村上春樹 2013年4月 文藝春秋
なんだか知らないけど話題になってるんで買った、っつーわけぢゃなく。
昔っから好きな作家だからね、このひとの長編小説は、やっぱ読みたいから。
先週の金曜日、発売開始が大騒ぎになってたから、ちゃんと買えるかなあって心配だったんだけど(どうせなら、マスプロダクトであっても、初版ほしいじゃん)、出勤前に、もしかしてと期待して本屋の前を通ったら、開店前だというのに、外で机に本積んで手提げ金庫置いて手売りしてた(なんか大晦日の蕎麦屋さんみたいだ)。ニーズあるところに商売あり。
んなわけで、どうにか手に入ったから、週末の出張の行き帰りで、さっそく読んだ。
えーと、例によって、発刊間もないものについては、こんなとこで、細かいストーリー紹介とかはしない。
(それって私自身が、読む前に余計な情報耳に入れたくないほうだからなんだが、世の中には読みもしないで内容とか知りたいひともいるんぢゃないかと思う。そんな気がする。もちろん、いち早く詳細を解説して広げたがるひともいるだろう。)
まあ、それでも読んで驚いちゃったから、書いちゃうけど、リアリズム小説でした。
読んでて、いつ何が出てきてどうなることかと身構えてたんだけど、「かえるくん」も出てこないし、月は(たぶん)ひとつしかない世界。
それでいて、村上ワールドとしては、入門編と言ってもいいくらいの、らしさが全開です。村上作品のもつ、いわゆる「喪失感」みたいなのにひたりたいひとにはぴったりなんぢゃないかと。
ちなみに、村上春樹さんは、インタビュー(2004年THE PARIS REVIEW)で、
>僕の作品の主人公は常に何かを追い求めています。失われたものを探し求めています。(略)
>僕の主人公が何かを失ったとき、彼は探索の途につきます。(略)彼はその探索の途上において、いろんな不可思議なものごとに遭遇します。
>いずれにせよ、主人公はそのような体験を生き延びなくてはならない。そして彼は最後に自分が探していたものを発見する。そこにたどり着く。しかしそれが自分の長く探し求めていたものなのかどうか、彼には確信が持てない。
なんて言ってます。今回も、そういう基本線は活きてるんぢゃないかと。
でも、雰囲気が似たようなものとしては、『ノルウェイの森』っていうよりも、私は『1973年のピンボール』あたりを想起しちゃった。それはあくまで感覚でしかないけど。
それより自分で奇妙だとおもったことには、あちこちに、「あー、これ、いいフレーズ」って共感するだろうポイントがあるのには気づいたんだけど、私自身が昔よりはそういうとこに感動しないのね。
私の感受性が変化しちゃったせいかなというのが普通の考え方だろうけど、こないだ読んだ穂村弘の『整形前夜』のなかに、ある日を境に花粉症になることになぞらえて、
>ところが、或るところでぴたっとそれが読めなくなった。(略)私のなかの何かが「一定量」に達して(略)しまったのではないか。
>この現象は作家単位ではもっと頻繁に起こる気がする。熱中していた作家について、あ、なんか、このひとの本はもういいかも、と感じる瞬間がある。作品がつまらなくなったというならわかるのだが、相変わらず面白いけど、でも、なんか、もういいかも、と思ってしまうところが不思議だ。
って「定量制」について書かれてる一節があって、そんなのが来ちゃったんぢゃないかと、ちょっと心配してる。
(発売初日に何とか手に入れようとしてるうちは、まだ大丈夫だとは思うが。)
なんだか知らないけど話題になってるんで買った、っつーわけぢゃなく。
昔っから好きな作家だからね、このひとの長編小説は、やっぱ読みたいから。
先週の金曜日、発売開始が大騒ぎになってたから、ちゃんと買えるかなあって心配だったんだけど(どうせなら、マスプロダクトであっても、初版ほしいじゃん)、出勤前に、もしかしてと期待して本屋の前を通ったら、開店前だというのに、外で机に本積んで手提げ金庫置いて手売りしてた(なんか大晦日の蕎麦屋さんみたいだ)。ニーズあるところに商売あり。
んなわけで、どうにか手に入ったから、週末の出張の行き帰りで、さっそく読んだ。
えーと、例によって、発刊間もないものについては、こんなとこで、細かいストーリー紹介とかはしない。
(それって私自身が、読む前に余計な情報耳に入れたくないほうだからなんだが、世の中には読みもしないで内容とか知りたいひともいるんぢゃないかと思う。そんな気がする。もちろん、いち早く詳細を解説して広げたがるひともいるだろう。)
まあ、それでも読んで驚いちゃったから、書いちゃうけど、リアリズム小説でした。
読んでて、いつ何が出てきてどうなることかと身構えてたんだけど、「かえるくん」も出てこないし、月は(たぶん)ひとつしかない世界。
それでいて、村上ワールドとしては、入門編と言ってもいいくらいの、らしさが全開です。村上作品のもつ、いわゆる「喪失感」みたいなのにひたりたいひとにはぴったりなんぢゃないかと。
ちなみに、村上春樹さんは、インタビュー(2004年THE PARIS REVIEW)で、
>僕の作品の主人公は常に何かを追い求めています。失われたものを探し求めています。(略)
>僕の主人公が何かを失ったとき、彼は探索の途につきます。(略)彼はその探索の途上において、いろんな不可思議なものごとに遭遇します。
>いずれにせよ、主人公はそのような体験を生き延びなくてはならない。そして彼は最後に自分が探していたものを発見する。そこにたどり着く。しかしそれが自分の長く探し求めていたものなのかどうか、彼には確信が持てない。
なんて言ってます。今回も、そういう基本線は活きてるんぢゃないかと。
でも、雰囲気が似たようなものとしては、『ノルウェイの森』っていうよりも、私は『1973年のピンボール』あたりを想起しちゃった。それはあくまで感覚でしかないけど。
それより自分で奇妙だとおもったことには、あちこちに、「あー、これ、いいフレーズ」って共感するだろうポイントがあるのには気づいたんだけど、私自身が昔よりはそういうとこに感動しないのね。
私の感受性が変化しちゃったせいかなというのが普通の考え方だろうけど、こないだ読んだ穂村弘の『整形前夜』のなかに、ある日を境に花粉症になることになぞらえて、
>ところが、或るところでぴたっとそれが読めなくなった。(略)私のなかの何かが「一定量」に達して(略)しまったのではないか。
>この現象は作家単位ではもっと頻繁に起こる気がする。熱中していた作家について、あ、なんか、このひとの本はもういいかも、と感じる瞬間がある。作品がつまらなくなったというならわかるのだが、相変わらず面白いけど、でも、なんか、もういいかも、と思ってしまうところが不思議だ。
って「定量制」について書かれてる一節があって、そんなのが来ちゃったんぢゃないかと、ちょっと心配してる。
(発売初日に何とか手に入れようとしてるうちは、まだ大丈夫だとは思うが。)