村上春樹 柴田元幸 平成15年 文春新書
前回から薄く翻訳つながりということで、これは最近になって地元で買った古本。
村上さんがサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳したあとにおこなわれた、二人の対話が中心。
それから“幻の訳者解説”がついてる、“幻の”ってのは、サリンジャーサイドから「訳者が本に一切の解説をつけてはならない」という契約の主張があり、せっかく書いたのにお蔵入りになってしまったもの。
私はふるい野崎孝訳の『つかまえて』を一度か二度読んだだけで、村上訳は読んでないし、その小説のなにがどういいのかよくわかってないんだけど、今回これ読んだら、とてもいい解説を聞かしてもらったって感じではある。
>〔※主人公のホールデンが〕自分とだれかとの関係性とか、自分と何かとの位置関係に関してはものすごく能弁に、とても細かくしゃべるんだけど、自分というものの本質とは何かみたいなことになると、実質的にはほとんど何も語ってはいない。(略)
>関係性という、流動的な枠組みの中でしか、彼は自分を語っていない。それが僕はこの『キャッチャー』という作品の、小説的に優れたところだし、チャーミングなところだし(略)(p.154)
とか、
>そういうスタティックなものに対してサリンジャーは、真っ向から対決してますよね。簡単な言葉で、流動的な深い真実を語るんだ、という彼の姿勢はとくにこの『キャッチャー』という本の中ではすごくはっきりしているわけ。そういうところを、僕は高く評価したいと思うんです。(p.92)
とかって、村上さんによる小説のつくりの解説は、とても興味深い。
あと、『キャッチャー』が読んだひとの心にしっかり残る本なんだけど、それを安易な(社会への反抗とか自己探求とかって)定番的な文句で整理してしまおうとすることには、
>でも、やっぱり世間の多くの読者は、読んだ本が心の中に意味もなくしっかり残っちゃったりすると、不安でしょうがないんです。それをそのまま自然に支えられる人って、現代社会ではむしろ少ないんです。だから、なんとかそこのところを言葉でからめとろうとするし、そうするとあっというまもなく制度化が始まってしまう。(p.34)
と無理もないことだと理解をみせつつも、いろんな方向からの読み方ができるのがよい小説だと示してくれてるとこも勉強になる。
あと、小説を訳すのは小説家ぢゃないといけないんだろうなって思わされたのが、
>これはホールデンの語りというコロキアルなかたちで書かれている小説だから、声の大きさやスピードやイントネーションみたいなものも、その文体の中に自動的に含まれているんです。その声を聞き取って、サウンドを補って、そのニュアンスを汲み取って訳していかなくちゃならないということがあります。(p.109)
という村上さんの言葉。
「サウンドを補」うなんて、そうは簡単にできない。小説家のなかでだって、文章のビートとうねりを体得しているひとぢゃないと、なかなか。