丸谷才一 二〇一二年 ちくま文庫
これは今年になってからだっけかな、買った新刊の文庫。
なんか存在は前から知ってたんだけど、特にミステリーに興味あるわけぢゃないしとか逡巡してたんだが、やっぱ読んでみることにした、いままで他のエッセイ集とかでとりあげられてるミステリーはおもしろかったし。
買うまで知らなかったんだけど、これは単行本の文庫化ぢゃなくて、オリジナルの新編集の文庫ということらしい。
帯に「追悼」の文字あるから、そこで商売にしようとしたのかと思うとやれやれなんだが、まあいいや。
巻末の説明によれば、1953年から2011年のあいだに書かれた評論・エッセイ・書評から選んできたものだという。
巻末に書名と著者名の索引があるのはうれしい、それぞれの書評とかの最後にもちゃんと出版社名とか文庫名とかついてるし、でも古いものが手に入るとは限らないが。
そんなわけで、よく見れば、最初の章の鼎談をはじめとして、前にほかの本で読んだことのあるものも含まれているが、書評なんかは単行本未収録のものも多いんで、まあそのへんは貴重だと言ってもいいのかもしれない。
いろいろ並んでるけど、私はミステリーマニアではないので、いくら素晴らしい紹介のされかたしてても、片っ端から読んでみようかなんて気には全然ならない。
いまのとこ気になったのは、デイヴィッド・ベニオフ「卵をめぐる祖父の戦争」と、クレイグ・ライス「素晴らしき犯罪」くらいかな。
それよか、
>「推理小説」なる新語をわたくしは好まない。特殊な場合を除いては常に「探偵小説」といふ言葉を使ふやうにしてゐる。(p.138「新語ぎらひ」)
なんて論に耳を傾けてみるほうがおもしろい。なんで推理小説という言葉を嫌ってるかというと、
>つまり、「推理小説」といふ言葉が生れて以来、その言葉の作用を受けて、ヨーロッパの本場でいふdetective storyとはおよそかけ離れた、中間小説に殺しがはいつただけの代物が日本でのさばつてゐるやうな気がするのである。観念はイメージよりも弱い。殊に、観念的な伝統が淡く薄い日本では弱い。そのことをはつきりと教へてくれるのが、このやうな最近の現象であらう。(p.140-141同)
とわが国の文学というか文化というかへの批判に結びつく。
探偵小説の良さについては、べつのとこで、
>ぼくは、探偵小説は大人の童話であるといふ考へ方を、探偵小説はパズル遊びであるといふ考へ方よりも遙かに好んでゐる。(略)
>トリックだのアリバイ崩しだのは、ぼくの関心のなかの極めて小さな部分しか占めてゐない。もつと古風に、近代人の趣味に合せたロマンチックな幻想として、探偵小説を愛するのだ。(p.375「ブラウン神父の周辺」)
みたいなこと言ってて、だからこういうひとの推奨する小説は安心して信頼できるんだと私は思っている。
著者自身が翻訳をすることもあって、外国のものの翻訳の出来についてもときどき評をくわえているが、それはともかくとして、
>チャンドラーは本当は純文学を書きたかつたのだけれど、その線でゆけば自分の魂をさらけ出さなければならぬ。はにかみ屋の彼にはとてもできない話で、それで娯楽ものを書いた、といふ説がある。よく言はれるこの解釈にのつとつて訳したのが清水訳で、それに逆らひ、彼の魂をあらはにしたのが村上訳、とも言へよう。(p.302「ハードボイルドから社交界小説へ」)
なんていって、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』について、清水俊二訳『長いお別れ』との比較をしているが、こういうの読むと、古い訳でしか読んだことなくて、ストーリーは一緒なんだから新しいの読まなくたっていいでしょと思ってた私なんかはグラグラ揺れてしまうのである。
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