丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士 2010年 文春文庫版
これは去年7月ころだったか、中古で買った文庫、酒飲んでの帰り道に買ったような記憶がある。(正確にいうと、買ったときの記憶はないが。)
三人が集まって、架空の文学全集をつくるという編集会議をしているもの、つくるのは「世界文学全集」と「日本文学全集」の二種類。
元々はどういう関係なのかは知らないが、話し合っているのをみると、作家の名前をあげては、彼は入れたいとか、このひとは要らないとか、あのひとは1/2巻でいい(誰かと合わせて1冊になるの意)とか、侃々諤々。
おなじ作家のどの作品を入れるかについても、これは面白くないとか、私はそれはダメなんだとか、けっこう意見はバラバラ、ずいぶんと好みがちがうものだなと思う、もしかしたらそのほうが偏らなくていいのかもしれないが。
どういう全集をつくるのかという最初のとこで、いまの日本の新人作家は昔の小説を全然読んでないので、小説家をめざすひとのために、って方針がひとつあげられる。
それから、鹿島茂さんの発言で、
>一方で日本では、文学全集は江戸時代までの「四書五経」に代わるようなもの、一つの言葉を共有する社会に入るためのパスポートとされた。そのせいもあって、きわめて倫理的、求道的な姿勢で書物に接する姿勢がありました。現代は求道性など、まったく顧みられない時代ですから、敬遠され、読まれなくなっている。
>ですから、今度、我々が選ぶ文学全集は、従来の求道的なものとはまったく違う基準で作品を選ぶ必要があると思います。(p.16)
ってのがあって、そういう方向性で、いままでの全集になかったような少年少女小説とか、推理小説とか、SFとかもありにしよう、なんなら「十八世紀猥褻、色情小説集」もつくろうかなんて議論にまで発展してく。
鹿島さんは具体的な選定作業においても、「今までの求道的な文学全集の目玉は「カラマーゾフ」だったから、それを外すというのは悪くない気がしますね」(p.56)なんてバッサリやってる。
どうでもいいけど、
>鹿島 フロベールが、ツルゲーネフにトルストイを読むように勧められて、どこが面白いのか全然わからないと手紙に書いてますね。
>三浦 ツルゲーネフはパリで、ロシアの文化的エージェントのような役割をはたしてたからね。そこでさかんにトルストイを売り込んだ。というのはドストエフスキーは嫌な男だったから(笑)。ドストエフスキーは、ツルゲーネフがいなくなって初めて世に出てこられたんですね。(p.57)
なんてのを読むと、文学史ってのは著者名と書名を並べるだけぢゃなく、そういうこと教えてくれればもっと面白いんだよと思う。
あと、この編集会議で興味深いのは、
>三浦 提案ですが、「歌謡集」という巻をつくりましょう。「枯葉」のプレヴェールを入れたいと思って考えたのが歌謡集なんですが、ジョン・レノンとかボブ・ディラン、ジョーン・バエズとかいろいろ入れると面白い巻になりそうですよ。(p.87)
と言ってるとこがあり、単行本は2006年発行だというけれど、その10年後にボブ・ディランが予想外のノーベル文学賞を授与されたことを思うと、先見の明あったんぢゃないかと。
ということで、周縁の文学も積極的にひろって、世界文学全集は全133巻になった。
次いでは日本文学全集の作業なんだけど、ここでの原則は、「いま読んで面白いこと」という宣言がある、「読むに値しないと思ったものは、いくら文学史的に有名でも外す」とかって、いや、なかなか言えないよ。
巻数の目安として、明治以前百巻・明治以後百巻ではどうかという提案もされるが、それに関して、
>で、商売としての本屋が成立したのが十九世紀なんだね。それ以前、つまり出版事業が何らかの公けの力を必要とした段階、それから流布するのに写本が重要だった時代と、印刷で大量生産できるようになった時代とは大きい違いがある。(略)
>(略)だから、文学史の基本的な観点を決める要素として、出版というもののあり方はすごく大きいんだと思う。
>それを考えれば、近現代をグッと遡って西鶴あたりから始めたっていいのかもしれない。
>(略)西鶴の時代には、日本に資本主義が確立しちゃってるんですよ。同時代の西欧の、ルイ十四世とかの段階より、はるかに日本のほうが進んでいた。(p.108-110)
って三浦さんが、本の形で文学史をとらえることの重要性を示して、それに鹿島さんが、
>出版業が成立することによって、読者というものが現われ、その価値観によって逆に作家が選ばれる時代が始まったわけです。(p.111)
と答えてるとこは、文学作品の内容の評なんかより、とても興味深く思えた、書き手の価値観だけで作品ができるんぢゃなくて、買い手の価値観が問題になるってこと。
私がいつも読んで共鳴するようになってきた、丸谷さんの日本文学観みたいなものは、この本でもバシバシ出てて、
>でも、明治、大正、昭和の日本の批評というものは、相手をイヤにさせれば、それでいい、という風潮はかなりあったね。批評の快楽を知らない人たちが批評文を書いたんだね。(p.194)
とか、
>近代日本人が西洋的な個人主義を学ぶことは非常に難しいんだね。(略)
>いかにしてみっともないことをやるか、それが真実の吐露だと思ったわけね。(p.195)
とか、ちょっと変わった切り口としては、
>「あれはエロですから」という言い方が文壇言葉にあるんだよ。(略)
>つまり、エロというものは、色情で売るくだらない小説という意味での文壇的否定用語だった。ただし、それが荷風や谷崎ぐらいまで行くと、今度は逆に引っくり返って、それがいい、ということになる。否定の核心にあるものは日本の純文学の中にある儒教的なものなんですね。(p.271)
とかっていうのは、とても参考になった。
かくして、日本文学全集は、古代から十九世紀までが古事記から樋口一葉までの89巻、二十世紀から戦前までが59巻、戦後が17巻、名作集として近代歌謡集など8巻となった。
ほんとにできたら読んでみたいとは思うが、それこそ一日五冊から読むぐらいの勢いがないと、とても読みきれないんぢゃないかという気がする。