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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

縦糸横糸

2019-06-08 18:15:53 | 読んだ本

河合隼雄 平成十八年 新潮文庫版
これはことし年明けぐらいに買った中古の文庫、最近やっと読んだ。
1996年から2003年までの、産経新聞大阪版に連載されたコラムをまとめたもので、単行本は平成15年刊行。
そのころの時事ネタを、こうしていまごろ読むと、平成もいろいろあったなあという感じがするが。
当時の世相や事件はともかく、私が関心をもつのは河合先生のものの考え方なんかで、もちろんそれは現在でも通用するものといえる。
1996年ころには、自殺予告って電話をしてくる子どもがいたりして問題になってんだけど、
>一人の子どもが、自分の心のなかの絶望感や苦しさを分かち合う人を、家族、友人、師弟などの人間関係のなかに見出すことができず、不特定多数の人々を騒がせるという形でしか、その心の表現ができない。ここまで、子どもを追い込む社会になっている。(p.40「自殺予告という「表現」」)
なんて分析は、SNSでわざわざ騒ぎになるようなこと発信してるひとたちにもあてはまることだよねえと思う。
また、2001年の時点で、引きこもりについて、
>要するに人間はどこかである程度の「引きこもり」を必要とするのだ。ただ、それをどのような方法でいつするかが問題なのである。(略)
>昔なら大人になるまでにいろいろと「引きこもり」体験ができたのに、それを奪われた人は成人になってから、高利子つきの借金を返すような状態で、相当な「引きこもり」にならざるを得ない。(p.268「「引きこもり」の効用」)
と解説してくれているけど、そうかー、長い人生、成長過程で引きこもりはありうべしなんだー、と納得する。
ほーんと、みんな70歳まで流れに流されるまま働きつづけると、そのあと70代80代になって引きこもるんぢゃねーの、何年か後のこの国では、なんて思ったりして。
引きこもりをある程度肯定することもそうだけど、河合先生は、ものごとの解決を急がない、時間をかけて深く考えましょうというスタンスなのがいい。
マスコミの報じ方にも影響される世論の雰囲気なんかにもふれて、
>スローガンは短絡的思考から生み出されやすい。何かことが起こると、「原因」を明らかにし、その原因を絶滅させる、という単純な発想から国民もジャーナリズムも、もう少し自由になって欲しい。できるだけ早く「悪者」を探し出し、それを叩くことによって溜飲を下げていても、問題の解決からはむしろほど遠いものになっている。(p.27「完全信仰が生む不完全」)
とか、
>じゃあ、どうすればいいのか、ということになるが、一番大切なことは、このようなことは、簡単にその「原因」などわかるはずがない、ということである。原因―結果という一筋の道筋によって、これほどのことを説明したり、納得したりしようとする態度を、まず棄てることだ。「なぜ」と問えば必ず答が返ってくるはずだ、というのは現代人のあさはかな思い込みである。(p.74「「解答を得る」という罠」)
とかって、考え方をきかされると、なんか安心する。
後者なんかは神戸の児童殺害事件に関する言及なんだけど、きっと多くの報道関係者なんかは心理学者のとこへ、短絡的な「結論」を求めにきたと思うんだが、そんな簡単なものぢゃねえよと、専門家こそはハッキリ言うべきなんだろう。
ほかにも、科学と人間の生き方との関わりについて、
>さらに私が気になるのは、仮にそうした医療が法的に認められたとき、ともすると社会が、法的に「正しい」ことだから、だれもがするべきであると、個人の意見をおしやってしまうのではないかということである。(略)
>多くの人が、何が「正しい」かという判断を専門家にまかせて、それに従うという考えを持ちはじめると、人間のたましいが、科学や法律などによって、侵害されることになりかねない。私はそのことを最も恐れている。(p.127-128「「断念」が開く視界」)
と言ってます。
倫理ってのは最終段階ぢゃあ極めて個別性をもつものだ、ってのは大事な考え方ですね。法整備したからって、それが真理ってわけぢゃあない。
そういうのは、専門の深層心理学の基本認識からきてるのかもしれなくて、一般的な学問のかっこをしてるけど、フロイトだってユングだって自分自身の心理を理解しようと始めたことで、自然科学の法則とは違うと。
>深層心理学は他人のことをとやかく言うためではなく、自分を知るために、時にそれがいかに苦痛であっても、役立ててゆくためにできてきたものである。(p.184「深層心理学の使い方」)
って大事な基本線で、知ったかぶりしてこんな幼児体験したからこんな人間ができあがったにちがいない、みたいな理屈の振り回しかたは危険極まりないってことだろう。
あと、ちょっと気になってるのは、宗教についていろいろ触れられているとこで、
>ある人の死は、もっとも内面的、個人的なたましいにかかわることである。(略)
>人間の最も内奥にかかわる体験として、それは宗教の領域になるが、現在の日本では、そのような意味での「宗教的儀式」を規制の宗教によってあげることが困難になっている。(p.30「「葬儀文化」を見つめるとき」)
とか、
>日本人が二十一世紀を考える上で、是非必要と思うのだが、あまり内面的でまったく個人の自由に属すること(略) それは、日本人の宗教性の問題である。(略)
>二十一世紀は「個人」の時代である。しかし、その個人を支えるものは何か。はじめに「宗教性」と書いて「宗教」とは書かなかった。特定の宗派としてではなく、個々人が自分の宗教性を深めることによって、それを見出していくべきだはなかろうか。(p.202-206「「個人」時代の宗教性」)
とかってのを読むと、特定の宗教がどうのこうのぢゃなく、人にとって宗教とはなにかをもうちょっと考えなきゃいかんような気になってきた。
『宗教を知る 人間を知る』という共著があるらしいので、読んでみるかな。

コメント
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