丸谷才一 一九九七年 講談社
これは去年の夏に地元のワゴンセールで見つけた古本だ。ようやく最近になって読んだんだけど。
いいねえ、文庫本は読むのに手軽だけど、やっぱこういう単行本は好きだ、見つけたときのときめきがちがう。
何判ていうのか知らないけど、最近あまり見ないサイズ、いちばんうしろみたら、19cmって書いてあるが。
なかみは、「現代」に1990年から1996年にわたって連載されたエッセイ。
ひとつあたりが、このサイズの単行本で見開き2ページちょうど、いいなあ、文章と本のサイズが一致しているのって、なんかいい。
話題は例によって多岐に及んでるんだが。
「彼の功績」って章では、村上春樹の翻訳の仕事を褒めているけど、こないだ「サリンジャー戦記」読んだばっかりだから、おおっ、と思うとこあった、ちょっと。
>ひとへに村上さんの翻訳がものを言つて、アメリカの新文学は日本の若い読者に受入れられ、そしてそれが波及して、翻訳小説全体の活況となつたのだ。
>これが他の業界だつたら、彼の功績は大いにたたへられてゐるはずだが、ジャーナリズムは違ふ。ただ売行と文学賞があるだけで、批評がない。そこでわたしが一言、讃辞を呈する。(p.39)
って前から村上春樹を買ってたひとだけど、あらためて高く評価してる、両者とも好きな私なんかは、うんうんとうなずいてしまう。
文学について、ほかにドキッとしたのは、丸谷さんが1959年にジョージ・スタイナーというひとの評論を読んで衝撃を受けた話で、
>それは、戦後のドイツ文学が不振なのはナチスが贋の言語によつて政治をおこなつたためドイツ語が退化し、力を失つたからだ、と論じてゐたのである。わたしはこの批評家の洞察力と論理とに感嘆し、日本語についてかういふ事情を指摘する論客がゐないことを寂しく思つた。(p.172「日本語」)
ってやつ。そのあとには当然日本のことをとりあげ、
>言葉といふのは本来、何かを言ふために使ふものなのに、政治家たちは、何も言はないために言葉を使ふのだから、すごいことになる。
なんていう、朦朧としてて欺瞞的だと。
言葉の大事さについては、もうひとつ、
>マンゾーニの『いいなづけ』はイタリア文学を代表する長篇小説だが、数多くの美質のなかでとりわけ記憶に残るのは風景描写の妙。
で始まる「文章の力」という章で、
>こんなことを言ひ出したのは、今度の阪神大震災をあつかつた文章をいくつか読んで、そのなかには非常に質の高いものもあつたけれど、しかしどれもみな、悲惨な情景を詳しく言葉で写し取るといふ態度のものではなかつたからである。感想はあつた。意見はあつた。情報はもちろんあつた。しかし視覚的描写はなかつた。(p.166-167)
って言ってるとこが、とても印象に残った。
映像があるから言葉を使わないって理由はわかってるんだけど、最近の映像をつかった報道なんかみても、事実を伝えるっていうよりは、リポートするひとが感情をアピールするほうに傾きつつあるから、なんか正確な描写ってのは、どっかいっちゃってるよね。
めずらしく御自身の自慢をしてるような章があって、「キングメイカー」って言葉は、丸谷さんが文藝春秋の座談会で田中角栄を指して使ったら、世間一般に広まるようになったんだという。
でも、自分でつくった言葉ぢゃなくて、
>実はこれには出典がありましてね。わたしの発明ぢやあない。わたしは由緒のある言葉を使ふのが好きで(略)
>この kingmaker といふ言葉は『オクスフォード英語辞典』を引けば出て来ます。初出は一五九九年。(p.62-63「キングメイカー」)
ってことで、十五世紀イギリスの、ウォリック伯リチャード・ネヴィルという貴族の渾名が始まりらしい、ふーん。
どうでもいいけど、笑ってしまったのは、柳生十兵衛が剣豪小説で人気を博してきたことにふれて、
>しかしわたしとしてはまづ、十兵衛個人の魅力を重視したい。なかんづく、彼が片目であつたことに注目したい。
>柳田国男の『一目小僧』によるまでもなく、わが民間信仰には、鎌倉権五郎景政とか山本勘助とか、片目の男を尊敬する風があつた。この片目崇拝の習俗は、宗教学者エリアーデも小説に仕組んでゐた記憶があるが、全世界的に存在する、祭の犠牲者に対する御霊信仰の名残りなのであらう。(p.99「剣豪の盛衰」)
って文章があって、そういうのは諸星大二郎ファンの私は、お、一年神主、とかすぐ連想するし、丸谷さんは御霊信仰が好きだなあとか思うんだけど、それで話が終わったと思って、ページをめくると、〔二伸のような文章〕ってのがあって(これ、本書のなかにときどき登場する)、そこに
>ゲゲゲの鬼太郎もこの系譜に属するはず。
ってあったのが妙にツボ。そうかあ、鬼太郎も片目崇拝の流れのなかにあったのかあ。