネット上の情報として確かめられなきゃ本当のことぢゃない、って感じなんだけど、それは今でもそういう風潮あるよねえ、なんて思うわけだ。
終盤のほうで、
>あなたは、情報の過剰摂取で身動きが取れなくなっている。ダイエットしましょう(略)良い思想を摂取し、体を動かしましょう!行動して、摂取した情報を消費することです。
ってセリフがあるんだけど、ここ読んだときは、ちょっと救われた感じがした。