鹿島茂 二〇〇〇年 文藝春秋
丸谷才一の『快楽としての読書 日本篇』で、
>戦前の随筆の主流が清閑を愛して無内容なことを書き綴つたのに対し、近頃のエッセイはずつしりと中身の詰つた、そのくせしやれた行き方を狙ふ。その代表が鹿島茂である。
なんて紹介されていて、読んでみたくなったもの。
どうでもいいけど、去年10月くらいだったか、いろいろのついでにネットで買ったんだけど、文庫本のつもりでいたのに届いたら単行本だった、もちろんよく表示を見ない私の勝手な勘違いなんだけど、手に取ってみない買い物はこういうことがある、いいんだけど別にどっちでも。
丸谷さんのほめるとおりのエッセイ集なんだけど、冒頭の章の書き出しの文が、「私の悪癖のひとつに、やたらに仮説を立てたがるというのがある。」であって、まあだいたいそういうことがいっぱい書かれている。
タイトルのうち、セーラー服については、なぜセーラー服の襟はあんな形をしているのだろうってことと、十九世紀ヨーロッパでは男の着るものだったのに何故日本では女学校の制服に定着してしまったのだろうってことの考察の一章がある。
エッフェル塔については、1925年に、フランスの代表的な金属スクラップ会社が集められ、近々エッフェル塔を解体してスクラップとして売るので入札を行う、っていう筋書きでの詐欺があったってことから始まり、アメリカやイギリスでもそのテの公共建築物売却の手口はいくつもあったってことから、偽札製造機の話も展開される。
著者の専門は十九世紀フランス小説だそうだけど、そのせいだろうけどフランスの話題はけっこうある。
ポリー・プラットの『フランス人この奇妙な人たち』って本を紹介して、
>ポリー・プラットによると、アメリカではミスを認めるのは誠実な証拠、フェア・プレーの精神と評価され、逆に認めないと卑怯なやつと非難されるが、フランスではミスは、恥、弱みと見なされる。だから、自分が間違っているとわかっていても絶対にそれを認めようとはしない。ミスを認めることは人間失格に通じるからだ。(略)
>だから、社会の上から下まで、ミスをしてもそれは自分の責任ではないと言い張る人間ばかりになる。(p.152)
といって、自身も料理店で出されたものが傷んでるって従業員に指摘したら、最後まで認めないで、これが嫌なら別のに取り替えてやろうと言われた、なんて例をだしている。
私はかつての仕事上の限られた接点での数少ないフランス人しか知らないけれど、あー、そーか、全員がそうなんだーって、意を強くしてしまった。間違ったのは認めるけど、直さない、と言われたケースもあったなあ。
一方で、前回の『文学全集を立ちあげる』で鹿島さんは、近代日本文学の一部について、
>もう一つ、日本には社交界が存在していないことが、決定的な問題なんだと思います。社交界というのは、辛辣な意地悪合戦なんだけど、そこにルールが一つある。それは、「みっともないことはしない」ということなんです。これを犯したやつはルール違反で、社交界から追放される。ところが、日本のはみんなみっともないんだよ。
なんて言ってるとこがあったりして、いろんな文明を知っているところからくるんであろう、日本の現象への指摘はけっこうおもしろい。
コンテンツは以下のとおり。
SMと米俵
出世牛
セミとキリギリス
ビデ
皮と革
他人のくそ
由緒正しい戦争
フロイトと「見立て」
牛肉喰いvs.カエル食い
売られたエッフェル塔
消えた便所
愛とはオッパイである
長茎ランナウェイ学説
ナポレオンの片手
情死はソフトの借用?
平均顔
ウソは夢を含む
セーラー服の神話
緑の妖精
黙読とポルノ
「グサッ」と聖性
贋作の情熱
パリの焼き鳥横丁
「男」はつらいよ
ティッピング・ポイント
紅茶vs.珈琲