山崎浩一 一九九八年 ちくま新書
これは、去年九月に新橋で見つけた古本。
当初の目的だった、“キヨシローの書いた文庫解説”を探すという作業は終わってたんだが、なんとなくもうひとつくらい読んでみたくなって。
なんたって、本書のカバー裏表紙の著者紹介によれば、
>広大無辺の博識と変幻自在の技法で、頭痛がしそうな超難問を軽妙洒脱な小噺に変えてしまう鬼才。
という人なんで、そういう人の文章講座ってのは興味ある。
とはいうものの、だいたい予想できたとおり、なんか安易なテクニックの教科書なんかではなくて、どっちかっていうと自己表現ってのは何をどうするかっていう話になる。
言葉の使い方に関して、“文字より絵のほうがわかりやすい”とか“活字メディアより視覚メディアのほうが上”とか思ってるとしたら大間違いだと指摘する。
>歴史的にみても、そもそも絵や図象ではコミュニケーションに不自由だからこそ、人類は自由で普遍的なコミュニケーションを可能にする言葉や文字を発明しなければならなかったのだ。(略)
>もし「わかりにくい」のだとすれば、それは使い方がわかっていないだけの話なのだ。(p.96-97)
というのは、なんかすごく同意しちゃう。自分がパワーポイントとか使うの好きぢゃないのを正当化しようとしてるだけかもしれないが。
>ただ「書く」という行為は、思考や記憶の結果であるだけでなく、いや、それ以上に思考や記憶に逆に影響を与え、それらを当人にも気づかれないほど巧妙に欺いてしまう程度の危険な魔力も持っていることを、忘れないでほしいだけなのだ。(p.117)
って、文字はただの記号ぢゃないよという警告。
これ、さらに日本語で考え、日本語で書くということが必然になってる日本人には、重要な問題があって、
>確かに日本語には、関係のなかに対立を生みだすことを周到に回避するための表現や語彙がやたら豊富だ。ところがいざ対立が生まれてしまうと、今度は突然、それをうまく表現するための語彙の選択肢が狭まってしまうことに気づく。(p.228-229)
というように、言葉がそういうもんだから、ヨーロッパ言語の民族からみると、なんか論理的ぢゃないような思考というか態度になっちゃうんぢゃないかと。
批評というものが成り立ちにくくて、異質な意見をぶつけあうことが不得手というか。
>せめて中学生くらいから、互いの意見をぶつけ合って議論したり、互いのアイディアや作品を批評し合ったり、というトレーニングをある程度積んでおけば、「意見やアイディアや作品を批判することは、相手の人格を傷つけたり貶めたりすることとは、まったく別のことである」という健全な常識が身につくはずだ。ところが、残念ながら、立派な社会人たちの間でさえ、それらが未分化のままだったりする。(p.187-188)
ってのは、たしかにそうだ。
それで日本人はどうこうっていうより、私にとっては、言語によって考え方そのものが変わってくる、ってのが最近興味のあるテーマなんで、そのへんのこといろいろ考えさせられた。
第0章 《ゆがみ》の文章論
第1章 文章は無限に変貌する
第2章 自己表現の逆説
第3章 《好き嫌い》の責任
第4章 文章精神主義を疑え
第5章 嘘の誘惑と言葉の魔力
第6章 発想と思考のトレーニング
第7章 肉筆とワープロ
第8章 《武器=凶器》としての文章
第9章 日本語の見えない構造
これは、去年九月に新橋で見つけた古本。
当初の目的だった、“キヨシローの書いた文庫解説”を探すという作業は終わってたんだが、なんとなくもうひとつくらい読んでみたくなって。
なんたって、本書のカバー裏表紙の著者紹介によれば、
>広大無辺の博識と変幻自在の技法で、頭痛がしそうな超難問を軽妙洒脱な小噺に変えてしまう鬼才。
という人なんで、そういう人の文章講座ってのは興味ある。
とはいうものの、だいたい予想できたとおり、なんか安易なテクニックの教科書なんかではなくて、どっちかっていうと自己表現ってのは何をどうするかっていう話になる。
言葉の使い方に関して、“文字より絵のほうがわかりやすい”とか“活字メディアより視覚メディアのほうが上”とか思ってるとしたら大間違いだと指摘する。
>歴史的にみても、そもそも絵や図象ではコミュニケーションに不自由だからこそ、人類は自由で普遍的なコミュニケーションを可能にする言葉や文字を発明しなければならなかったのだ。(略)
>もし「わかりにくい」のだとすれば、それは使い方がわかっていないだけの話なのだ。(p.96-97)
というのは、なんかすごく同意しちゃう。自分がパワーポイントとか使うの好きぢゃないのを正当化しようとしてるだけかもしれないが。
>ただ「書く」という行為は、思考や記憶の結果であるだけでなく、いや、それ以上に思考や記憶に逆に影響を与え、それらを当人にも気づかれないほど巧妙に欺いてしまう程度の危険な魔力も持っていることを、忘れないでほしいだけなのだ。(p.117)
って、文字はただの記号ぢゃないよという警告。
これ、さらに日本語で考え、日本語で書くということが必然になってる日本人には、重要な問題があって、
>確かに日本語には、関係のなかに対立を生みだすことを周到に回避するための表現や語彙がやたら豊富だ。ところがいざ対立が生まれてしまうと、今度は突然、それをうまく表現するための語彙の選択肢が狭まってしまうことに気づく。(p.228-229)
というように、言葉がそういうもんだから、ヨーロッパ言語の民族からみると、なんか論理的ぢゃないような思考というか態度になっちゃうんぢゃないかと。
批評というものが成り立ちにくくて、異質な意見をぶつけあうことが不得手というか。
>せめて中学生くらいから、互いの意見をぶつけ合って議論したり、互いのアイディアや作品を批評し合ったり、というトレーニングをある程度積んでおけば、「意見やアイディアや作品を批判することは、相手の人格を傷つけたり貶めたりすることとは、まったく別のことである」という健全な常識が身につくはずだ。ところが、残念ながら、立派な社会人たちの間でさえ、それらが未分化のままだったりする。(p.187-188)
ってのは、たしかにそうだ。
それで日本人はどうこうっていうより、私にとっては、言語によって考え方そのものが変わってくる、ってのが最近興味のあるテーマなんで、そのへんのこといろいろ考えさせられた。
第0章 《ゆがみ》の文章論
第1章 文章は無限に変貌する
第2章 自己表現の逆説
第3章 《好き嫌い》の責任
第4章 文章精神主義を疑え
第5章 嘘の誘惑と言葉の魔力
第6章 発想と思考のトレーニング
第7章 肉筆とワープロ
第8章 《武器=凶器》としての文章
第9章 日本語の見えない構造